金栗四三/wikipediaより引用

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金栗四三(かなくりしそう)いだてんモデル92年の生涯をスッキリ解説!

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その後の五輪と箱根駅伝、女子スポーツ

目指せ、四年後のベルリン五輪!
金栗は、ストックホルムの屈辱を胸に、さらなる猛練習に励みました。

新たに外国の舗装道路を走ることや、炎暑を想定したトレーニングメニューも取り入れました。
足袋の改良、ドイツ語の学習、ベッドでの睡眠や洋食に慣れる訓練も、平行して取り組むほどです。

そして大正3年(1914年)、東京高等師範学校卒業の年となりました。
五輪の挑戦を目指し、教職に就くことは考えられません。

異例のことながら、教師への奉職を断り、「研究科」に籍を置くことになりました。

そして徒歩部に毎朝乗り込むと、盆正月も、雨の日も、雪の日も、練習に励む金栗。
常に全身真っ黒に日焼けしていました。
後進ランナーの育成や、スポーツ啓発にも取り組みました。

しかし、ベルリン五輪は第一次世界大戦の影響により、開催中止となってしまうのです。

次はアントワープ大会ですが、また四年間走るだけというのも、流石にどうかと金栗は悩みました。
そして嘉納に相談することにしたのです。
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教師としての歩みと「箱根駅伝」

嘉納は、教師として指導する傍ら競技生活を続けたらどうかと言います。
そこで金栗は愛知一中に奉職しようと相談するのですが、「日本の金栗を愛知一中で独占はできない」と断られてしまいます。

最終的に金栗は、鎌倉にある神奈川師範学校へ赴任しました。

物分りよく優しい教師である金栗は、生徒からも人気。
ちなみにこのころ徴兵検査を受けておりますが、結果は甲種に届かない第一乙種。
身体能力が不適格なのではなく、その業績ゆえ、軍の判断で「スグに入営(軍に入ること)がないように」書き換えが行われていたようです。

神奈川師範学校からは、一年ほどで異動になりました。
日本のスポーツ界を担う人物が鎌倉にいては不便と考えた、嘉納による措置です。

次の赴任先は、独逸協会中学でした。

第一次世界大戦の敗北で、ドイツの評判は下落気味となっており、独逸協会中学も斜陽の学校とみなされていました。
しかし金栗が指導するようになると、活気が戻って来ます。
彼が顧問をつとめた徒歩部は、躍進著しいものがあったのです。

五年間にわたる独逸協会中学での日々は、指導者としての金栗にも充実したものでした。

なかでも、大正6年(1917年)に開催された、東海道五十三次を走る日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競走」は、金栗にとっても重要な大会でした。

このときは関東と関西に別れて競いました。
関東組のアンカーは金栗。
満開の桜の中、タスキを背負った金栗は関西組に大差をつけて、先にゴールしたのでした。

箱根駅伝栄光の碑

なおこの年、金栗は春野スヤという女性とお見合いをして、結婚しています。
大正5年(1916年)には、金栗ら三名の陸上選手が、東京箱根間を走る駅伝大会を発案しました。

そうです、今に至るまで正月の恒例行事である「箱根駅伝」です。

前述の通り1920年に第1回大会が始まり、東京高等師範学校が優勝しました。
このときの参加校は他に明治・早稲田・慶応の計4校で、翌年には東農大、法政、中央の3校も参考して計7校の中で明治が1位。

更に翌1922年には東大、日本歯科大学、日大も参加して、にわかに盛り上がってきますが、1923年には夜間学部に属する生徒の参加が禁止となりました。
人力車を引く車夫が参加するなどの問題が表面化したのです。

言い換えればさほどに同大会の注目度が上がっていたわけですね。

箱根駅伝の歴史&優勝チームまとめ いだてん金栗四三はナゼこの大会を始めた?

 

二度目のアントワープ五輪へ

箱根駅伝と同年の大正9年(1920年)4月。
ベルギーでアントワープ五輪が開催されました。

金栗は自身8年目となるマラソン代表として予選を勝ち抜いて2度目の参加が決定。

アントワープ五輪ポスター/Wikipediaより引用

日本選手団は、前回1912年のストックホルム五輪よりも選手が増えていました。

彼らは海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープをめざします。
途中でアメリカにもゆっくり滞在し、スポーツ先進国を視察する目的も果たしました。

今回の選手団は、前回と比べて、格段に快適に過ごすことができました。
これも経験者である金栗が、よりよい環境づくりを行った結果であります。

そして8月22日、マラソンの当日(大会自体は4月20~9月12日という長さだった)。

前回のストックホルム大会とはうってかわって、鳥肌が立つような寒さでした。
金栗は膝に痛みを抱えつつ、レースに挑みます。

30キロ地点を通過するころには、5位にまで浮上。好調でした。
が、4位の走者を抜こうというときになって、左足首に痛みが走ります。

痛みは弱まるどころか、足首からふくらはぎ、そして大腿部へとジワジワと。
冷たい雨の中、痛みに麻痺したような脚を引きずってゴールしたとき、金栗は16位でした。

もしも脚の痛みさえなければ……無念の敗北でした。

この大会では、男子テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎がメダルを獲得したのみで、それ以外の日本選手は入賞を逃しました。
しかし金栗が何も得られなかったわけではありません。
海外でスポーツに取り組む女性の姿を見た金栗は「女子にもスポーツ教育が必要だ」と確信したのでした。

 

女子スポーツ教育振興に取り組む

女子スポーツ教育案を練る金栗に、嘉納は「東京女子師範はどうか」と紹介してきました。大正12年(1923年)のことです。

赴任先の女子師範に向かった金栗を迎えたのは、おてんば娘たち。
彼女らが親しんでいたスポーツは、自転車でした。

スカートや袴のまま乗り回せる自転車は、女性にとっても颯爽とした開放感の象徴でして。
西洋の婦人だけではなく、日本の女学生たちにとってもそうでした。

しかし、当時の世間は「女子がスポーツをするのは、はしたない、不要だ」という風潮でした。

この時代の女子教育とは良妻賢母になるためのもので、スポーツなぞもってのほか。
金栗はそうは思いません。
女子の健康のために、スポーツが必要だと信じていました。

そこで彼が考えた女子にふさわしいスポーツとは、テニスでした。

アントワープ五輪メダリストであり、フランス名選手のスザンヌ・ランラン/Wikipediaより引用

金栗の指導は厳しい、と同時に大変楽しいものでした。
無理矢理鍛えるというよりも、皆と楽しむものですので、生徒だけではなく教員までテニスに励んだのです。

そしてそれは昭和5年(1930年)の金栗退任まで、日本女子スポーツの種が蒔かれたのでした。

 

三度目のパリ五輪

大正13年(1924年)、金栗は三度目の五輪に挑みました。
今度はパリ大会です。

この年、金栗は既に30才を越えていて、選手としてのピークは過ぎていました。
本人としても後進選手にバトンを渡しておきたく、本来は出るつもりはありません。

しかし、予選会だけでも「後の選手たちに伴走する気持ちで」と周囲から背中を押され、これに出たのです。

と、この予選会で、金栗一門の選手たちはほとんどリタイアしてしまいます。
こうなると俄然やる気が湧いてくるもので、金栗は猛練習に励み、三度目の出場権利を手にするのでした。

三度目の参加。
マラソン競技の当日は、12年前のストックホルム五輪を思わせるような、暑い日でした。

金栗は前半こそ積極的に飛ばしたものの、32~33キロ付近で急激に意識が朦朧としてきて、またしてもリタイアしてしまったのです。
その前には20キロ付近で、田代菊之助もリタイアしており、日本人選手団の力のなさをあらためて痛感させられることになります。

確かに猛暑もありました。
そして睡眠不足の悪影響もありました。
しかし、四年に一度の大舞台で実力を発揮するためには、まだまだ新たな努力と工夫が必要であると、痛感させられた苦い結果でした。

そしてこの大会を最後に、金栗は選手としてのキャリアを終えるのでした。

四年後の昭和3年(1928年)アムステルダム五輪において、日本人選手の山田兼松が4位、津田清一郎が6位入賞を果たしました。
この知らせを、金栗は嬉しい気持ちで知りました。
彼の三度にわたる五輪挑戦は不本意な結果でしたが、道を切りひらき、後進を育てる役割は立派に果たしたのです。

昭和5年(1930年)、金栗はスポーツ嫌いの校長と対立し、東京女子師範を去りました。
4人の子の父となっていた金栗は、東京を去り郷里熊本に戻ると、子供たちにスポーツの楽しさを教え、悠々とした日々を過ごすことにしたのでした。

その後、昭和15年(1940年)の東京五輪大会準備に携わるため再度上京するものの、戦火の拡大により、幻に終わってしまったのでした。

 

スポーツマンとして初の紫綬褒章を受賞

太平洋戦争の影響は、言うまでもなく東京五輪中止だけにはとどまりません。
日本全土が焦土と化し、未来あるアスリートもふくめて、多くの人々が命を散らしました。

その傷がようやく癒え始めた昭和21年(1946年)10月20日、第一回全日本毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)が開催。

これを皮切りに日本の長距離陸上も復活を遂げ始め、さらにその翌年には、金栗の名を冠した「第一回金栗賞マラソン」(現・金栗翁マラソン大会)が開催されます。

かつての韋駄天も、そのときには還暦の手前。
感無量の気持ちで、大会を見守ります。

金栗はこのあと、五輪やボストンマラソンといった国際大会で活躍する日本人選手の育成にあたりました。

そしてそれまでの功績を認められ、昭和30年(1955年)には、スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞したのです。

 

55年ぶり感動のゴール

昭和42年(1967年)、金栗は思い出の地であるストックホルムの地に経ちました。
実に55年ぶりのこと。

ストックホルム五輪の記念行事に、招待されたのです。

金栗は、同五輪の大会で、記録上は棄権したという意志が伝わっておらず、未だゴールしてない状態だったのです。なんという粋な計らいでしょうか。

当時のまま残っているストックホルムのスタジアム。

オリンピックスタジアム正門/photo by Derbeth Wikipediaより引用

金栗が少し走り、ゴールテープを切った瞬間、アナウンスが流れます。

「ストックホルム五輪全日程が、これにて終了しました」

続けて発表されたマラソンのタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」。

ゴールした金栗は
「この間に妻をめとり、子が6人と孫10人ができました」
と挨拶をして、観客を沸かせました。

このストックホルム訪問の際、金栗は、かつてお世話になったペトレ家も訪れています。
そこで女主人からふるまわれたラズベリー味のレモネードを「55年前と同じだ」と喜び、飲み干しました。

金栗は大会以来、ペトレ家の人々と文通を続けていました。
そして半世紀以上のときを経て、再会を果たしたのです。

そして昭和58年(1983年)。
金栗は92才で大往生を遂げました。

一生涯を走ることに捧げ、「体力、気力、努力」を掲げて生き抜いた大アスリートの一生。
大河ドラマ『いだてん』での登場が今から待ち遠しくてなりません。

※なお、最後になりましたが田畑政治は、特に水泳競技の発展に尽力された方で、後に1964年東京オリンピックの開催を実現化された功労者です。
物語が盛り上がること必至となりそうですね!

ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板/photo by Ah-Young Andersson wikipediaより引用

文:小檜山青

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※1 大阪道頓堀のシンボルであるグリコは複数のランナーをモデルにデザインされました。

金栗四三だけでなく谷三三五(たにささご)やカタロン選手(フィリピン)などが含まれています(以下、マイナビ記事より引用)

グリコの記録に残っているのが「極東オリンピック(第5回極東選手権競技大会)で優勝したカタロン選手(フィリピンの選手でマラソンで優勝)をはじめ、パリオリンピック(1924年開催)に出場した谷三三五(たにささご)選手やマラソンの金栗四三(かなぐりしそう)選手で、その他、当時の多くの陸上選手らのにこやかなゴールイン姿をモデルにした」

【参考文献】
『走れ二十五万キロ―マラソンの父金栗四三伝』長谷川 孝道(→amazon link
『箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』佐山 和夫(→amazon link

 

 



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