おんな城主直虎特集

龍雲丸のモデルは新田友作か?おんな城主直虎、最大の疑問に答える

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「柳楽優弥さんが演じる龍雲丸とは何者なんだ?」

『おんな城主直虎』の放送が折り返し地点を過ぎ、最近、よく耳にする話題がコレ。

ドラマの中の龍雲丸は、井伊谷からほど近い「気賀の町」に居座り、ならず者や孤児らしき子供たちを束ねている龍雲党の頭目であり、一時は井伊家の木材伐採を手伝うなど、同作品に欠かせない存在になっていた。

最近では、今川氏真が気賀の町を直轄しようとしたとき、過剰なまでに反対運動をしたのも龍雲丸である。

おそらくドラマを見ていた皆さんは思ったことであろう。
『いったい彼の過去に何があったのか? そもそも、モデルとなる人物はいるのだろうか?』

巷に数多ある直虎の関連記事で、龍雲丸は「完全なオリジナルキャラ」とされているようだが、結論から言ってしまえば、彼のモデルらしき人物はいる。

「それは新田友作です」
かく語るのは本サイトでおんな城主直虎特集を担当する戦国未来氏。
井伊直虎の地元・浜松で自ら史跡へ足を運んだり、関連資料を読み漁る市井の研究者であり、そんな氏も龍雲丸の正体について色々と考えを張り巡らせ、確信を持つに至ったという。

果たして新田友作とは何者か。
あらためてご説明を願おう(以下、氏による本文)。

 

新田友作は4人のリーダーであり、実は「気賀の領主」だった

戦国時代の気賀(静岡県浜松市北区細江町気賀)を語る上で、欠かせない武将が4人いる。

新田友作(勇作)
竹田左兵衛高正
山村修理大夫
尾藤主膳

彼らのことを「土豪」あるいは「地侍」(気賀に興った武士なれど、国衆ほどの権力はない)と指摘される方もおられるが、実際は「牢人」であろう。要は、どこからか気賀に流れてきた武士であり、江戸中期以降の表記にすると「浪人」となる。

気賀については彼らのような牢人がたむろする街ゆえに「梁山泊」のイメージもあるが、ドラマでは「武士のいない、商人による自治村」であり「九龍」のイメージだとする。
また彼らは、祝田で寺子屋を開いて生計を立てていたというが、ドラマでは、寺子屋の先生は龍潭寺の僧侶や井伊家の重臣が担っていた。

4人の話に戻そう。
新田を除く「竹田・山村・尾藤」の3人は、第26話「誰がために城はある」で、中安兵部定安と共に登場した。

──ではなぜそこに新田友作がいないのか?

私にはどうしてもそれが疑問であった。
新田友作は4人のリーダーであり、実は「気賀の領主」だったという伝承を持つ最重要人物なのである。

そんな人物が、あの場にいないなんて考えられない!

 

名倉の清水城から気賀へ流れてきた

新田友作の正体は、先に書いたように「牢人」である。
では、どこから気賀に流れて来たのか?

清水城(愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水)

それは名倉(愛知県北設楽郡設楽町西納庫清水)である。
名倉(菜倉・納庫とも)の清水に「清水城」があり、新田友作は、清水城の城主の子であった(下条氏に落とされる)。

あれ?
落城した「城主の子」って、どこかで聞いたような……?

そりゃ龍雲丸だろ!と言いたいのを堪えて、名倉氏の系図を見てもらいたい。

名倉の新田一族の祖である名倉伊武は、もとは源満仲―頼光の流れを汲む武士であった。

それが貝吹郷(愛知県西尾市貝吹 町)から名倉に移り住んだときに「名倉氏」と改称。彼には息子がいなかったので、岩松政経の子・新田義一(結婚して「兼氏」と改名)を娘の婿養子として名倉家を継がせ、その子孫は代々清水城主として新田姓となった。

その運命が大きく変わったのは弘治元年(1555年)。
武田氏の軍門に下った下条氏に攻められ、清水城が落とされると、新田友作は気賀に逃れてきたという。この逃亡の手助けをしたのが新野左馬助親矩(井伊家の目付家老)である。
ただ、この逃亡劇には2つの説があり、それが以下の通り。

説①新野左馬助親矩が新田友作(名倉伊茂)を呼び、弘治元年に清水城が落城すると、父・新田(名倉)伊義は、子・新田友作を頼り、家臣と共に気賀へ移り住んだ。

説②→弘治元年、清水城が落城すると、新野左馬助親矩が新田友作を呼んだので、名倉から気賀に来て住んだ。この時、新田友作は30歳であり、当然、初老の父から城主の座を受け継いでいたはずである。
※郷土史家は説①を支持しているが、古文書は説②を示している。

どうであろう。
いずれにせよ「井伊家と関係の深い新野左馬助が登場」するなど、この時点で友作と直虎の関係が浅からぬことを予感させるばかりか、実際、新田友作は井伊家重臣「井伊谷七人衆」の一員でもあった。ドラマの龍雲丸は、仕官を断っていたが、史実ではバリバリの関係者であったのである。

ただし、史実の新田友作は大永5年(1525年)生まれであり、落城時は少年ではなく、30歳の武将。直虎の生年が1535年であれば10歳年上の存在である。
ドラマでの龍雲丸は年齢不詳であるが、ほぼ同年代に描かれている気がしないでもない。

なお、この弘治元年(1555年)はもう一つ大きな出来事も起きている。

亀之丞(後の井伊直親)が井伊谷への帰還を果たしているのだ。
下条氏に攻められた川手城主・川手景隆(後の井伊主水佑)が立野(辰野?)へ逃れ(後に新野親矩に呼ばれて井伊谷へ)、直親逃亡先の松岡氏(市田郷)が武田麾下となり、井伊家に味方できなくなったことが背景にある。

そういう意味ではドラマにおいても重要な年だったかもしれない。

 

徳川に従うべき!と主張して堀川城から追放される

新田友作は、新野親矩に呼ばれて井伊谷(屋敷は気賀(松崎))に来ると、「井伊谷七人衆」の一員になった。

しかし、「桶狭間の戦い」で井伊直盛が殉死して井伊家が没落すると、友作は井伊家を離れ、気賀の領主になったという。新田氏には、中村、石田、丸井など旧来の家臣がおり、それぞれ中村党、石田党、丸井党と、「党」を組んでいた。
「党」とは、「平安後期~中世に存在した武士の連合体」(山川出版社『日本史広辞典』)のことである。

はて?
ドラマにも、なんとか党が出てきたような……?

気賀(松崎)に着いた新田友作は、新田氏居館を改修して屋敷城「松崎城」とし、堀川城を「詰の城」(避難所)としたと伝わる。

そして徳川家康が遠江国へ侵攻してくると、徳川氏に従うよう働きかけたが、今川忠臣の竹田・山村・尾藤の3人はこれに反対。最終的に彼らから追放された友作は身の危険を感じたため、金地院(宗良親王の妻・井伊重子の菩提寺)へ逃れる。
更には、そこで剃髪して「喜斎(きさい)」と名乗り、気賀(呉石)の御所平で暮らしたとも、気賀(老ヶ谷)の古屋敷に隠れ住んだともいう。

龍雲丸にしては、随分と大人しい結末である。
お得意のゲリラ戦でも展開しなかったのか?
あるいはドラマでは別のストーリーが用意されているのか?

と、考えたくもなるが、史実における場面は決して易しい終わりではなかった。
程なくして徳川家康が攻めてきたのである。

これに対し、竹田・山村・尾藤の3人は堀川城に逃げ込み、気賀(松崎)に本陣を置いた徳川家康と対決。これを「堀川城の戦い」といい、それは激しいものであったが、詳細は別記事『家康の遠江侵攻』

『徳川の遠江侵攻』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 捌の巻

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を御覧いただくとして、ここでは、あらためて新田友作の動向に目を向けたい。

竹田・山村・尾藤の3人と袂を分かち、金地院に身を置いた新田友作は、当然ながら戦いには参加していない。
しかし、城主でありながら「逃げた!」と勘違いされたようで、不名誉な記録が残されている。

「気賀の新田友作、他邦に落魄す」(『武徳編年集成』)
「気賀の新田友作、城を捨て、跡かたもなし」(『改正三河風土記』)

※ただし、徳川方の古文書では、新田・竹田・山村・尾藤の4人とも今川方ではなく、武田方で、新田友作は徳川家康が怖くて逃げたとする

 

新田友作とは新田義一のことなのか?

話が少しそれるが、新田友作の資料について考察してみたい。

彼のことが記述されている資料は、金指近藤家の家臣・鶴洞池谷則直が著した『新田喜斎伝』(宝暦10年(1760))と、その本に基づいて幕末に書かれた『石田家家譜』がある。
それらによれば、新田喜斎はもともと遠く離れた上野国(群馬県)新田郡岩松に住んでいて、俗名を新田四郎義一とし、弘治年間(1555-1558年)に岩松を出て遠江国内を放浪した末、遠江国気賀庄松崎に移ったとある。

──新田友作とは新田義一のことなのか?

参考として以下に資料も示しておくが、ともかくこの新田義一が見過ごせない。
なぜなら「新田友作が龍雲丸のモデルである」という根拠の一つになっているのである(以下の史料は読み飛ばしていただいても問題ありません)。

【史料】 「累代新田之家臣而、新田四郎義一に奉仕、長臣たり。上野国新田郷岩松に住す。蓋新田義一、遠江国に住する由緒は、抑南朝之大将軍として元弘・建武之間に武名を顕す。新田左中将源義貞之氏族嬰主在足利基氏之為に擒と成る。基氏其麗質を愛し、命を助け、其家名を嗣しめ、公家之列に加、義一は其苗裔なり。然るに世押移て、足利家の政権衰え、応仁・文明之乱起而于才無止時、武家之盛衰如浮雲。於于茲義一竟に本国上野を没落して、弘治年中、遠江国に漂泊す。長臣・石田、竹田之党、随従而、引佐郡気賀庄松崎に居を定む。(後略)」(『石田家系譜』)

次にこちらの写真を見てもらいたい。

俗名:新田四郎義一(剃髪して喜斎)の墓

「俗名:新田四郎義一(剃髪して喜斎)の墓」と記されている。

問題は、この墓がある寺の名前だ。
── 江海山龍雲寺

龍雲(丸)!
名前の元ネタも明らかにされた――ということで遅ればせながら、龍雲丸の正体(モデル)は新田友作で間違いないであろう。

新田友作と新田義一の戒名が共に「知足院殿歓屋宗喜居士」で完全一致しており「新田友作=新田義一」は揺るぎないと思われる。
※なお新田友作の最期については最終段落に記しております

ちなみに、龍雲寺とは、どんなお寺か?
それが以下の写真である。

新田義一の墓がある龍雲寺(細江町気賀)

 

なんと瀬戸方久と同一人物説まで流れている

ただし、そうなると生じる問題もある。
「上野国新田郡から来た牢人」となってしまい、清水城から来た牢人ではなくなる(上野国新田郡から清水城主を経て、気賀に来た?)というのも一つだが、更にミステリアスなのがこれ。

──新田友作=瀬戸方久の同一人物説
である。
むろん根拠なき妄想などではなく、むしろかなり確度の高い資料にもとづいており、これが捨て置けない。

資料とは『龍潭寺過去帳(開山過去帳)』(筆者未見)のことだ。

こうした過去帳は、真実のみが書かれた超一級の一次史料であり、この中の「十五日」欄には「午ノ八月 歓屋宗喜居士 方久」という記録があるという。
「歓屋宗喜居士」は新田友作(新田義一)の戒名だ。

つまり『龍潭寺過去帳(開山過去帳)』によると、
新田友作の俗名は「友作」ではなく「喜斎(よしあき)」であり、
出家名は「喜斎(きさい)」ではなく「方久(ほうきゅう)」となる。

そして慶長11年(1606年)8月15日に亡くなったことが明らかであるとするのが、「瀬戸方久=新田喜斎(方久)同一人物説」に繋がる。
(新田友作の葬儀を行ったのは、織田信長の子とされる龍潭寺四世・悦岫和尚であり、慶長11年には既に亡くなっている開山・黙宗和尚の過去帳になぜ「歓屋宗喜居士」の名があるのかは、筆者未見につき、詳細不明)。

それは新田友作の13回忌のときのこと。
御所平の近くに菩提寺・知足院(新田友作の法名「知足院殿歓屋宗喜居士」による)が建てられた。

新田友作(喜斎)の墓と辞世の歌碑(全得寺)

この知足院は廃寺となり、近くの全得寺に吸収されたが、同寺には、新田友作(喜斎)の墓、辞世「清水いで清き流れの落合の濁らぬ御代と祈れはらから」の歌碑と、念持仏の地蔵菩薩像がある。

※「清水いで清き流れの落合の濁らぬ御代と祈れはらから」「清流・井伊谷川と都田川が合流する場所に位置する気賀が乱れぬ世になるようにように祈れ同胞(我と同じ気賀の民)よ」(「清水」「落合」は共に気賀にある地名であるが、「我は名倉の清水(地名)から気賀の落合(地名)へ来た」という意が掛けられていると思われる)。

次に新田喜斉の案内板を見てみよう。

新田友作(喜斎)の墓の案内板(全得寺)

「新田喜斉(方久)
堀川城主新田喜斉、一五二五年(大永五年)~一六〇六年(慶長十一年)の父は新田義貞の末裔で、母は後醍醐天皇の血を引く木寺宮から八代目の赤津中務少輔の姫である。勇気とやさしさとしたたかさを持って井伊家の家臣として、また気賀の領民に尽力した武将(商)でもあった。浜名湖と都田川の水運活動に力投し、呉石南から気賀四つ角(旧関所)に通じる堀川の開発・城下町(根小屋)風情の生みの親でもある。
余暇には子供たちに読み書きを教え、民事にもかかわった。落城後に訴訟に関与し、責任を取って、気賀の代官石川半三郎によって刑死となる。慶長十一年八月十五日、八十二歳の生涯を閉じる。
平成廿五年四月十四日
知足山全得寺」

全得寺にある墓の案内板では、新田喜斉の出家名を「方久」としながらも、あくまでも武士(新田義貞の末裔)であって、「豪商・瀬戸方久と同一人物」とは書かれていない。

ドラマでの瀬戸方久は「極貧から豪商になり、城主になった人物」という俗説を採用。
「武士(松井氏)の出」という説については否定している。
※第18話の「直虎紀行」で「瀬戸家系図」(瀬戸文書)を示した上で、「方久は、あるときから豪族の松井一族を自称するようになりました」とわざわざナレーションを入れている

■NHK「直虎紀行」(第18話)

また、「瀬戸方久は、後に新田喜斎と名を変えた」という「瀬戸方久=新田喜斎同一人物説」をドラマで採用する予定でもあるのか?
現在ドラマに新田友作(喜斎)が登場していないのも、後に方久に名乗らせるためなのかもしれない。

何が言いたいのかというと、「新田友作の事績を龍雲丸と瀬戸方久に振り分けているのではないか?」ということである。

史実において「堀川城を改修して城主になった人物」は新田友作である。
しかし、ドラマに新田友作は登場していない。
そこで第27話「気賀を我が手に」では龍雲丸に堀川城を築かせ、第28話「死の帳面」で瀬戸方久に城代(実質的には堀川城主)とならせるのだ。
これならば新田友作の事績が龍雲丸と瀬戸方久にうまく振り分けられ、史実や伝承を新解釈でミックスした脚本になるのでは?

 

人の好さが滲み出るような、痛ましい死に方

さて、史実の新田友作は、いかなる最期を迎えるのか?

寺で出家したならば、平穏な終わりであって欲しい。悲しい過去を背負った龍雲丸でもラストぐらいは……。
と考えたいところだが、史実は緩くない。

『石田家系譜』によると、慶長年中(1596-1615年)、気賀郷を挙げて代官所に訴状を出した時、郷民の需要に応じて方久喜斎がこれを執筆した。
ドラマでも、井伊直虎の身代金を要求する龍雲丸の手紙の字は綺麗な楷書であった。
論理的な文章、ならびに綺麗な文字を書けたので、頼まれたのであろう。

しかし、これが大きすぎる仇となる。
「非分之罪」(身分不相応の罪)だとして、哀れにも気賀(呉石)の「塔の下」(地名)で処刑されてしまったのだ。
時に慶長11年(1606年)8月15日。享年82であった。

「非分之罪」の具体的な内容については分かっていない。
一説に、新田友作は親徳川であるにもかかわらず、「反徳川の堀川勢のリーダーであるが、逃げた卑怯者」と誤解されていたのが大きかったのかもしれない。
彼の訴状が名文で、しかも達筆だったため「これを書いた者は只者ではない!」と代官が呼び出して問いただし、「新田友作です」という白状を聞いて成敗したという。

「非分之罪」とは、徳川家康に反抗したということであろうか?
自由を求めて直虎からの仕官を断った龍雲丸が、老齢になって無残にも殺されるとは……。

もはやドラマと史実がごちゃ混ぜ状態だが、今後「そんな可能性もなくはない」と今から悲しい場面に心しておきたい――なんてね。

※喜斎の処刑は、直虎死後の慶長11年(1606年)なので、実際は取り上げられないか、あるいは「その後、龍雲丸は処刑された」とナレ死と思われますが……ストーリーを盛り上げるためには、別の死を用意する可能性もありますね。

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※以下は新田友作の死に関する資料
【史料】 「慶長年中、気賀一郷挙て官に訟事あり。土人之需に応て不止事を得して、法休喜斉、其書状を認む。訟非分之罪に仍て可憐喜斉於塔之下、被所于刑。茲時、慶長十一丙午年八月十五日なり。諡「知足院殿歓屋宗喜居士」寿八十有二歳。後、十三回忌、石田之党、一宇之寺を建立而其菩提を供養す。則、寺号を知足院と云」(『石田家系譜』)

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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