関ヶ原の戦いで敗れた、西軍の実質的大将である石田三成。
伊吹山中へ落ち延びた三成は、数日後に捕らえられますが、実はこの戦いの趨勢に、ある病気が影響したかもしれない――という話をご存知でしょうか?
今回のテーマは「石田三成と下痢」です。
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3杯のお茶エピソードから見ると気遣いの人だった!?
石田三成は永禄3年(1560年)の近江生まれ。
天正2年(1577年)頃から父・兄と共に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え始めました。
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奉公前の三成がまだ寺の小僧だった頃、当時長浜城主である秀吉に3杯のお茶を出した逸話は戦国ファンには大変有名でしょう。
鷹狩りでノドが乾いていた秀吉が寺に立ち寄った際、最初はぬるいお茶、次にやや熱いお茶、そして最後に熱いお茶を出し、その細やかな心遣いを買われた――というものです。
後に加藤清正などと揉めることを考えると、このときの気遣いはドコいった?と言いたくなってしまいますし、そもそも三献の茶エピソードが事実ではなさそう……というのはさておき。
秀吉の側近として頭角を現した三成は、その後【太閤検地】や【刀狩り】などの政策を立案実行。
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文禄4年(1595年)には秀吉から近江佐和山19万4,000石を与えられ大名としても出世しております。
ただ、イメージとしては凄腕の官僚ってところでしょうか。
実際、五奉行の一人ですしね。
一方で戦場での槍働きがイマイチとされていて、脳筋バリバリな武将には嫌われており、特に朝鮮出兵では現場との意見が折り合わず、加藤清正らとの対立関係は非常に根深いものとなってしまいました。
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日大早川先生の説では「過敏性腸症候群」が疑わしい
秀吉の死後、家康に睨みを利かせていた前田利家が亡くなると、三成は清正や福島正則などの武断派に襲われ、それを契機に五奉行引退へと追い込まれます。
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しかし、慶長5年(1600年)7月に家康の会津征伐がはじまると、弾劾状を出して家康に戦線布告、かくして天下分け目【関ヶ原の戦い】がはじまるのでした。じゃじゃじゃーん。
結果、毛利は動かず、小早川秀秋は裏切り、脇坂なんかも寝返ってで西軍敗北。
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このときの敗因の一つに
「三成がお腹を壊していたから」
とあるのをご存知でしたか?
関ヶ原当時40歳の三成は、親友の大谷吉継と違い、特に持病があったような記録はございません。
ただ、合戦前日からお腹の調子は悪かったようで。この場合、最も疑わしいのは食中毒です。
が、あの三成が大事な合戦の前に当たりそうなものを食べるとは思えません。普段いい加減な私ですら国家試験の数日前からは刺身などの生モノを避け、暴飲暴食をせずその日に備えました。
では、三成が下痢をした原因はなんでしょうか?
日本大学の早川智先生の説では「過敏性腸症候群」が疑わしいとのことです。
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