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【渡辺守綱】
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守綱の戦歴
渡辺守綱が参加した家康の主な戦いは以下の通りです。
ざっと短評を入れつつ振り返ってみますと……。
◆元亀元年(1570年)姉川の戦い
→浅井長政に裏切られて窮地を脱出した織田信長が軍を立て直して浅井朝倉軍と対立するところに家康も加わり織田徳川連合軍の勝利となる
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◆元亀三年(1573年)三方ヶ原の戦い
→西上作戦を進める武田信玄を家康が追いかけ、三方ヶ原で両軍激戦となり、家康は惨敗を喫する
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◆天正三年(1575年)長篠の戦い→
武田軍に囲まれた長篠城救出のため織田徳川連合軍が出向き、設楽ヶ原で向かい合った武田軍に痛打を与えて撃破する
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◆天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦い→
織田家を制した豊臣秀吉が天正壬午の乱で旧・武田の勢力を取り込み勢いづく家康と真っ向から対陣するも長丁場となり最終的には和睦で秀吉の勝利
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◆慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い
→会津の上杉討伐に出向いた家康率いる東軍に対し、石田三成の西軍が蜂起し関ヶ原で激突し、わずか一日で東軍勝利に決する
このうち三方ヶ原や長久手の戦い、あるいは小田原征伐でも目覚ましい活躍を遂げ、そのたびに領地や配下を与えられています。
いずれの戦も、守綱よりも派手なエピソードを持つ武将がクローズアップされる傾向にあり、注目されることはあまりないのですが……。
弟の渡辺半十郎政綱も長篠の戦いで真田信綱(真田昌幸の兄)を討ち取っていますし、武勇に優れた一族であったことは間違いないでしょう。
上杉征伐では、これまでの功績を賞して家康から南蛮鎧を与えられ、さらに配下を増やされ、関ヶ原の戦い本線では、家康に対し本陣を高所に移すことを献言したとか。
家康九男・義直の補佐として
関ヶ原に勝利して、政権を盤石なものにしていく家康。
一方、渡辺守綱はそのころどうしていたか?
というと、独り立ちしたばかりの家康九男・徳川義直の補佐として、尾張藩を支えていくことになりました。
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このとき家康は、守綱に向けてこんなことを言ったとされます。
「義直はまだ幼少なので、至らないところも多い。仕える側はいろいろと心を砕くことになるだろう。もしうまくいかないようなら、再び旗本として召し抱える」
尾張はもともと、家康の四男・松平忠吉が領していました。
しかし、若くして病死してしまい、他の兄たちも故人あるいは乱行等によって尾張を任せられる状況ではなく、そのため、当時7歳の義直が尾張の主に選ばれたのです。
さすがに家康も心配になったのでしょう。
守綱は、家康から5000石を与えられ、さらに義直からも5000石を受けて、計1万4000石という所領を得ています。ちょっとした大名並みですね。
義直は家康が亡くなるまで駿府で育てられていたためか、守綱が手を焼かされるということもなかったようです。
亡くなるまで尾張藩の家臣
無事に成長した主・徳川義直と共に、渡辺守綱は、慶長19~20年(1614~1615年)の【大坂の陣】にも参戦。
このとき嫡子・渡辺重綱も先手として出陣しています。
幸い家康の懸念は外れ、守綱が旗本として出戻ることはありませんでした。
そして前述の通り、家康より長生きして、元和六年(1620年)4月9日に亡くなるまで、尾張藩の家臣でいたようです。
亡くなった場所には諸説あり、その後、守綱の嫡流も、代々尾張徳川家に仕えていきました。
弟・政綱、次男・宗綱、嫡子重綱の五男・吉綱などからは枝分かれしていますので、渡辺氏はまさに末広がりに栄えていったといえるでしょう。
一向一揆の件以外は絵に描いたような忠臣ぶりで、特にツッコミどころもありません。
守綱のような忠義に厚いタイプが数多くいたからこそ、家康が幕府を創設できたのは疑いのないところでしょう。
後世の我々から見て、少し地味に思える人こそが、歴史や政治を支える上で一番重要なのかもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon)