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【小田原征伐】
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小田原城で耐えつつ少しでも有利な和睦条件を
かくしてキッチリと守りを進めた北条家。
彼らにミスがあったとすれば、それは逆にキッチリと「定石に素直すぎたこと」であり、また「城に頼りすぎたこと」ではないでしょうか。
寡兵で大軍を相手にするには、包囲されないことが最も重要です。
城塞群は互いに連携し、時には打って出ることによって、それぞれの城が各個撃破されることを防がなくてはなりません。
定石を基本にしつつも籠城するだけではなく、奇襲に次ぐ奇襲を繰り出さなければ敵の大軍は阻止できないのです。
しかし、当初は頼りにしていた徳川家康から味方になることを断られ、続けて伊達政宗までが白装束(死装束)で秀吉に臣従すると、もはや周囲には誰もいない状況……。
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誰も後詰(小田原城への救援軍)に来てくれないとなれば、もう、どうやったって勝てる見込みはなくなります。
籠城作戦は、助けに来てくれる味方がいるからこそ成立します。
四方八方を囲まれ、後世にバカにされる「小田原評定(長いだけで結論が決まらない話し合いのこと)」が続きました。
実際は「できるだけ小田原城で耐えつつ、どうやったら少しでも有利な和睦条件を出せるか」ということを考えていたのでしょう。
実際、小田原城にはそれに足る強度な防御力があり、秀吉としてもいたずらに兵を殺されてまで無理攻めする理屈はありません。
城下町や街道を土塁と堀で囲む全長9キロの総構
では、本拠地・小田原城の防御力はいかほどだったのか。
詳細は後ほど申し上げますが、下記の写真は防御施設のひとつ、小田原城の空堀です。
「小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)」といいます
北条家を代表する小田原城は、空堀と土塁のセットや障子堀、そして総構(そうがまえ)が有名でしょう。
特に、全長9キロにも及ぶ総構は、この時代には珍しく、城下町や街道を土塁と堀で囲むというもの。
八幡山という、本来は詰めの城までセットで囲んでしまう壮大なものでした。
以下の写真を見れば、イメージは湧いてくるでしょうか。
江戸時代に入り、小田原城が縮小されると八幡山は切り離されて放棄されてしまいます。
が、この詰めの城こそが中世に築かれた元々の小田原城だったとも云われており、確かに八幡山は小田原城本丸よりも高い位置にあるのです。
高い地にあるということは、ここさえ押さえてしまえば他の低地部は丸裸になるわけで、おそらくそれも踏まえて北条氏は八幡山も総構の中に一緒に囲んで防御力を高めたのでしょう。
実は、小田原征伐の際、北条氏政はこの八幡山を本陣としているぐらいの要所だったのです。
八幡山は、現在、JRの線路で小田原城と切り離されてしまい、さらに本丸跡は県立小田原高校の敷地になっています。
最近、東曲輪が再現され、ここから小田原城天守や石垣山城、そして相模湾が一望できるようになりました。
もしも小田原に足を運ぶことがあったら、八幡山へ出向くのも一つの手ですよ。
当時の小田原城は「箱根外輪山」の山裾台地に
JR小田原駅から徒歩で数分――。
現在の小田原城へ足を運ぶと、周囲は水堀と石垣で囲まれ、白亜の天守と瓦屋根が目に飛び込んできます。
が、それはむしろ秀吉が小田原城を監視するため、同城を見下ろす位置に作った「石垣山城」の姿に近く、本来の小田原城とはかけ離れたものです。
北条家の小田原城は、先程も申し上げたように平野部の居館と山部の詰めの城、そして街道や城下町を延々と続く巨大な空堀と土塁で囲んだ城でした。
とても大きな規模ですが、さらに地図を拡大して地形まで考察してみると、当時の小田原城は、「箱根外輪山」の山裾の台地に築かれているのが確認できます。
城の理想は、平野に屹立する「独立峰」に築くことです。
が、これは往々にして交通の要衝などの適する場所にはないため、普通は台地の尾根を切り拓いて城を作ります。
金沢城や松江城、江戸城などもそうでした。
問題は、台地の尾根部分が城と同等の高さであったり、それより高くなることです。
言うまでもなく、城の最重要防御拠点が敵から見下されるような位置にあっては危険だからです。
ゆえに、そのようなウィークポイントには曲輪(防御施設)を配して、広大な縦深を構えたり、深い堀切を築きます。
小田原城も、同様に山裾側に深い堀切を築いておりました。
これを延々と繋げて、ついでに街道を掌握するため城に取り込んでしまえ!と平野部や海岸線にも構えたので、とても大きな城となったのです。
総構は「城下町ごと囲んだ」という記述はその通りです。が、「街道を城の中に抱え込んだ」としたほうが、総構の軍事的な意味合いをより深く理解できるでしょう。
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