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【肥後国人一揆】
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九州の最強武将・立花宗茂が寡兵で大奮戦!
救援に差し向けられた第一陣は、前述の通り立花宗茂です。
宗茂だけでなく、実は肥前の鍋島直茂にも救援要請が届き、7,000の兵が送られているのですが、一揆勢の待ち伏せに遭って敗北してしまいます。
一方、宗茂の活躍は、
「西の最強武将(東は本多忠勝)」
と称されるだけあって素晴らしいものでした。

絵・小久ヒロ
まず宗茂は、一揆勢が、どのように佐々軍や鍋島軍を攻撃したか調べます。
攻め方を調べて、その裏を衝こうという発想です。
立花軍の兵数は800~1,200とされ、鍋島軍7,000と比べて圧倒的に少数でしたが、
・十時連貞(ととき つれさだ)
・小野鎮幸(おの しげゆき)
・由布惟信(ゆふ これのぶ)
など、配下の勇将を引き連れ、さらには宗茂の弟・高橋直次も参戦しておりました。
立花軍はこうした少数の戦いでは間違いなく最強候補だ――と東京大学教授の本郷和人先生もご著書の中で指摘しておられましたが、実際、救援に出向いた宗茂指揮のもと一日に10度以上も交戦するなどして大いに奮戦します。
宗茂は、単に指揮をするだけでなく、自身も戦場へ飛び出していき、それが他の将兵たちの士気を上げるという戦巧者ぶりを見せつけました。
しかし肥後国中で一揆勢が蜂起しているだけに、立花軍だけではどうにもならないのも事実です。
結局、筑後や肥前などの諸将がやってきて、ようやく鎮圧されることになり、天正十五年(1587年)7月に始まった一揆が終わったのは12月のことでした。
めでたしめでたし……と言いたいところですが、事の経緯を知った秀吉はどう考えたでしょう?
成政も国人も秀吉の罠にかかった!?
このころの秀吉は、既に唐入り(文禄・慶長の役1592年 – 1598年)を検討し始めていた頃です。
大陸に渡るとすれば九州は最前線。
しかし肥後は国人の勢力が強く、このまま落ち着かない状態で大陸や半島に渡り、背後で蜂起されたらたまったもんじゃありません。
一方、佐々成政は、幾度も秀吉と戦い、これまた面倒な存在です。
信長側近というエリートの出でもあり、天下人の秀吉に対して横柄なところもあったのでしょう。
そこで【検地をするな】という厳しい条件を成政に課し、やかましい国人たちがいる土地を治めさせたらどうなるか?
成政と国人をぶつけて両方潰れれば……。
そんな秀吉の思惑通り一揆が起きたわけです。
一揆の制圧後、秀吉は蜂起した国人たちも整理し、肥後の領地化をスムーズに進めるため、今度は子飼いの加藤清正と小西行長を入れています。
彼等は文禄・慶長の役で最前線に飛び出ていった者たち。
おそろしいほどの秀吉政治力が発揮されたと見る方が自然でありましょう。
恵瓊が助命を願い出るも……
佐々成政は、その後、尼崎で切腹を命じられました。
一応、安国寺恵瓊が助命を願い出てくれたんですが、ここまできて秀吉が言うことを聞くはずもなく、成政は命を落としたのでした。
享年53(推定)。
秀吉の卓越すぎる政治力に対し、成政はあまりに要領が悪いと感じるのは私だけでしょうか。
【さらさら越え】までして徳川家康へ会いに行ったときも、すでに大軍を引いて時間が経過しているのです。
そこから軍を起こすことが現実的にどうなのか。
素直なことは長所ですし武士として劣っていたわけでもなく、むしろ武将としての矜持を感じるのですが、それだけに政治外交センスのなさだけが余計に惜しまれます。
そして立花宗茂のカッコよさだけが目立ったという……。
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長月 七紀・記
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
江宮隆之『立花宗茂 「義」という生き方 (新人物文庫) 』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)