大坂城

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秀吉が心血注いだ大坂城~なぜ徳川は潰しきれなかったのか その歴史を振り返る

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断続を挟みつつ、作り上げられていく大坂城

その後、秀吉の土木工事は「やりすぎではないか?」と思われるほど進行していきます。

戦乱で荒れた京都を復興し、【御土居】で囲む。

聚楽第に伏見城

まさに工事づくしであり、天下人ならではの普請といえました。

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しかし【朝鮮出兵】まで強行され、さらなる人員や物資がそちらへ取られてしまいます。

「太閤はんの城」を作るため、秀吉は長い歳月をかけてきました。

信長の死の翌年である天正11年(1583年)から、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなるまで、断続的に手入れを続け、自身の死後は、北政所淀殿と秀頼の親子が入ることになります。

しかし、早くもその翌年の慶長4年(1599年)、北政所は大坂城西の丸を家康にゆずり、城を出てしまいます。

慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】とは、大坂城の主である秀頼にとって、誰が忠臣としてふさわしいのかという大義名分によって戦われました。

これに家康が勝利をおさめると、もはや家康は己の野心を隠さなくなります。

鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』を集め、愛読していた家康は、自らの政権を東へ移すこととしたのです。

新たな天下人の城は、江戸に築かれることとなりました。

江戸城の主として徳川家康、そして秀忠が君臨。秀忠に将軍を譲った後、家康は駿府に入る。

室町幕府以来、西に移っていた武家政権は、こうして再び東に戻ったのです。

 


燃え、破却され、再建される大坂城

徳川の世において、大坂城は”危険性の象徴”となりました。

なまじ防衛能力が高いため、行き場のない牢人が集まったらどうなるのか? 秀頼をそのままにしておくのは不穏ではないか?

奥羽の戦国大名である伊達政宗は、そんな懸念を抱き、対策を提言していました。

そしてその見通しは正しく、慶長19年(1614年)に【大坂冬の陣】が勃発。

大勢集まった牢人は、徳川家康・秀忠に叛きました。

この戦いで徳川家康は、時代を先んじる兵器を活用しています。

イギリスから買い付けた大砲です。

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大坂城の天守閣に向けて撃ち放ったところ、屋根を突き破り、淀殿のそばにいた侍女が犠牲となりました。

その後の和睦の際、秀吉が指示を出して掘っていた堀は埋め立てられてゆきます。

天下人が精魂込めて築き上げた拠点は、見るも無惨な丸裸にされていったのです。

しかし、大坂城の主人は城の中にとどまり続け、ついには慶長20年(1615年)――【大坂夏の陣】が勃発。

堀の防衛力を失った城はあっという間に囲まれ、城の中から火があがりました。

淀殿と秀頼たちは燃え残りの蔵へ向かい、自刃したのです。

秀吉の夢――壮麗な城は、その妻子と共に姿を消したのでした。

 


豊臣の城から、徳川の城へ

新たな主には、家康の外孫である松平忠明が任じられました。

しかし秀忠はさらなる復興が必須であると考えます。

「太閤はんの城」を上回る規模の城を作りあげ、上書きする――そう決意を固めていたのです。

さらには幕府のみならず、諸国の大名に築城を任せることにしました。

プライドの高い武士たちとしては、巨石を運び、頑健な築城術を見せる機会とあらば力を惜しまない。莫大な工事費用も嵩み、武装どころではなくなる。

徳川にとって、秀吉大坂城の上書きは、自らの権威を示すものでもありました。

いわば天下の足踏みを固める基礎として機能したのです。

決定的に豊臣を塗りつぶし、徳川で上書きし、諸大名の牙もぬく。

一石二鳥どころではないもくろみが、大坂城で繰り広げられてゆきました。

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