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「陰惨」と「重厚」は異なるもの
そうはいっても、時代考証や演技が重厚という意見もあります。
真田広之さんは確かに素晴らしいとしか言いようがない。
しかし、それをいうならば、彼は『47 RONIN』でも素晴らしかったんですよ。
『SHOGUN 将軍』の真田さんや平岳大さん、浅野忠信さんは非常に良いと思います。
ただ、それは彼らが培ったキャリアゆえのものであり、現場の演技指導が素晴らしいからとは到底思えません。
浅野さんは同系統の役で比べてみれば、北野武監督の映画『首』のほうがはるかによく見えます。
彼らは自分たちの求められるポテンシャルを理解し、それを発揮できるだけの力があるから重厚な演技ができる。
問題は中堅以下のキャストです。
現場で指導があやふやなのか。若殿のような役でも、到底誰もついてこないような、ひょろひょろした声しか出ていません。
日本語発声指導も、字幕ありきでいい加減なのか。滑舌が悪く聞き取れない台詞が多いことには困りました。
所作もあやふやですし、殺陣も大仰な割には迫力不足。
1980年代のハリウッドニンジャ映画級です。
とても2020年代とは思えないような場面すらしばしばあり、本作に古武術の動きを期待するとガックリすることでしょう。
『SHOGUN 将軍』だと思うからこそ許容範囲なのであって、『大河ドラマならば到底許せないな……』と感じました。
所作、殺陣、発声、若手俳優の演技のレベルは、まっとうな大河ドラマの足元にも及びません。
むしろ予算が少ない中、ある程度の質が保証されている大河ドラマって素晴らしいんだな……とあらためて思わされた程です。
『SHOGUN 将軍』では、セット、照明、衣装もどこか違和感がつきまといます。
これまた『ゲーム・オブ・スローンズ』を意識しているのか、全体的に暗い色調なのです。
しかし、イングランドと日本では気象条件が違います。
いくらなんでも日照時間が短すぎると思えるうえに、色彩感覚まで薄暗く、冴えない。
日本の伝統的色彩感覚は江戸後期以降、確かに暗いものに落ち着いたとされます。しかし、戦国時代はまだまだ鮮やか。『麒麟がくる』と比較すると際立つことでしょう。
こんな、天候も暗い、衣装も暗い、人間性も暗い、そんな日本を模した世界で何かを展開されても、気分がどんどん暗くなるばかり。
これのどこに日本文化への敬意があるのでしょう?
もしかして、敬意なぞ、はなからなかったのではないか……。
ブラックソーンというイギリス人が文明の光をもたらすかのように“無双”し、レディ・マリコなるキリシタンとロマンスめいた関係を繰り広げる。
そんなブラックソーンとマリコのイチャイチャの合間に、虎永の天下取りを挟まれたところで、これはアメリカン『島耕作』ワールドなのか……と思えなくもありません。
ここまで考えて気付いたことがあります。
これこそ「アメリカンなろうワールド」ではないか――そんな発見でした。
これは「アメリカンなろうワールド」ではないか?
2024年秋、芥川賞作家である市川紗央氏による島田雅彦氏の小説『大転生時代』の書評が話題にのぼりました。
私はこの手の「転生もの」や「なろう小説」はそこまで詳しくないものの、書評そのものは腑に落ちたものです。
それは以下のような指摘がなされていました。
主人公が生まれ変わった異世界で、文明化されていない対象に光をもたらす。
その転生もののシチュエーションを、アメリカ軍が第二次世界大戦で敗北した日本で味わったであろう体験と重ねてあるのではないか。
日本人がかつて味わえなかった甘い体験ではないか――。
私は『SHOGUN 将軍』を見ていて、この書評を思い出しました。
主人公であるブラックソーンは、中世のイングランド人というよりも、現代のアメリカ兵のようだと思える場面がしばしばありました。
彼は日本人に対し、言葉が通じないからと侮って、下品な英語で罵倒を繰り返します。
これがいわゆる「Fワード」なのですが、時代考証を踏まえると“bloody”あたりではないかと疑念を覚えたものです。
言葉遣いだけでなく、立ち居振る舞いも、ふてぶてしい顔つきも、どうにも違和感があります。
珍妙と言えば彼の刈り込んだ髪型です。
あれを維持するには相当短いスパンでお手入れをしなければならないでしょう。
あんな毎日洗って数日おきに刈り込んでいそうな髪型をされても何がなにやら。見栄えの問題にしか思えませんでした。
髪型や言葉のせいで、彼はやはり「現代の米軍基地あたりから転生してきた感」がバリバリに漂っています。
そして異国ハーレムライフをエンジョイするんですよね。
彼が美女と二人きりになる場面がやたらと多く、そんなサービスシーンはいいからさっさと本筋に入ったらどうなんだと何度毒づいたことでしょう。
メインヒロインがよりにもよって細川ガラシャがモデルの毬子というのも、ともかく見ちゃいられないと思ったものです。
他の女性名は「落ち葉の方」なのに「毬子」ですか。厳密に言えば間違いとは言い切れないものの、そんな現在の語学教材でも出てきそうな「マリコ」ですか。
ブラックソーンが、
「マリコサン、アリガトゴザイマス」
と言い出すところは、なにを見せられているのかと困惑しました。
日本語の発音が悪いと言いたいわけではありません。戦国末期の世界観に突如投げ込まれる日本語教材じみたやり取りはなんなのでしょう。
彼があまり聡明とは思えず、やたらと態度が大きいことも嫌気がさしました。
日本語を学ぶ気があるとも思えませんし、「郷に入りては郷に従え」という精神性も感じさせません。
どうして主人公がチンピラなのだろう……そんな疑念を抱いたものですが、等身大のなろう主人公と考えれば納得できます。
毬子の夫が、転生野郎と妻がやたらと二人きりになることに疑念を呈していて、それが日本人の狭量さのように誘導されていました。
確かに実際の細川忠興は妻を束縛していました。その様がカトリック経由でヨーロッパに伝わり、戯曲にもなったものです。
しかし、このドラマの描写を見ていると夫の懸念が当たり前にしか思えない。
当時の貴婦人が侍女もつけずに狭い室内で男と二人きりになってばかりでは、疑われて当然なのでは?
こういう無茶苦茶さも所詮なろう系で、サービスが必要なのだと割り切れば眉間に皺が寄りつつも腑に落ちます。
ブラックソーンも毬子も、さして賢くなさそうに見えるのに、この日本に平和をもたらすヒーローヒロイン扱いされているのもわけがわかりませんでした。
大前提として、三浦按針はプロテスタント、毬子はカトリックです。
それを「キリシタン」と雑にまとめているのも、一体どういうことなのやら。
按針がもたらした大筒を、劇中では虎永とされる徳川家康が活用したことは確かです。
とはいえ、家康は大筒だけで勝ったわけではありません。
この「転生してきたヒーローがもたらした文明が、蛮族の住まう世界に平和をもたらす」というのは、一種のテンプレなのでしょう。
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