竈門炭治郎

『鬼滅の刃』23巻/amazonより引用

この歴史漫画が熱い!

竈門炭治郎は日本の劉備だ 徳とお人好しが社会に必要な理由 鬼滅の刃

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チーム全体を底上げする、ズレた【徳】は宝である

炭治郎のお人好しぶりは、作中で「ズレてる」と指摘されています。

善逸がそのズレに困惑する代表枠です。

炭治郎は家族思いでいい子! きっとマンガを読んでいる少年たちも好きになり、だからこそヒットしている……そう丸めている記事もありますが、私としてはどうかと思ってしまいます。

冷静に考えてみましょう。

彼が周囲にいて、友達になりたいかどうか?

実際のところ、その反応は賛否両論だと感じます。

『鬼滅の刃』アンチレビューには、要約すれば「主役がウザい!」というものが多い。具体的にザッと挙げますと……。

炭治郎は陽の【コミュ障】

いい奴だけど友達にはなりたくない

透き通った目で正論を言ってくるところが残酷では

相手の地雷を踏んでいく

押し付けがましい

空気を読んでない!

【陰のコミュ障】と言われる冨岡義勇に対し、ストーカーのようなアプローチ、ざるそば早食い勝負のあたりは強引でした。あの義勇ですら困惑しきっていたほどです。

ここまで特異な性格は、ごく低確率でしか発現しない個性だと考えた方がよいでしょう。

炭治郎はかなり少数派かつ、未解明の人物なのです。

ただし前述の通り、古典文学や宗教ではこうした人物が称賛されてきました。

人間社会に稀にいる、キラキラした正論を持つズレたタイプとでも言いましょうか。

彼らは称賛される存在なのです。

人間社会は弱肉強食だけでは成立しない――炭治郎という人物像は、そんな真理も伝えている。

周囲から救われることは、悪いことではない。情けないことでもない。それも個性であり、才能であり、生存戦略なのです。

彼は古典的な【徳】のある英雄として、そのことを教えてくれます。

その才能は、誰かの心を開くこともそうです。心こそ原動力だと繰り返し示される本作においては何度も証明されてきました。

ズレているからこそ、別のズレた相手と交流できるんですね。

自分に才能がない、弱いと劣等感を抱く善逸を「強い!」とキッパリ言い切った。

普通のコミュニケーションができそうにない伊之助を否定せず、その優しさでホワホワさせた。

この二人は「個性的で人気!」とされてはいるものの、現実社会にいたら問題児扱いされて、いじめや無視のターゲットにされかねません。

そんな彼らに偏見抜きにしてつきあえる炭治郎って、実はとんでもねぇ奴なんですよ。

しかも炭治郎は「心を極端に閉ざした相手」に対してこそ、真の力を発揮します。

カナヲの心を開くためならば、何度でもコイントスをすると断言するし、義勇が不安になるほどつきまとい、彼の語られなかった過去についても聞きとった。

カナヲと義勇は性別が異なり、その閉ざし方にも違いがありますが、似ている気質です。作中でも、心を閉ざしきっていました。

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炭治郎がいなければ、かれらは心を閉ざしたまま生き、可能性を発揮できなかったかもしれません。

暑苦しいほどしつこいアプローチによって、二人は救われたのです。

チームの力を引き出す――なんて言うと空々しい言葉に聞こえるかもしれませんが、それこそが紛れもなく炭治郎の才能の一つでしょう。

三国志演義』の劉備が、草庵で世捨て人のように生きる諸葛亮を三度訪れ、世にでるきっかけを作ったのも同じことですね。

ヒトという種が生存するためには、集団内に【徳】の高い個体がいる方が効率的である。

炭治郎には、そんな遺伝子が残されていて、個性につながっている。

こうした先天性の要素がまずあって、後天性の要素として鬼殺隊への加入があります。

鬼の襲撃という宿命がなければ、炭治郎はズレた【徳】を発揮し、ご近所の頼まれごとをこなし、地域住民の心を癒やす変わり者の好人物として生涯を終えたことでしょう。

 

炭治郎を真似できるかというと、実はそうでもない

炭治郎は、性格がズレているのみならず、割と無茶苦茶な根性論を振り回しています。

ハッキリ言いますと、彼の真似は危険。

まぁ、真似できる子どもだってそうそういないとは思いますが。

マンガはじめフィクションの悪影響は議論されますが、ここで考えたい点があります。

【再現の難易度】です。

『ワンピース』を読んで海賊になる読者はいない。これは当たり前でしょう。船の確保が容易ではありません。

では『ハレンチ学園』以来、問題視されてきたスカートめくりはどうか?

この場合、スカートを履いていて、抵抗しない誰かが目の前にいれば簡単に真似できてしまい、実際、1970年代には社会問題となりました。

スカートめくりや風呂のぞきは、現在では性犯罪とされます。日本国外では重大な刑罰もあり得るし、ノスタルジーで終わらせていいものでもありません。

他ならぬジャンプの作家複数名が性犯罪により連載中止、単行本絶版になったことがあります。現に軽くない被害が出ているのです。

それでも何も学ばず対策をしなければ、責任から逃げているだけでしょう。

このことを踏まえますと、炭治郎の言動が読者に悪影響を及ぼすという懸念は杞憂かと思われます。

そもそも炭治郎の性格はかなり個性的、先天性由来であり、ごく少数の者しか発現できないはずです。

例えば

「長男だから我慢できたけど 次男だったら我慢できなかった」

そう自分自身に言い聞かせ、激痛をものともしない長男がどの程度実在するか?

決して多くはないはず。

人の組織が安定的に行動できる人数として【ダンバー数】という概念があり、それは「150人」とされています。

その中に、グループを安定的に動かし、力の底上げをはかる炭治郎タイプは、1人か2人いれば十分でしょう。多すぎてもトラブルにつながりかねません。

ヒトの生存戦略として、彼のような個体をその割合で発現させるようにしてきたと考えれば、現実に数パーセントいるかいないかという少数派です。

鬼殺隊の他の隊員で、炭治郎と同じタイプの存在としては煉獄杏寿郎が挙げられます。責任感の強さは母親に似たとされていて、彼は強い者としての責務を全うすることを常に考えていました。

そして「うまい! うまい!」と駅弁を食べるあたりが、なかなかズレております。

最終回において、現代を生きる炭彦と桃寿郎が並んで走っていました。

似た者同士で、周囲からは「悪い人じゃないけど、なんか暑苦しいキャラだな」と思われがちなコンビなのかもしれません。

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集団内の発現率として、この二人を参考にすればよさそうです。

つまり、その程度の少数しか、真似しても彼のようになりきれず、先天性ともなれば、真似するまでもなく最初からある程度ズレてしまっている可能性もありましょう。

読者が炭治郎を真似して、社会の空気を変えるとは思えません。

そう簡単に悪影響を受けるほど、読者の頭がまっさらであるとも思えない。

むしろ私が懸念することは

「現実社会にいる炭治郎タイプが偏見にさらされているのではないか?」

ということです。

ズレた個性を【コミュ障】と片付けて理解せず、遠ざけ、時にはイジメたり、無視してしまう。残念なことに、こうしたケースはよくあるものです。

人と違ってズレている存在だって、グループにとっては必要なのに。

むしろいなければ解決できないことだってあるのに。

そういう事態を避けるためにも、炭治郎のような誰かのことを想像し、受け入れることが大事だと思うのです。

 

【フェミニスト批評】の是非を考える

彼の「長男だから」という発言を変更すべきだという指摘があります。

これまで長々と検証した通り、悪影響があるとは到底思えませんので、私としては議論の必要すら感じません。

不死川実弥の項目でも触れましたが、そもそも大正時代が舞台であるからには、そこを削除することは有害となりえます。

我ながらくどいとは思いつつ【フェミニスト批評】の観点から再検討させていただきますと……。

海外では既に定着しつつあるこの動きが、ようやく日本でも広まりつつありますが、実際問題、迷走したスタートを切っていて、ある懸念を感じるのです。

その理由を考えてみました。

・【フェミニスト批評】であるからには【フェミニズム】と【批評】両方の知識が求められる。ただ、このいいずれか、あるいは両方の認識が不十分なままでしているものがみられる

・SNSの普及は、誰でも批評家になれる時代の到来とも言える。知識が不十分なまま、問題がある批評でも、RTされるうちに広まって認められてゆく

・どんな雑な理論でも、バズればいいという認識で、ともかく殴ったもの勝ちの領域に突っ込みつつある

・『鬼滅の刃』のような時代ものでは、舞台となる時代背景への考察も求められる。そこが欠落した議論になると混沌としてくる

・「そうは言ってもどうせ少年マンガなんだから、大したメッセージなんかないし、読者もそこまで高度な考察をしなくてよい」というバイアスからの迷走

「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編には、女性専用車両が出てこない! 問題だ!」

甘露寺蜜璃は露出が激しい! フェミニストはこんなマンガを読んではならない!」

ここまで極論ですと、取り上げて拡散することが混沌を助長するようで迷うところではあります。まぁ、こうした意見はそこまで多くもありません。

甘露寺蜜璃(鬼滅の刃・恋柱)
甘露寺蜜璃のピンクと緑は今どきバッド・フェミニスト♪鬼滅の刃恋柱

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ただ、炭治郎の「長男だから」については、変えるべきであるとか、ジェンダー観に悪影響を及ぼしかねないから有害といった論が定着しつつあり、しかも話題作だけに何度も見かけます。

批判するなら押さえておくポイントのようになっておりますが、果たしてそれが適切なのか甚だ疑問。

まだまだこれからとも言える【フェミニスト批評】ですが、うってつけの本もあります。

北村紗衣著『お砂糖とスパイスと爆発的な何か: 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(→amazon)です。

まずはこの本を読み、考えていただけると幸いなのですが……。

追っかけから始めて何が悪い『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』

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己を鼓舞せよ、思想・良心の自由を保障せよ

炭治郎の「長男だから」とは、己を鼓舞する心の声として出てきます。

もしも頭突きをしながら「長男だからがんばれ!」と周囲に強要するのであれば大問題ですが、実際は自分に対しての文言ですよね。

そこまで制限するとなれば、それを指摘するのはハッキリ言って余計なお世話かつ思想及び良心の自由への侵害です。

この世にある問題とは【ジェンダー論】だけではありません。

雑な問題提起は、かえって発言者の信頼性を落としかねないもので危険。

【「長男だから」は有害だから変更すべき論】は、もう議論する必要性すら感じられません。

日本国憲法第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

むしろこうした雑な批評が拡大されることは、批評する側の信憑性を落とすだけでなく、人間の認識の過小評価も感じます。

「長男だから」は、もはやネタ扱いをされている。これは大正時代から認識が変わったという何よりの証拠です。

百年前ならば通じた道徳や理念も、現代では古すぎて陳腐になり、そうそう押し付けとして機能するとは言えません。

試しに「長男だから」という言説を、何がなんでも否定する側の年齢や属性を考察してみましょう。

年代や思考の傾向が見えてくるのではないでしょうか。

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