豊臣秀長/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉を支えた偉大過ぎるNO.2豊臣秀長(羽柴秀長)天下統一への功績とは

歴史で「兄弟」や「親戚」の話になると、それだけでもう血生臭い話題になりがちです。

が、ごく稀に例外もいて、日本でいえば豊臣秀吉と、その弟・豊臣秀長(羽柴秀長)もその代表になるのではないでしょうか。

豊臣秀長が天正十九年(1591年)1月22日に亡くなってから「秀吉の暴走が始まった」とも囁かれたりします。

つまりそれだけ兄を支えていた――というわけですが、具体的に何をやっていたのか?というと意外とご存じない方もおられるかもしれません。

豊臣秀長の生涯を見て参りましょう。

 

豊臣秀長と秀吉15年ぶりの再会

秀長は天文九年(1540年)、尾張に生まれました。
兄・秀吉とは三歳差で、父親が同じなのかどうかについては、はっきりしていません(2019年現在)。

当時にしては歳の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、幼少期のエピソードはないようです。

再会するのは秀吉がねねと結婚した後、永禄五年(1562年)のこと。
秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらい後の話です。

秀長は兄が来るまで、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。

22歳になっていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子供の2~3人いてもおかしくないところ。しかし、秀長にはどちらもいませんでした。

これが後に、彼や豊臣家の運命を左右することになります。

なぜ秀吉がいきなり弟に会いに来たのか?
というと、切実に家来が足りなくなっていたからです。

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この頃、秀吉は足軽組頭となり、数十人程度の部下を持っていました。

元が百姓であること。
何のコネもなかったであろうことを考えれば、これだけでも相当な出世といえます。

しかし、もっと上を目指すのなら、信頼できる家臣を一人でも増やさねばなりません。

そこで真っ先に候補に上がるのは血縁者。秀吉には男きょうだいが秀長しかいなかったので、召し抱えにやってきた……というわけです。

 

家臣たちの細かなケアを請け負っていた

秀長は若い頃からもともと温厚な人だったようで、秀吉の部下たちともすぐに打ち解けました。

大所帯になると、とかく揉め事が起きやすいもの。
ちょっとしたケンカや禄(給料)への不満など、些細な不満が積もり積もって大爆発……などという話は、枚挙に暇がありません。

個々人の感情のぶつかり合いは防げませんが、禄に対する不満は主人が解決してやれる可能性があります。給料が高ければ高いほど喜ぶのは、戦国人でも現代人でも同じです。

秀吉も秀長もそれをわかっておりました。

秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、遮二無二動かねばなりません。
調略や工作などで、留守にすることも珍しくない。となると、細かいところに目が行き届かないことも多々あったでしょう。

そういうところのフォローをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続きました。

ちなみに、秀吉は姉妹の夫や義兄(妻・ねねの兄)なども家臣に加えていましたが、やはり農民から侍への転身はうまくいかず、秀長ほどの活躍はできておりません。

 

金ヶ崎の撤退戦でも兄を補佐して活躍

この頃、秀吉の主である織田信長は、美濃の斎藤氏攻略へ向けて動いていた時期でした。

※尾張を完全に統一したのが1565年で美濃を陥落させるのが1567年

まずは東美濃の有力な武士たちに工作を仕掛け、引き抜いて織田氏につかせています。
この調略に、秀吉は少なからぬ功績を挙げ、2000人ほどの部下を抱えるようになりました。

真偽はさておき「墨俣一夜城」の伝説はこの頃のものです。

ちょっとした城(砦)なら普請できる程度の家臣がいたからこそ、そのような英雄譚が生まれたわけですね。

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1567年に斎藤氏攻略が成功し、翌1568年に将軍・足利義昭を奉じての上洛戦が終わると、信長は京都での政務もするようになります。

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京都で活動する吏僚や警護役の武将を残しているのですが、その中に秀吉も含まれていました。
となると、もちろん秀長も京都で過ごすことが多くなったでしょう。

浅井長政に裏切られ、命からがら撤退した【金ヶ崎の退き口】では、秀吉隊の一員として殿しんがりを務めていました。これによって秀吉は信長から黄金20枚を褒美にもらっていますが、秀長の働きも大きなものだったと考えられています。

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秀長は殿隊の中でも最も重要な、最後尾を担当していました。

秀吉から「信長様が出発して二刻(約四時間)だけ粘り、その後は粘らずさっと退いて、俺に追いつくように」と命じられてその通りに動き、見事役目を果たしたのです。
はっきりした記録はないものの、黄金20枚のうちいくらかは秀長にも分け与えられたことでしょう。

 

半兵衛と共に信長にも信頼されていた!?

浅井長政裏切りの報復戦として【姉川の戦い】が終わると、秀吉は浅井領から織田領になったばかりの横山城(長浜市)を任されます。もちろん、秀長も同行していました。

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しかし、秀吉は京都での仕事がなくなったわけではなかったので、頻繁に城と行き来せねばなりません。また、浅井氏の攻略までの間にもいくつかの戦があり、秀吉は信長に従ってあちこちへ出陣しています。

こうなると、城主であっても城にいるのはほんの僅かな時間だけ。やはりそういうときには、旧領を取り戻そうとする浅井方の動きが多くなります。

秀長は、竹中半兵衛(重治)と共に浅井方をよく迎撃し、城を守りました。

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半兵衛が秀吉の下に来たのは姉川の戦いの前だといわれていますし、当然それは信長も知るところ。

軍記物等では「秀吉が三顧の礼をして半兵衛を幕下に迎え入れた」とか「半兵衛が秀吉の将来性を見出して、信長ではなく秀吉に仕えたいと言った」ということになっていますが、現在では「信長が秀吉の部下として半兵衛をつけた」という説が有力です。

となると、信長は秀吉本人を評価するとともに「秀長や半兵衛がいれば、秀吉が留守にしているときも横山を守りきれる」と判断し、この地を任せたのでしょう。

 

浅井攻めで大きな戦功! 農民の扱いにも長けていた

天正元年(1573年)夏。
浅井氏の本拠・小谷城を攻めるときには、秀長も留守居ではなく参戦しました。

このときの秀吉隊は、裏側から城に攻め込み、本丸と京極丸を分断するという大役を与えられます。秀吉は弟に、その一番手を命じました。

そしてこの大仕事を秀長は見事に完遂します。
落城寸前には蜂須賀小六と共に浅井長政の下へ出向き、長政へ嫁いでいたお市の方と三人の娘たちを織田方に引き渡すよう、説得しています。

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こうして小谷城攻めにおいて、いくつもの功績を挙げた秀吉隊。
当然、褒美は大きなものでした。

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秀吉は小谷城と周辺の三郡を与えられ、12万石の大名となります。しかし小谷城は典型的な山城でしたので、平時の統治には向きません。

そこで秀吉は、琵琶湖に近い今浜の地に新しい城を築くことにしました。また、信長から一字貰う形で、今浜を「長浜」と改めています。

築城というのは大規模な公共事業のようなものですから、周辺の農民を徴用するのが普通でした。それでは農業が立ち行かなくなりかねません。

ですので、秀吉は「工事は二年間、その間に工事へ参加した農民は税や年貢を免除する」という条件を出しました。

田畑を家の者に任せて、自分は工事に行けば税の負担が大幅に減るのですから、これが農民に大人気。あまりに人が来るので、逆に規制するほどだったといいます。

この辺りのさじ加減は、農民生活の長かった豊臣秀長の経験も活かされたと目されます。

 

戦国一の転職王・高虎とも相性バッチリ!

秀吉も大名となったからには、これよりもさらに多くの家臣を召し抱えないと、仕事が回りません。
秀吉の重臣である秀長にも、相応の人手が必要になります。

この時期に秀長の家臣となった人のうち、有名なのがあの藤堂高虎です。

この二人、能力もさることながら、性格的にも非常に相性のいい主従でした。
詳しいエピソードについては、高虎の記事をご参照ください。

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この辺りからしばらく、秀長個人の功績と確定できる話題は間が空きます。

長篠の戦い】や【越前一向一揆】、あるいは【安土城普請】などに秀吉が参加していますので、当然、秀長もその手足となって働いていたでしょう。
安土城普請の際は、信長から秀長への褒美として、小袖(着物)が与えられています。

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また、秀吉が越前へ出陣している間に起きた天正2年(1574年)の長島一向一揆との戦では、秀長が代理として参戦していました。

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この戦は、たびたび一揆勢に辛酸を嘗めさせられていた信長が、「今度こそ!」と気合を入れてとりかかったものです。
織田家の総力を結集したといっても過言ではない陣容でしたが、それだけに抵抗も大きく、織田氏の親族も多数討死しました。

 

生野銀山への攻撃を進言

天正五年(1577年)には、能登七尾城からの救援要請に応じ、北陸へ出陣する軍の一員として加わっています。

しかし、このときは秀吉が総大将の柴田勝家と仲違いし、途中で勝手に引き返してしまったため、戦功は挙げていません。
当然、秀吉は信長から大目玉を食らいました。安土へ詫びを入れにいくときも、秀長が同行していたといいます。

柴田勝家は、秀吉のいなくなった後、上杉謙信を相手に【手取川の戦い】で大敗しますが、幸い、このとき大きな処罰はありませんでした。

むろん、秀吉の立場からすると、甘えてはいられません。次に何らかの失態を演じれば、間違いなく処分が下ったでしょう。

そこで、秀吉は中国地方攻略のために奔走します。
その柱となったのが秀長と竹中半兵衛でした。彼らは秀吉に先行する形で中国に赴き、現地の情勢を調べて戦略を立てます。

カギとなったのは、生野銀山でした。

平安時代から採掘されていたともいわれる、非常に歴史の古い銀山です。
また、当時の通貨としても銀は重宝されていましたから、ここを得るだけでも十分な手柄といえます。

秀長は「まず生野銀山を手に入れましょう」と秀吉に勧め、そのため但馬攻略をすべきと進言。秀吉は納得し、秀長に但馬の諸城を攻略させます。

秀長は城を攻め落としはしたものの、地侍たちの所領を安堵し、寛大な態度を見せたので、うまく事が進んだようです。
そのため、生野銀山の採掘にもすぐに着手できました。

 

鳥取城攻撃の総大将

天正六年(1578年)からは、毛利氏に通じた別所長治を討つため、三木城(三木市)攻略に取り掛かります。

さらに、三木城攻略に参加していた荒木村重が謀反を起こし、それに呼応して丹波の波多野氏が裏切るなど、秀吉軍は多忙を極めました。
目まぐるしく情勢が変わる中、秀長は波多野攻めを担当しています。

そして天正八年(1580年)1月。
長治が自害したことで、ようやく三木城攻略(三木合戦)は終結します。

これによって播磨を手中に収めた秀吉は、姫路に城を築いて足がかりにしようと考えました。

一方、秀長は天正九年(1581年)6月、鳥取城攻撃の総大将として出陣します。

この戦は「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる苛烈な兵糧攻めで有名ですが、実は秀長の献策によるものだったという説も。

どうすれば付近の住民たちを城へ追い込み、兵糧の消費を早めることができるか。秀長の出自が農民であるだけに、その辺もうまくやっていたのかもしれません。

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続いて備中高松城の水攻めが始まりますが、こればかりは守将の清水宗治が勇将だったこともあり、一筋縄では行きませんでした。そして……。
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