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逃げる三成を捕縛した戦国武将・田中吉政~浅井から豊臣を経て徳川へ渡った生涯

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関ヶ原の戦いの後に三成を捕縛

豊臣恩顧の武将にも見える田中吉政

秀吉よりも秀次に近かったためか、あるいは別の理由があったか、秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍につきました。

もしも吉政が岡崎城ではなく岐阜城主になっていたら、東軍最前線の補給地点のように使われた可能性もあり、歴史がかなり変わってきそうですね。

実際は黒田長政と共に石田三成と戦ったとされています。

黒田長政/wikipediaより引用

では関ヶ原ではどんな武功があったか?

というと注目は戦後です。

関ヶ原の戦いがわずか一日で決着してしまうと、石田三成は逃亡し、行方がわからなくなりました。

東軍は9月16日から、三成の居城で石田一族が籠城していた佐和山城の攻略を開始。

吉政も、脇坂安治井伊直政らとともに佐和山城攻めに参加します。

佐和山城址

家康は開城を勧告し、石田一族側でも受け入れるつもりでしたが、ここで哀しきスレ違いが生じてしまいます。

他ならぬ吉政が、開城の合意を知らず、城内に突入してしまったのです。

結果、9月18日に石田一族は自害し、西軍は骨抜きとなりました。

この一件、吉政が咎められていてもおかしくないミスですが、家康は不問にしたどころか、吉政に三成の捜索を命じています。

石田一族をどんな処分とするか――その辺はあらかじめ決めていたでしょうし、「筋書きが多少変わっただけ」と判断したのでしょうかね。

一方そのころ三成は、伊吹山に潜んでいました。

潜伏先が洞窟だったのでろくに動けず、足腰が弱り下痢も起こしていたといいます。おそらく回復を待って大坂城あたりへ戻ろうとしていたのでしょう。

しかし、その前に吉政の家臣が三成を発見するのです。

石田三成/wikipediaより引用

9月21日、ついに三成を捕縛。

最後の情けか、吉政は三成の調子が良くなるのを待って、25日に家康の下へ連れて行ったとされます。

そして西行長や安国寺恵瓊と共に三成が処刑されたのは同年10月1日のことでした。

 


三成とは仲が良かったのか?

三成を捕縛した後の田中吉政については様々な逸話があります。

関係が良好だったと思われる話とその真逆の話が伝わっているのです。

そもそも三成の逸話自体が「当時あったもの」と「後世の創作」と思われるものが混在しているので、これは致し方ないところかもしれません。

吉政に関するところだと、三成の差料だった「石田貞宗」という脇差の伝来として、以下のように3つの説があるようです。

1.「三成が自分の意志で吉政に贈った」説

2.「処刑された後に吉政のものになった」説

3.「家康は三成を処刑せず、榊原康政に預けた。そのため石田貞宗は榊原家に伝わった」

という3パターンがあります。

一体どれが正しいのか?

三成が慶長四年(1599年)閏3月に佐和山で蟄居することになった際、道中護衛してくれた結城秀康へ打刀の”石田正宗”を贈ったことがヒントになるかもしれません。

結城秀康/wikipediaより引用

1の説であれば、吉政が三成を粗略に扱わなかったことへ感謝して石田貞宗を贈ったような印象になりますね。

また、三成は自分を実際に捕縛した吉政の家臣にも「さゝ(さ)のつゆ」という打刀を贈ったとする説もあります。

捕まれば処刑されることは目に見えていたでしょうし、日頃から吉政とその家中への感情が悪くなかったからこそ、刀を贈ったのではないでしょうか。

既に一族が討死していて、送り先がなかったからという理由もありえなくはないですが。

2の説の場合は、吉政が石田貞宗を他の戦の戦利品同様に扱ったという感じになるでしょうか。

3はまあ……”源義経=チンギス・ハーン説”や、”大坂夏の陣真田幸村が秀頼を連れて逃げた説”と似たような、民衆の希望的観測が逸話になったものと思われます。

いずれにせよ、吉政と三成の関係を推し量るのはなかなか難しそうですね。

吉政は秀吉の子飼いというわけでもありませんし、三成とはお互いに「別部署のデキる奴」みたいな認識だったのかもしれません。

 


柳川城主へ

翌慶長六年(1601年)、田中吉政は三成捕縛などの功績を称されて筑後一国を与えられ、柳川城(福岡県柳川市)を居城としました。

かつて立花宗茂がいた城として有名なところです。

吉政は柳川の城や周辺の整備、検地を積極的に行い、またキリスト教の布教を認めるなど、硬軟併せた政治を行いました。

柳川城跡

そして慶長十四年(1609年)2月18日、江戸へ向かう道中の伏見で亡くなっています。

享年62。

決して派手さはないけれど、堅実に大名まで出世した。運にも恵まれた生涯だったのではないでしょうか。

跡を継いだ嫡男の田中忠政は、正室(家康の姪)との間に男子を授かりませんでした。

そして養子を迎えられないまま忠政が元和六年(1620年)に亡くなったため、田中家は無嗣断絶・改易となってしまいます。

忠政の甥・吉勝を養子にする案もあったようですが、なぜか認められず……。

田中家のキリスト教保護方針が睨まれたからなのかもしれません。

当時はまだ末期養子も認められていないので、いずれにせよアウトだった可能性は高かったでしょうか。

これを受けて立花宗茂が旧領に返り咲くことになります。

忠政に跡継ぎがいたら、宗茂は柳川に戻れず、あまり馴染みのない何処かの土地で大名になっていたのでしょう。

こういうのもバタフライエフェクトに入るんでしょうかね。


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長月 七紀・記

【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
日本人名大辞典

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