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【松平定政の生涯】
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由比正雪の乱の一因とされた!?
実害とは他でもありません。
騒動直後の慶安4年(1651年)4月に【由比正雪の乱】が勃発したのです。
※以下は「由比正雪の乱」関連記事となります
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これじゃ成功するわけねぇ!由比正雪の乱は計画があまりに杜撰でアッサリ鎮圧
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由比正雪の乱は、かなり大雑把な計画だったため、クーデターとしては全く成功しておりません。
しかし、由比正雪が行動を起こした理由として、
「松平定政が、人々を救済しようとして起こした行動(領地返上等)を幕府が無碍に扱った」
ということが挙げられていたのです。
同時に、当時の権力者である「知恵伊豆」こと松平信綱への批判も含まれておりました。
三人の息子達は江戸に戻って旗本に
寛文12年(1672年)、定政は預かりの身のまま、松山で生涯を閉じました。
享年63。
三人の息子達は許され、江戸に戻って旗本になっています。
血筋が絶えてしまった人もいますが、この経緯では許されただけまだマシかもしれません。
将軍の親族としては奈落の底に真っ逆さまといっても過言ではありませんけども。
ついでに言うと、定政の出家から9年後には、定政の姪の婿だった大名・堀田正信がやっぱり突然領地を返上し、同じく幕府を怒らせました。

堀田正信/wikipediaより引用
模倣犯っていつの時代もいるもんなんですね。
家康イトコの水野勝成も父親に勘当されて全国を放浪するなど、かなりぶっ飛んでいましたが、水野も松平も、家康の親戚ってなかなか個性的で面白いですよね。
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【参考】
国史大辞典
『御家断絶―改易大名の末路 (別冊歴史読本 15)』(→amazon)
松平定政/Wikipedia






