かつては【朝鮮出兵】とも呼ばれ、豊臣政権の滅亡へ繋がったとも囁かれる【文禄・慶長の役】。
開戦当初は、加藤清正らの活躍華々しく一気に半島深くまで攻め込みながら、結局は伸び切った戦線を維持できず、戦場では石田三成らへの憎悪も生まれ、秀吉が死ぬとようやく停戦――。
そんな印象を抱いている方が多いでしょう。
と同時に、皆さんこんな疑問をお持ちではありませんか?
なぜ豊臣秀吉は朝鮮へ攻め込み、無謀な戦いを強行したのか?
そもそも無謀な戦いだったのか?
文禄・慶長の役を振り返ってみましょう。
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文禄・慶長の役 5W1H
【文禄・慶長の役】とは、どんな戦いとなったのか?
なぜ秀吉は戦いを始めたのか?
まずは基本の5W1Hから確認してみましょう。
When(いつ?):天正20年4月13日(1592年5月24日)~文禄2年7月9日(1593年8月5日)
Where(どこで?):朝鮮半島
Who(だれが?):豊臣秀吉
What(何を?):明を征服する
Why(なぜ?):後述
How(どのように?):武力制圧
明を武力制圧するため、朝鮮へ出兵する――。
一行で書いてしまえば「そうなのか……」という話かもしれませんが、実はこれ、歴史的にはあまりに突拍子な出来事でした。
とにかく発想からして異様なものであり、国内の天下統一を成し遂げたから外征に向かおう!なんて考えは、日本だけでなく、中国や朝鮮半島の支配者にもありません。
「大河ドラマなどで、この出来事が取り上げにくいのは韓国に反発されるから」
そんな指摘もあったりしますが、そもそも歴史上の事件として取り扱いが非常に難しい。
惣無事令で日本を制圧した秀吉が、海外への野望を抱いたのは、奥羽を押さえ戦備を整えたとき辺りからとも指摘されます。
しかし、足軽から天下人にまでなった聡明な人物が、なぜこんな無茶苦茶な戦いを始めたのか、というのはとにかくナゾ。
動機としては次のようなものが挙げられます。
・金銀の採掘が進み、日本には十分富がある!と自信過剰になった
・【文官上位】の明や朝鮮は、弓馬の道を極めた武士の国である日本よりも文弱であるという偏見を抱いた
・【大航海時代】で海洋進出してきたスペインやポルトガルに影響された
・鶴松の死による絶望感を晴らしたかった
・織田信長の遺志を継ぐという可能性
こう理路整然と並べられると、開戦に踏み切った秀吉の気持ちも少しはわかるような気もしてきますが、それでも理解できない要素は多々あります。
いくつか挙げてみましょう。
・天下統一を成し遂げたとはいえ、豊臣政権存続のため他にすべきことは大量にあったはず
・この兵力があれば、それこそ徳川家康を潰せたのでは?
・合戦における秀吉の強みは「磐石な兵站」のはずなのに、なぜ杜撰な計画が押し通されたのか
・誰も秀吉を止められなかったのか?
外ではなく国内に目を向ければ、どう考えたって不条理であり不可解。
こんなモヤモヤした状態では、ドラマや漫画でも描きにくいことでしょう。
豊臣秀吉周辺の誰か、たとえば徳川家康が「こんなことは嫌だね」とか言いつつ、仕方なしに従うのであればまだわかります。
しかし、豊臣政権側から積極的に正しい行動として描くのは厳しい。
加藤清正の虎退治だとか。
島津が「石曼子(シーマンズ)」と恐れられたとか。
面白エピソードやピンポイントの自慢はできるかもしれませんが、戦略そのものが誤っていて、とてもスカッとした英雄譚にはできません。
そもそも元に侵攻の意図はあったのか?
鎌倉幕府が使節を切り捨てた対応に問題があったのでは?
そう考えていくと、とても美談にはできない。
華々しい話だと思っていたのに、実際に辿ってみると苦々しい話がでてくる――それが歴史の特徴でもあり【文禄・慶長の役】にも同じことが言えるのでしょう。
その実際の始まりは天正17年(1589年)からでした。
序盤の快進撃
その年、秀吉が朝鮮国王に参内を求めると、翌天正18年(1590年)、朝鮮使節が日本を訪れました。
明を征服するため、日本の支配下となれ――。
秀吉はそんな無謀な要求を朝鮮に出していたのですが、朝鮮側としては単なる挨拶として秀吉の前に現れていました。
実は、間に入った対馬の宗氏が内容を勝手に書き換えていたのであり、当然ながら秀吉の要求は無視されます。
そこで秀吉は、天正19年(1591年)には軍備を整え、天正20年(1592年)正月5日、軍令を受けた諸大名が続々と肥前名護屋に集結しました。
その数16万という途方もない軍勢。
先陣の小西行長・宗義智が朝鮮半島の釜山へ上陸したのは同年4月12日のことです。
緒戦は思い通りに進軍を進め、5月3日には漢城(現ソウル)を陥落せしめ、王族までとらえるほどの戦果を挙げました。
統治に不満を抱く朝鮮の民衆が味方につくこともあり、当初は西国大名を中心に、快進撃が続きます。
これを受け、明では朝鮮救援を決定しました。
秀吉による明征服の意図は、琉球などからの報告によって察知しており、明としても、そのまま見過ごすことはできません。
確かに明は【文官上位】の国でしたが、だからといって軍勢が弱いか?というと決してそうではありません。
大砲の威力では日本を上回り、甲冑の堅固さにはまるで歯が立たない――そんな記録も残されるほど。
明は、滅亡時にあっさり敗れた印象が強いからか、後世でもそうした過小評価がされがちなだけでしょう。
そもそも日本から半島へ渡海し、戦線が伸び切った状態では、兵站も不十分であり、日本側がいつまでも有利ではいられません。
一気に深く侵攻するよりも、進軍エリアを統治し、敵からの反撃に対して持ち堪えることのほうがはるかに重要。
その視点が決定的に欠けるのが文禄・慶長の役であり、だからこそ「秀吉らしからぬ失態」として疑問視されています。
朝鮮水軍と義兵反撃
天正20年(1592年)6月、一気に平壌まで陥落せしめた快進撃の報に秀吉は大喜び。
自らも渡海して戦場に出向こうとするも、周囲の必死の説得により止められています。
合戦が進むに連れ、朝鮮水軍の反撃が強まっていたのです。
その反撃を担った将が李舜臣(イ・スンシン)であり、救国の英雄として名高い人物。【亀甲船】を生み出したということでも知られる人物ですね。
水戦は逃げ場がなく、乗船ごと沈められたら危険です。渡海の最中を狙われたら?と考えたら、あまりにリスクが高い。
朝鮮半島では、水軍だけでなく、義兵の蜂起もありました。
秀吉軍に反抗する義兵の活躍が目立ち始めたのですが、この戦乱を扱った韓流ドラマの定番人物像として、義に篤い妓女があげられます。
艶かしく倭の将をもてなしながら、機密情報を掴む勇敢な女性です。
こうした勇敢な妓女は当時から伝説として語り継がれてきており、フィクションの造型として受け入れられやすい。
蜂起した義兵は、兵糧の焼き捨てといった形で抵抗し、これまでねじ伏せられてきた秀吉軍に対抗します。
こうして半年ほどの快進撃の後、徐々に日本の軍勢は旗色が悪くなってゆきました。
そこへ明軍も到着――。
日本国内では、秀吉にとっても思わぬ事情が生まれます。母である大政所が亡くなり、さらには朝廷からも渡海を止められてしまうのです。
秀吉としては自ら渡海することで膠着状態を打開したい。
しかし、朝廷だけでなく、徳川家康からも止められてしまう。
夏から秋へ季節がうつると、兵糧問題はさらに悪化し、年末には朝鮮・明軍による平壌攻撃が始まり、宗義智と小西行長らの守将は撤退するほかありません。
この敗戦は、あけて文禄2年(1593年)には秀吉の下へ届けられます。
それまでの間、加藤清正と明側の交渉もありましたが、明側からすると理解に苦しんだでしょう。
「切り取った朝鮮の領土支配を認めろ!」
清正はそう主張しますが、明からすれば全く道理が通りません。
切り取った領土を自分のものとするのは、日本国内だから通じる話。「あなたが勝ったのですから、はい、どうぞ」なんて明や朝鮮が認めるわけがなく、日・朝・明の間で話が全く通じず、事態はどんどん悪化してゆきます。
苦戦の一報を受けた日本側は、東国勢の追加投入を決定しました。
半島への渡海は、西日本の軍勢から優先的に行われていました。地理的に優先順位の低い、出羽の最上義光が、赤裸々な心境を書き記しています。
徳川家康公から渡海はないと言われた。
本当にそうなって欲しい。
生きているうちにもう一度、最上の土を踏みたい。
水をいっぱい飲みたい。
一方で明側にも、秀吉軍と戦うメリットは全くありません。
明は自国が上である立場を振りかざし、抗戦を訴える朝鮮の主張を無視して、日本と和平交渉を進めようとします。
朝鮮側の意向を一切無視した明の交渉は、決して褒められたものではありません。
そのため交渉には不信感が漂い、次第に暗礁へ乗り上げてゆくのでした。
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