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【犀川の戦い】
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和睦の使者
◆4月に始まった戦いは5、6、7、8月と過ぎても、ひたすら膠着していくばかりで、両軍、打開策が無いまま、信玄は同盟を頼ることにした。
今川義元に和睦の仲介を頼んだのである。
そして閏10月に手打ちとなり、両軍は引き上げていった。
しかし、そのころ甲府では……。
美人薄命
◆若くして死んだためか。あるいは諏訪家の姫というポジションからか。
何かと悲劇と共に語られがちな諏訪御料人。
ご存知、武田勝頼の母親ですね。
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のちの勝頼
◆信玄は「英雄色を好む」タイプだった?
諏訪御料人のエピソードから、一瞬、そんなイメージを抱いてしまう方も多いかもしれません。
しかし……
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上記の記事に信玄の妻をまとめましたが、むしろ戦国大名として、武田家のための外交や、勢力圏確保のため、妻を選んでいると考えた方が自然な気もします。
この年の11月6日、諏訪御料人は死亡。
その2日後、相模では娘の黄梅院が男児を産んでいました。
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