文禄・慶長の役

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用

豊臣家

秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦へ突き進んだのか

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
文禄・慶長の役
をクリックお願いします。

 

落とし所を探る日明だが

かくして明使・沈惟敬と西行長が釜山で交渉することになり、以下のようにまとめられました。

・朝鮮王子一名を秀吉のもとへ送る(この王子を大名として朝鮮四道を支配させる)

・日本側が築いた15ヶ所の城うち、10は破棄とする

・明は和平案を受け入れる

朝鮮の意向抜きで落としどころを探った交渉結果でした。


日本
朝鮮

この枠組みの中で収めようとしています。

明としては譲歩したのでしょう。

しかし、このとき日本では大事件が起きていました。

拾(豊臣秀頼)の誕生は、それまで秀吉の後継者とされていた関白・豊臣秀次の猜疑心を掻き立てたのか。

両者に行き違いが生じ、秀次が高野山で腹を切ると、その後、秀次の妻子が大量に処刑されてしまうのです。

さらには大地震も起きたところで、明使が大坂を訪れ、秀吉と謁見。

会談そのものはどうにか終わったものの、提示された諸条件に秀吉が怒り、交渉は決裂してしまいました。

最大の怒りは、朝鮮側から王子が来ないことでした。

かくして理不尽な怒りのまま、再征への不穏さが募ってゆきます。

 

秀吉の死による終焉

文禄5年(1596年)改め慶長元年、再度出兵への機運が高まります。

小西行長・加藤清正らが名護屋から渡海し、朝鮮を踏み躙りながら進軍しました。島津勢、鍋島勢も激しい勢いで突き進みます。

中でも蔚山(うるさん)での攻防戦は、明・朝鮮と死闘が繰り広げられたものとして記録されました。

こうして各地で激闘が繰り広げられながら迎えた慶長3年(1598年)。

張本人の豊臣秀吉が世を去り、戦闘継続の意義は一気に失われます。

和平交渉が進められ、明軍が完全に撤退したのは慶長5年(1600年)のこと。

文禄・慶長の役】は、豊臣政権にとって百害あって一利なしに終わりました。

豊臣秀吉の亡き後、天下を取ったのは嫡子の豊臣秀頼ではなく、徳川家康です。

家康のなすべきことは朝鮮・明との国交回復であり、程なくして朝鮮とは和平を取り戻すも、明とは叶うことはありません。

1644年に滅亡に瀕した明朝の遺臣は、家光時代を迎えていた幕府に対し、復明のための援軍を要請します(【日本乞師】)。

しかし日本はこれを断り、次の清朝と国交を結んだのです。

両国ともに【海禁】をとり私的な貿易は制限される中、長崎出島には清人が訪れ交易をしました。

そんな清人のもとには、漢詩の添削を求める日本人がしばしば訪れたとか。

朝鮮からは【朝鮮通信使】を迎えました。

色鮮やかな彼らの行列を見るべく、日本人は興味津々で道ぞいに集まり、一方で朝鮮使たちは、京都であるものを見て号泣したとされます。

【耳塚】です。

文禄・慶長の役のときに朝鮮半島から送られ、塩漬けにされた耳や鼻がそこに葬られたと聞き、彼らは泣き崩れたのです。

今に至るまで、慰霊祭が開催されています。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-豊臣家
-

×