大河ドラマ真田丸の舞台にもなったことで注目された名護屋城。
天下を統一し、明国攻めに挑もうという豊臣秀吉が大本営に指定したのは、尾張の名古屋ではなく、九州は肥前松浦郡の名護屋でした。
なぜこんな辺鄙な土地なの?
※地元の方々すみません
博多じゃダメだったんすか?
名護屋に巨大城郭を構えるなんてそもそも無駄じゃない?
と、次々に湧いてくる疑問を探っていくと、実は、この城が空前絶後の前線基地にして、更には加藤清正をはじめとする秀吉子飼いの武将たちの「秀吉愛」に満ち溢れた城だったことが分かります。
早速、見てまいりましょう!
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【TOP画像】復元された名護屋城・佐賀県立名護屋城博物館公式サイトより引用
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名護屋城~軍事力を誇示する必要があった
まず秀吉の「唐入り」の目的ですが……。
誇大妄想に取り憑かれたとか、戦国大名たちのガス抜きとか色々と云われていますよね。
残念ながら明確な理由は不明です。
しかし、明国を武力で屈服させようと考え、実行に移したことだけは事実。秀吉の入明の目的は貿易ではなく武力で支配下に置くことですので、大量の兵力を動員して軍事力を誇示する必要がありました。
大量の兵力を中国大陸まで輸送するには、危険な渡海の距離はできるだけ短く、まずは効率良く“上陸”させてしまうことが重要です。
そのため、朝鮮半島南部にさっさと上陸する【陸上ルート】の確保が求められました。
日明貿易のルートである、堺から瀬戸内海、下関を通過して博多から東シナ海を西に進み、寧波に向かう【海上ルート】は、敢えて避けたと考えられます。

©2016Google,ZENRIN
釜山まで120キロ 途中に壱岐と対馬の2つの島
【日本―朝鮮半島】間で最も直線かつ安全な最短ルートは、北部九州から壱岐・対馬などの島を経由して釜山方面に向かうルートです。
最初の主戦場は朝鮮半島の上陸地点になりますので、対馬の出発地点までは兵力や兵糧を脱落させることなく安全に運び込まなければなりません。
安全に運び込むためには海上で方角を見失ったり、悪天候で漂流するリスクの少ない海路が必須となります。
そのためには対岸の島を視認しながら航海できる場所がスタート地点に最適。このように全く合理的な理由から選ばれたのが名護屋でした。
距離にして、釜山まで120キロ余りあります。
が、途中に壱岐、対馬という二つの大きな島があり、朝鮮半島へ確実に上陸できる最短ルートの起点だったのです。
ただ、いくら地政学的に合理的とはいえ、何もない土地に巨大城郭を造るのは現実的ではありません。
これをやってのけてしまったのが秀吉の官僚たち。石田三成をはじめとする合理性の塊のような官僚組もまた秀吉子飼いの武将たちであり、秀吉のためなら一見矛盾するプロジェクトも強引に成し遂げてしまうのです。
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兵站管理のため名島城を築城
さて、日本国内の兵站を考えると、物流と商業の拠点で中洲の歓楽街も備える……おっとこれは現代の話ですが、ともかくビジネスセンター博多に本陣が置かれてもおかしくないと思います。
【文禄・慶長の役】のとき、博多はあくまで後方の兵站基地として置かれます。
兵站を管理する城として、使用されたのが博多の街の東にある「名島城」。
秀吉の命令によって毛利元就の三男・小早川隆景が築城したのですが、九州で初めての総石垣を伴った織豊系城郭と云われています。
後年、黒田長政が福岡城を築城する際は、この名島城の石垣から石を剥ぎ取り、福岡城に転用しました。

福岡城(名島城の石垣が運ばれました)

後に福岡城に移築された名島城の門
城から直接、船で出撃できる縄張りになっている
名島城は海に突き出た海城です。
小早川隆景といえば、頭が良くて親が金持ち、しかもとてもいいヤツ!
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そんなイメージ(個人の感想です)で、毛利家の瀬戸内方面を水軍で管轄、同家躍進の決定的な戦となった【厳島の戦い】や、織田信長の水軍を手玉にとって大坂の石山本願寺に兵糧を運び入れた「木津川河口」で数々の武功を挙げた海の戦いのプロです。
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最終的には信長の鉄船(実在したかどうかは不明)に敗れてしまいますが……。
この海の戦いのプロが築城した名島城は、城から直接、船で出撃できる縄張りになっており、名護屋城や朝鮮半島方面の兵站を担う城として活躍しました。
ちなみに「縄張り」とは、お城の堀や門、曲輪などを配置するための設計図です。「縄打(なわうち)」とも言います。
城を建てるときは、この「縄張」を考えるのが一番ワクワクする瞬間だったでしょうし、現代の我々にとっても当時を考えるのに最も重要なアイテムの一つです。

名島城の縄張り
話を名島城と名護屋城に戻しましょう。
輸送の最前線にあった名護屋城。その後方支援のための名島城は、九州各地から物資が集まる博多に近いだけでなく、大坂から瀬戸内海を通り、博多までの海上輸送ルートが既に確立されていた――ということが重要です。
航海の大部分を占める瀬戸内から下関への海上輸送を考えると、同地方の海を誰よりもよく知る小早川隆景が名島城主になっていたというのも、非常に理に適った選択。
秀吉含め、当時の豊臣政権の本気さが伝わってきますね。
韓国に築いた「倭城」……蔚山城や西生浦城など
以下の地図をご覧ください。

©2016Google,ZENRIN
名護屋城を拠点に、壱岐に渡ると島の北部に「勝本城(別名「風本城」)」があります。
秀吉が、この地の領主・松浦鎮信に命じて築城させた織豊系の石垣城です。
さらに対馬には、壱岐方面にある厳原(いづはら)港を見渡せる山に「清水山城」があり、対馬の北部、ココからはいよいよ朝鮮半島へ出撃!という港に「撃方山城(うつかたやまじょう)」という最前線の城があります。
これら対馬の城もすべて秀吉の命令で、最新の石垣技術により改修された織豊系の城郭です。
撃方山城の麓にある大浦湾を出発して、朝鮮半島南部に上陸した日本の諸将は、半島に橋頭堡を築くため朝鮮各地にも最新技術で城を築きます。
韓国では「倭城」と呼ばれ、加藤清正の「蔚山城」や「西生浦城」が有名。
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石を垂直に積む明や朝鮮式の石垣とは違い、傾斜をつけて積み上げる日本独特の石垣建設には強度があり、朝鮮半島には無い日本独自の築城術(なので韓国ではあえて「倭城」と呼びます)として、朝鮮半島の城とは明確に分類されています。

石垣の傾斜は日本の城の特徴でした
このように、秀吉の城郭戦略は、名護屋城を大本営として朝鮮半島までの最短コースを確保。
後方の補給基地に名島城、前線のつなぎの城として壱岐に「勝本城」、対馬に「清水山城」と「撃方山城」を配し、さらには上陸先の朝鮮半島南部・各地に最前線の城を築きました。
名護屋城の周辺には、全国の大名が名護屋城を取り囲むように陣所を構え、城下町もできるほどの賑わいを見せました。
城内では茶会や、大河ドラマでも放映された仮装大会(真田昌幸と豊臣秀吉の演目「瓜売」が被ったお話)が行われたり、遊興の場としても盛り上がりを見せました。
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しかし、忘れてならないのは、名護屋城はあくまで明国攻めの軍事基地であるということです。
西国一の商業地・博多とは一線を画す「戦いのための城」だったことを今一度念頭に入れ、次へ進みましょう。
大坂城に次ぐ日本で二番目の大城郭・名護屋城
名護屋城は築城当時、大坂城に次ぐ日本で“二番目”の大城郭でした。
小高い山の上に築城されていて、ここから玄界灘を見渡すこともでき、さらには波の音が聞こえるリゾートホテルばりのオーシャンビュー♪

名護屋城天守台
しかし不思議なことがあります。
実際に、名護屋城を訪れたことがある人は分かると思いますが、現代でも陸地を通って同城跡に向かうルートは、狭く起伏の多い道になります(唐津から先)。
城には必ずそこに築かれた理由がありますが、何故こんな辺境の地(地元の方々、ほんとに何度もすみません)なのか。半島への渡海最短ルートとはいえ、この地に秀吉が豪華な城を築城したのが不思議でならないのです。
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