本郷和人の歴史ニュース読み

「難波津(なにわづ)の歌」と「かたみの歌」東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み

日本中世史の本郷和人・東大史料編纂所教授が歴史ニュースをぶった切る「歴史ニュースキュレーション」。

今週は、平安京から出土した木簡と、奈良大仏の螺髪(頭のポツポツ)に注目です!

 


「難波津の歌」全文記した木簡初出土

◆「難波津の歌」全文記した木簡初出土 平仮名の完成形に近い字も確認 11月26日産経WEST(→link

 平安時代の9世紀後半に和歌「難波津(なにわづ)の歌」の全文を墨書した木簡が京都市中京区の平安京跡から初めて出土し26日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。平仮名の完成形に近い字も多く確認され、平仮名成立の解明にもつながる貴重な史料になるという。
木簡は長さ34・5センチ、幅3・5センチ、厚さ4ミリのヒノキ製。9世紀後半の国内最古級の平仮名が書かれた土器が出土した右大臣、藤原良相(よしみ)邸近くの邸宅跡から出土した。同時に出土した土器から、木簡は良相邸の土器より30年ほど新しいものとみられる。

本郷くん1

本郷「かたみの歌っていうのがあってね」

himesama姫さまくらたに

「聞いたことあるわ。たしか・・・書き置くも形見となれや筆のあと我はいずくの土となるとも、だったかな」

本郷「おお、すごい。その通り。時は中世、全国のお寺や神社にお参りした人たちが、お堂に落書きを残した。字がよく書けない人は「かたみ、かたみ」なんて呪文みたいな言葉を書いたんだ。少し字を知っている人は」

「そうか、このかたみの歌を書くのね。それくらいみんなに広く知られた歌だったんだ。それで私も聞いたことがあったのね。自分はここにいるぞ-、っていう感じなのかな。修学旅行の高校生がつい相合い傘かなんか落書きして怒られました、っていうのとは違って、内容からは悲しげな感じがうかがえるわね」

本郷「そうだねー。生と死が隣り合わせの時代の感じがうかがえるよね。それでね、佐倉の歴史民俗博物館の三上喜孝くんは、この歌と難波津の歌との関係を論じているんだ(『落書きに歴史をよむ』吉川弘文館)(→amazon)」

「難波津の歌っていえば、こうよね。難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

本郷「そのとおり。仁徳天皇の治世の繁栄を願って詠まれた歌で、『古今和歌集』で紹介されている。平安時代にあって、もっともよく知られていた歌といえる」

「ほかに蘊蓄があったら、教えて頂戴」

本郷「ええとね。作ったのは百済からの渡来人である王仁と伝えられているね。それから、ここに歌われた「花」は、桜ではなく、梅なんだ。あと他に・・・、そうだ。大阪市の行政区である浪速区と此花区は、どちらもこの歌にちなんで命名されている。最後にもう一つ。この歌は百人一首には含まれてはいないんだけれども、有名なものなので、かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、競技かるた大会の時に、一首目に読まれる」

「はい。まあ、それくらいで十分でしょう」

◆『落書きに歴史をよむ』(→amazon

 


奈良の大仏「螺髪」

◆奈良の大仏「螺髪」伝承の半分492個か 12月3日 NHK NEWS WEB(→link

奈良・東大寺の大仏にある巻き貝のように巻いた髪、「螺髪(らほつ)」の数について、東京大学のグループがレーザー光線を使って分析したところ、これまで伝えられていた数の半分ほどとなる492個とみられることが分かりました。

本郷「仏像のレーザーによる計測かあ。ぼくが史料編纂所から同じ東大内の情報学環というところに籍を移していた時ね、池内克史教授という方がいらっしゃって、そういうことを研究されていたなあ。たとえばカンボジアの アンコールトム遺跡バイヨン寺院の立体データを取得したり、鎌倉大仏のデータを取ったりしていた」

「もちろん数値を計測することは必要なんでしょうけれど、どういうふうに使えるの?」

本郷「さきごろ、イスラム国がパルミラの遺跡を破壊したよね。タリバンはバーミヤンの大仏を壊しちゃった。これは人の手による破壊だけれど、他にも自然災害によって世界的な文化遺産が失われることはある。三次元のデータを取っておけば、もしこんな事があったとしても、本物ではないけれども、再現することが可能になるんだ」

「なるほどねー。・・・あら?東大寺大仏を計測された大石岳史先生って、あなたの言っている池内先生に学んでいるみたいよ。ほら、このデータ(http://www.cvl.iis.u-tokyo.ac.jp/~oishi/index-j.html)だと池内研究室に所属されていたみたいだし」

本郷「そうか。ぼくと五味先生みたいな関係なのかな。まあ、それは良いとして、いまの大仏さまのお顔はいつのものかは知っている?」

「初代の大仏さまは平重衡の焼き討ちによって焼け落ちたのよね。それで重源が活躍して、陳和卿(ちんなけい・ちんわけい)らの協力のもとに2代大仏が造られた。その2代目は松永久秀の攻撃によって首が落ちたのよね。でもいつごろ復元されたの?」

本郷「3代目の大仏さまが完成したのは元禄4年(1691年)。大仏殿は更に遅れて、宝永6年(1709年)に落慶した。大仏殿が造られるまでは、大仏さまは鎌倉と同じで、露座の大仏だったわけだね。大仏殿の規模は天平年間の4分の3だそうだ」

「でも、強大な建築物よね」

本郷「そうだね。それで、これはぼくも最近になって知ったんだけど、瓦の重さに耐えられなくて、大仏殿は明治維新期には少し傾いていたらしい。それで、当時の最新技術が使われ、鉄骨などを入れて補強工事が行われたんだ」

「え? 大仏殿に鉄骨?」

本郷「そうなんだ。屋根裏の鉄骨は見えないけれど、軒先の木組みのところでは補強の鉄材が見える。今度行ったときに,注意深く見てみてね」

 


平城京の一等地に貴族の邸宅跡か

◆貴族の邸宅跡か - 奈良期後半 平城京の一等地/旧奈良署跡地 12月3日 奈良新聞(→link

 奈良市三条大路1丁目の旧奈良署跡地で、奈良時代後半(8世紀後半)の邸宅跡が見つかり、2日、調査を行った県立橿原考古学研究所が発表した。現場は平城宮や古代の有力者だった長屋王の邸宅跡からも近い平城京内の一等地。その京内の区画「坪(町)」の全体を占有していたとみられ、貴族の邸宅だった可能性が高い。

本郷「ほほう。さすが、古代史だなあ。夢のあるニュースだね」

「このニュースにある「掘っ立て柱建物」ってなあに? 掘っ立て小屋みたいな粗末な家のこと?」

本郷「いやいや、そうじゃないよ。柱を立てるときには二つやり方があって、礎石と呼ばれる石を先ず土に埋め、その上に柱を立てる場合。それから、柱を直接土の中に埋め込む場合。これが掘っ立て柱で、掘っ立て柱によって構築されている建物を「掘っ立て柱建物」という。もちろん礎石を用いる方が頑丈だけれど、掘っ立て柱建物がすなわち安上がりな建物、とはいえないな。たとえば伊勢神宮の正殿は、いまでも掘っ立て柱建物なんだよ」

「もうすこし、礎石建物と掘っ立て柱建物との違いを説明して」

本郷「礎石建物は礎石の上に柱を固定させずに据え置く。だから太い柱を用いて、瓦屋根の重みで建物全体を安定させる必要があるんだ。それから、複雑な木組みを用いて地震や台風の横力を分散させる。「柔構造の建築」なんだね。それに対して掘っ立て柱建物は柱の元を地中に固定する。柱上に直に桁(けた)を置いて、草・板・樹皮で葺いた軽い屋根を載せる。こちらは「剛構造の建物」と呼ばれるんだ。この構造では、柱の太さに関係なく地震・台風にある程度耐えることができる。建築費はこちらが安い。技術的にも簡略。だから大量生産が可能である。そんなところかな」

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