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【小西行長】
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犬猿の仲だった清正と肥後を分け合う形で
天正15年(1587年)。
豊臣秀吉は伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を出しました。
キリスト教の弾圧を命じたのです。
これまで蜜月で上り詰めてきた行長にとっては由々しき事態。
信仰心と同時に利権も絡んでおり、おいそれと手を切ることはできません。
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どう対処したのか?
なんと所領に滞在していた宣教師を一度退去させたように見せかけて、かくまったのです。
秀吉への「反抗」ともとれます。
非常に厄介な状態でした。
貿易を独占していたイエズス会とのつながりは、行長にとって生命線。
表向きは秀吉に服従しながらも、実際はキリシタンをかくまうことで、貿易時のイエズス会宣教師の仲介を確保したのです。
こうした綱渡りの努力は実を結びました。
肥後の半分12万石を与えられたのです。
しかし、これまた単純に喜べる話でもなく、肥後の残り半分の知行地には、行長と犬猿の仲だった加藤清正が赴任してくるのでした。
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勘の良い方でしたらもうピンと来られたでしょうか。
秀吉が心密かに抱いていたであろう朝鮮出兵。
小西行長は、加藤清正と共にその先鋒として大活躍を果たします。
肥後(熊本県)という血に置かれたのは、前線基地としての赴任地だったのですね。
大失態が秀吉にバレたにもかかわらず
朝鮮出兵の先鋒として、行長はさらなる活躍をします。
1592年、清正と共に朝鮮半島の最前線まで軍を進めるのです。
しかし、戦況の膠着、停滞に伴い、これ以上の戦線維持は不可能と判断。
中国・明の将軍と密約をし、和平交渉を進めてしまいます。むろん秀吉に断りなくです。
秀吉の条件は、中国・明の降伏という強硬なものでしたが、それが現実的ではないと判断したからでしょう。
この事実を知った秀吉は激怒し、1597年、2度目の朝鮮出兵を命じます。
行長はこの「大失態」にもかかわらず、周囲の執り成しなどもあって、秀吉に罰せられた形跡がありません。
ちょっとした手違いで改易に処された他の大名や武将を考えるとフシギでなりませんが、もしかしたら朝鮮半島での活躍や、商人、水軍としての実力を引き続き重視されていたからかもしれません。
そして二度目の朝鮮出兵は、秀吉の死去に伴い中断され、ようやく終焉を迎えました。
秀吉の死後、徳川家康と石田三成との二つに分かれた天下分け目の関ヶ原が勃発。
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西軍についた行長は、東軍の寺沢広高隊に敗北し、山中でとらえられ、三成らとともに京都の六条河原で斬首されました。
キリシタンの教義に反するため、自害を拒否したといわれています。
それが慶長5年10月1日、新暦で1600年11月6日のことでした。
キリシタンを「利用」して出世の足掛かりとしたしたたかなキリシタン大名・小西行長。
最期は篤い信仰心を抱き、命を全うするのでした。
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文:佐久間 風
【参考】
鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像 (史料で読む戦国史)』(→amazon)