平安時代の藤原氏といえば、真っ先にその名を挙げられるのは藤原道長でしょう。
「私の権勢は満月のように欠けることは無い!」だなんて、いかにもキャッチーですし、息子の藤原頼通さんは宇治平等院鳳凰堂を作っちゃうし、マジ、権力~♪
と、恐れ慄くしかありませんが、藤原氏が優れていたのは何も道長・頼通親子だけではありません。
むしろ、藤原家は彼ら親子を頂点に萎んでいくワケで、それよりも道長への足場を固めてきた方たちこそ敏腕揃いだったのではないでしょうか。
藤原良房――。
皇族以外で初めて摂政になり、初めて臣籍降嫁した妻を娶り。
とにかく権力の初物尽くしで、後の北家の躍進を支える起点になったような御仁です。
良房の活躍が、今、始まる……日本史ブギウギ、第40話、スタート!
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明子(あきらけいこ)
◆藤原良房が中央政権に食い込むキッカケは橘嘉智子でした。
橘逸勢が阿保親王にクーデターの話をしたところ、それが彼女に流れ、さらにそこから藤原良房へ。
もともと2人は仲が良く、待ってましたとばかりに良房が動いて、橘逸勢は失脚します。
これを「承和の変」と言いまして842年に起きました。
810年 薬子の変(平城上皇vs嵯峨天皇)
↓
842年 承和の変(橘逸勢vs藤原冬嗣)
そして良房は更に動きます。
甥っ子である道康親王に自身の娘・明子を嫁がせるのです。
その狙いはもちろん……。
プレッシャー!
◆文徳天皇(もんとく)に娘・明子を嫁がせた藤原良房の狙い。
それが娘の息子、つまり孫の即位であることは言うまでもないでしょう。
the・藤原氏の手口であり摂関政治で習う最も基本的な手法ですね。
そのために良房は、生まれたばかりの明子の子を皇太子に推すのでした。
次の天皇候補は惟仁親王(これひとしんのう)です。
文徳天皇の第四子でした……。
イケメン歌人
◆六歌仙や伊勢物語など。
どちらかというと歌や文学の世界で後世に知られる在原業平さんは、非常に微妙なポジションの御方です。
ご自身は阿保親王の息子であり、平城天皇の孫になります。
阿保親王は平城天皇の第一皇子でしたから、そもそもはかなり皇位に近い方でもあり、世が世なら、業平も次の天皇候補になり得たかもしれないのです。
実際は、薬子の変や承和の変を経て嵯峨天皇系統の流れになっており、もはや出番無し。
藤原良房を相手に為す術を失います。
病床の天皇
◆父親の文徳天皇は、そうは言っても悩んでおりました。
惟喬親王に譲位する手もある。
どうすればよいか。
と源信(嵯峨天皇の第七皇子)に相談したところ、「命やばいぞ、ダメ、絶対」とソッコーで却下されます。承和の変と同じく、複数の皇統を持つとやはり権力争いが生じるものなんですね。
そして惟仁親王は清和天皇として即位することになるのですが……。
※次週へ続く
【過去作品はコチラから→日本史ブギウギ】
著者:アニィたかはし
武将ジャパンで新感覚の戦国武将を描いた『戦国ブギウギ』を連載。
従来の歴史マンガでは見られない角度やキャラ設定で、日本史の中に斬新すぎる空気を送り続けている。間もなく爆発予感の描き手である(編集部評)