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【文禄・慶長の役】
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落とし所を探る日明だが
かくして明使・沈惟敬と小西行長が釜山で交渉することになり、以下のようにまとめられました。
・朝鮮王子一名を秀吉のもとへ送る(この王子を大名として朝鮮四道を支配させる)
・日本側が築いた15ヶ所の城うち、10は破棄とする
・明は和平案を受け入れる
朝鮮の意向抜きで落としどころを探った交渉結果でした。
明
日本
朝鮮
この枠組みの中で収めようとしています。
明としては譲歩したのでしょう。
しかし、このとき日本では大事件が起きていました。
拾(豊臣秀頼)の誕生は、それまで秀吉の後継者とされていた関白・豊臣秀次の猜疑心を掻き立てたのか。
両者に行き違いが生じ、秀次が高野山で腹を切ると、その後、秀次の妻子が大量に処刑されてしまうのです。
さらには大地震も起きたところで、明使が大坂を訪れ、秀吉と謁見。
会談そのものはどうにか終わったものの、提示された諸条件に秀吉が怒り、交渉は決裂してしまいました。
最大の怒りは、朝鮮側から王子が来ないことでした。
かくして理不尽な怒りのまま、再征への不穏さが募ってゆきます。
秀吉の死による終焉
文禄5年(1596年)改め慶長元年、再度出兵への機運が高まります。
小西行長・加藤清正らが名護屋から渡海し、朝鮮を踏み躙りながら進軍しました。島津勢、鍋島勢も激しい勢いで突き進みます。
中でも蔚山(うるさん)での攻防戦は、明・朝鮮と死闘が繰り広げられたものとして記録されました。
こうして各地で激闘が繰り広げられながら迎えた慶長3年(1598年)。
張本人の豊臣秀吉が世を去り、戦闘継続の意義は一気に失われます。
和平交渉が進められ、明軍が完全に撤退したのは慶長5年(1600年)のこと。
【文禄・慶長の役】は、豊臣政権にとって百害あって一利なしに終わりました。
豊臣秀吉の亡き後、天下を取ったのは嫡子の豊臣秀頼ではなく、徳川家康です。
家康のなすべきことは朝鮮・明との国交回復であり、程なくして朝鮮とは和平を取り戻すも、明とは叶うことはありません。
1644年に滅亡に瀕した明朝の遺臣は、家光時代を迎えていた幕府に対し、復明のための援軍を要請します(【日本乞師】)。
しかし日本はこれを断り、次の清朝と国交を結んだのです。
両国ともに【海禁】をとり私的な貿易は制限される中、長崎出島には清人が訪れ交易をしました。
そんな清人のもとには、漢詩の添削を求める日本人がしばしば訪れたとか。
朝鮮からは【朝鮮通信使】を迎えました。
色鮮やかな彼らの行列を見るべく、日本人は興味津々で道ぞいに集まり、一方で朝鮮使たちは、京都であるものを見て号泣したとされます。
【耳塚】です。
文禄・慶長の役のときに朝鮮半島から送られ、塩漬けにされた耳や鼻がそこに葬られたと聞き、彼らは泣き崩れたのです。
今に至るまで、慰霊祭が開催されています。
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