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【文禄・慶長の役】
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朝鮮水軍と義兵反撃
天正20年(1592年)6月、一気に平壌まで陥落せしめた快進撃の報に秀吉は大喜び。
自らも渡海して戦場に出向こうとするも、周囲の必死の説得により止められています。
合戦が進むに連れ、朝鮮水軍の反撃が強まっていたのです。
その反撃を担った将が李舜臣(イ・スンシン)であり、救国の英雄として名高い人物。【亀甲船】を生み出したということでも知られる人物ですね。
水戦は逃げ場がなく、乗船ごと沈められたら危険です。渡海の最中を狙われたら?と考えたら、あまりにリスクが高い。
朝鮮半島では、水軍だけでなく、義兵の蜂起もありました。
秀吉軍に反抗する義兵の活躍が目立ち始めたのですが、この戦乱を扱った韓流ドラマの定番人物像として、義に篤い妓女があげられます。
艶かしく倭の将をもてなしながら、機密情報を掴む勇敢な女性です。
こうした勇敢な妓女は当時から伝説として語り継がれてきており、フィクションの造型として受け入れられやすい。
蜂起した義兵は、兵糧の焼き捨てといった形で抵抗し、これまでねじ伏せられてきた秀吉軍に対抗します。
こうして半年ほどの快進撃の後、徐々に日本の軍勢は旗色が悪くなってゆきました。
そこへ明軍も到着――。
日本国内では、秀吉にとっても思わぬ事情が生まれます。母である大政所が亡くなり、さらには朝廷からも渡海を止められてしまうのです。
秀吉としては自ら渡海することで膠着状態を打開したい。
しかし、朝廷だけでなく、徳川家康からも止められてしまう。
夏から秋へ季節がうつると、兵糧問題はさらに悪化し、年末には朝鮮・明軍による平壌攻撃が始まり、宗義智と小西行長らの守将は撤退するほかありません。
この敗戦は、あけて文禄2年(1593年)には秀吉の下へ届けられます。
それまでの間、加藤清正と明側の交渉もありましたが、明側からすると理解に苦しんだでしょう。
「切り取った朝鮮の領土支配を認めろ!」
清正はそう主張しますが、明からすれば全く道理が通りません。
切り取った領土を自分のものとするのは、日本国内だから通じる話。「あなたが勝ったのですから、はい、どうぞ」なんて明や朝鮮が認めるわけがなく、日・朝・明の間で話が全く通じず、事態はどんどん悪化してゆきます。
苦戦の一報を受けた日本側は、東国勢の追加投入を決定しました。
半島への渡海は、西日本の軍勢から優先的に行われていました。地理的に優先順位の低い、出羽の最上義光が、赤裸々な心境を書き記しています。
徳川家康公から渡海はないと言われた。
本当にそうなって欲しい。
生きているうちにもう一度、最上の土を踏みたい。
水をいっぱい飲みたい。
一方で明側にも、秀吉軍と戦うメリットは全くありません。
明は自国が上である立場を振りかざし、抗戦を訴える朝鮮の主張を無視して、日本と和平交渉を進めようとします。
朝鮮側の意向を一切無視した明の交渉は、決して褒められたものではありません。
そのため交渉には不信感が漂い、次第に暗礁へ乗り上げてゆくのでした。
膠着の転換点
文禄2年(1593年)は、泥沼の戦いの転換点でした。
九州の肥前名護屋に、小西行長に連れられた明使が到着するのです。
秀吉は、明が詫び言を言ってくると解釈し、楽観視していました。
そこで、こんな条件を出しています。
秀吉はそれまで「高麗」と呼んでいたのを「朝鮮」と改めています。
自身が治める国として認識したのでしょう。
この講話と並行して、晋州城の攻略戦が行われていました。
晋州城牧使の首を京都に持ち帰って晒すことで、秀吉は大明征服はできずとも、海外雄飛が成し遂げられたと喧伝したのです。
この晋州城攻略で、とりあえずの戦闘は終わります。
フロイスはこの戦役で15万人が渡海し、5万人が死亡したと概算。
戦死というより、労苦、疫病、飢餓、気候によるものだと目されています。
秀吉は西国大名を朝鮮に置き、仕置のための築城を命じています。それを終えて名護屋に戻ったあと、秀吉ともども京都へ凱旋するというシナリオがありました。
実質的には敗北しているのに、勝利を取り繕おうとしていたともいえる工作です。
しかし、それも慶事により失敗に終わります。
淀殿が第二子・拾(後の豊臣秀頼)を産んだと知ると、秀吉は諸将を待たずに名護屋を出立してしまったのです。
朝鮮では休戦となり、置き去りにされた諸将が城を構築する状況です。
兵糧も底をつき、不信感にとらわれ、【降倭】となり、朝鮮側につく者すら出ました。
文禄3年(1594年)は膠着状態が続き、文禄4年(1595年)に入ると、明軍は朝鮮から撤兵していました。
秀吉は関白・豊臣秀次の派遣を決め、またも名護屋へ本陣を置くこととします。
このころ、明としても終結を模索していました。
彼らにしてみれば何のメリットもない戦い。秀吉の降伏という形式で落とし所を模索していたのです。
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