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【浅井畷の戦い】
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丹羽長重と前田利常のホッコリする話
この一連の戦いのため、前田家も丹羽家も、関ヶ原本戦には参加できませんでした。
また、利長とは別行動をしていた弟・前田利政は、七尾城(現・石川県七尾市)に篭ったまま動かず。
これまた東軍には参加しておりません。
弟の前田利政が東西どちらにもつかなかった、明白な理由は不明。
「利政は西軍派だったが、兄が東軍につこうとしたので動けなかった」
「西軍に妻子を人質に取られていた」
といった説があります。全部かもしれませんね。
結局、関が原本戦がたった一日で決着がつき、西軍がほぼ壊滅したことから、丹羽長重や前田利政は改易の憂き目を見ることになりました。
西軍の処分が決まる前に、利長と長重は本戦の直後である9月18日に和議を結びました。
このとき前田家から丹羽家へ人質に出されたのが、後の加賀藩二代藩主・前田利常。
当時まだ6歳の少年でした。
長重は、幼くして人質となった利常を哀れんだのか、手ずから梨を剥いてやったという逸話があります。

前田利常/wikipediaより引用
利常は利長たちとは異母兄弟であることから、前田家での立場が微妙だったため、人質として出向いた先で思わぬ優しさをかけてもらい、非常に感動したようです。
晩年まで、梨を食べるたびに長重との思い出を話していたのだとか。
おそらく、長重とどんな話をしたのかも語ったのでしょうね。
長重は関ヶ原当時はまだ子供がいなかったので、擬似的に親心を味わっていたのかもしれません。って、美化しすぎですかね……。
長重の居城だった小松城をガッチリ改築した利常
丹羽長重と前田利常には、もうひとつ接点になりそうなポイントがあります。
長重は改易された後、慶長八年(1603年)に常陸国古渡(現・茨城県稲敷市)1万石で大名に復帰しました。
さらに徳川秀忠の御伽衆(話し相手・相談役)に選ばれるなど、重職を果たすようになります。

徳川秀忠/wikipediaより引用
一方の利常は、慶長十年(1605年)6月から加賀藩主を務めているので、参勤交代や何かの行事の折に江戸で長重と再会することもあったかもしれません。
また、利常は後に自らの隠居所にするため、かつての長重の居城である小松城を大々的に工事しました。
堅城だったことが一番の理由でしょうけれども、小松城は元和元年(1615年)の【一国一城令】によって廃城になっています。
そんなところで、しかも堅城として名高い城をわざわざ再建するというのは、幕府にケンカを売るも同然の行為です。
利常「戦場で鼻毛を切るヤツがおるか!」
また、利常は隠居するとき徳川家光に引き止められたのをガン無視しています。
彼は「戦場で鼻毛を切るヤツがおるか!」とばかりに鼻毛を伸ばし切っていた、最後の戦国大名と呼べるキャラクターであり、ともかく最後の最後まで度胸が良すぎでした。
もしかすると、利常は幼いころの思い出や、長重を偲びたかったのでしょうか。
その後、利常の嫡男・光高が29歳の若さで亡くなり、利常は幼い孫・前田綱紀の後見として藩政に復帰したため、楽隠居ではなかったのですけれども。
実際に戦闘が起きているので穏やかとはいいきれませんが、長重と利常の関係については、割と心が温まる話……かもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon)
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
浅井畷の戦い/wikipedia
前田利長/wikipedia
前田利常/wikipedia
丹羽長重/wikipedia