文禄・慶長の役

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦を?

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膠着の転換点

文禄2年(1593年)は、泥沼の戦いの転換点でした。

九州の肥前名護屋に、西行長に連れられた明使が到着するのです。

秀吉は、明が詫び言を言ってくると解釈し、楽観視していました。

そこで、こんな条件を出しています。

・明の皇女を天皇の后妃として差し出す

日明貿易の復活

・日明朝臣間で誓詞を交わすこと

・朝鮮国四道の支配

・捕縛した朝鮮王子の返還

・朝鮮国側が違約しないと誓詞を書くこと

秀吉はそれまで「高麗」と呼んでいたのを「朝鮮」と改めています。

自身が治める国として認識したのでしょう。

この講話と並行して、晋州城の攻略戦が行われていました。

晋州城牧使の首を京都に持ち帰って晒すことで、秀吉は大明征服はできずとも、海外雄飛が成し遂げられたと喧伝したのです。

この晋州城攻略で、とりあえずの戦闘は終わります。

フロイスはこの戦役で15万人が渡海し、5万人が死亡したと概算。

戦死というより、労苦、疫病、飢餓、気候によるものだと目されています。

秀吉は西国大名を朝鮮に置き、仕置のための築城を命じています。それを終えて名護屋に戻ったあと、秀吉ともども京都へ凱旋するというシナリオがありました。

実質的には敗北しているのに、勝利を取り繕おうとしていたともいえる工作です。

しかし、それも慶事により失敗に終わります。

淀殿が第二子・拾(後の豊臣秀頼)を産んだと知ると、秀吉は諸将を待たずに名護屋を出立してしまったのです。

朝鮮では休戦となり、置き去りにされた諸将が城を構築する状況です。

兵糧も底をつき、不信感にとらわれ、【降倭】となり、朝鮮側につく者すら出ました。

文禄3年(1594年)は膠着状態が続き、文禄4年(1595年)に入ると、明軍は朝鮮から撤兵していました。

秀吉は関白・豊臣秀次の派遣を決め、またも名護屋へ本陣を置くこととします。

このころ、明としても終結を模索していました。

彼らにしてみれば何のメリットもない戦い。秀吉の降伏という形式で落とし所を模索していたのです。

 


落とし所を探る日明だが

かくして明使・沈惟敬と小西行長が釜山で交渉することになり、以下のようにまとめられました。

・朝鮮王子一名を秀吉のもとへ送る(この王子を大名として朝鮮四道を支配させる)

・日本側が築いた15ヶ所の城うち、10は破棄とする

・明は和平案を受け入れる

朝鮮の意向抜きで落としどころを探った交渉結果でした。


日本
朝鮮

この枠組みの中で収めようとしています。

明としては譲歩したのでしょう。

しかし、このとき日本では大事件が起きていました。

拾(豊臣秀頼)の誕生は、それまで秀吉の後継者とされていた関白・豊臣秀次の猜疑心を掻き立てたのか。

両者に行き違いが生じ、秀次が高野山で腹を切ると、その後、秀次の妻子が大量に処刑されてしまうのです。

さらには大地震も起きたところで、明使が大坂を訪れ、秀吉と謁見。

会談そのものはどうにか終わったものの、提示された諸条件に秀吉が怒り、交渉は決裂してしまいました。

最大の怒りは、朝鮮側から王子が来ないことでした。

かくして理不尽な怒りのまま、再征への不穏さが募ってゆきます。

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