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【大久保長安】
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徳川家臣としてインフラ整備に尽す
大久保長安は、徳川家に仕えてからも、武功ではなくインフラ整備で手腕を求められました。
似たようなタイプの武将として、主に治水事業で江戸の都市整備に貢献した伊奈忠次が挙げられるでしょう。
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天正18年(1590年)の【小田原征伐】の後、家康は北条領であった関東を有することとなります。
長安は検地などで才を発揮し、関東の統治で大活躍。
その功績が認められ、天正19年(1591年)には八王子を賜ります。
八王子では、街の基盤を作り上げた偉人として今も長安が顕彰されていますが、関東の治安を担った【八王子同心】も彼が生み出した制度です。
当時の関東は、北条氏の残党があぶれていて、治安が極めて悪化していたとされます。
それを回復させることも重要な役目であり、江戸とその周辺を整備しながら、東国に政権を置く幕府の都市づくりを進めていったのです。
勝手知ったる甲斐の再建復興も、長安の出番でした。
慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】では、伊奈忠次らと共に徳川秀忠の輜重を担い、家康が勝利をおさめると、長安の役目はますます重要なものとなります。
例えば豊臣政権が管理していた金山銀山の管理。
莫大な富がもたらされ、その経営を担うのは非常に重要な役割でしたが、こうした財政に関わる役回りは“贈収賄の疑念“が抱かれることと表裏一体となります。
慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍となりました。
長安も従五位下石見守に叙任。
家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられています。
父子で流浪していたことを考えると目覚ましい出世であり、最初期の江戸幕府において、基礎を築くための様々な役割を命じられました。
その中で長安は、諸大名と子息の姻戚関係を結びました。松平忠輝と、伊達政宗の娘である五郎八姫との婚姻まで勧めたとされます。
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家康派と秀忠派 その譜代同士の争い
大久保長安は、大久保忠隣の与力も務めていました。
この大久保忠隣とライバル関係にあったのが本多正純。
大河ドラマ『どうする家康』でも大坂の陣で大筒発射の指揮をとるなどして活躍が目立っていたので印象に残っている方も多いでしょうか。
父はあの本多正信であり、大久保たちとの力関係はこうなります。
◆江戸幕府初期の権力構造
【江戸】
徳川秀忠
大久保忠憐
大久保長安
【駿府】
徳川家康
本多正純
岡本大八
江戸と駿府の間で静かな緊張感が漂う最中の慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて、駿府に打撃を与える【岡本大八事件】が起きます。
本多正純の与力だった岡本大八が贈収賄に絡んで失脚。
正純にとって痛恨となったこの【岡本大八事件】は、南蛮貿易による利益も絡み、背後で大久保長安が関わっていたともされます。
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結果、正純は腹心を失っただけではなく、事件の過程でキリシタンがいると明かされ、大打撃を受けました。
しかし、です。
当の大久保長安も翌慶長18年(1613年)、このパワーゲームの最中に中風で倒れ、亡くなってしまうのです。
享年69。
時折しも【大坂の陣】直前のことですが、大久保長安の死は、恐るべき事態に発展するのでした。
世に知られる【大久保長安事件】です。
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