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勝海舟/Wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

勝海舟77年の生涯をスッキリ解説!【年表付】出身はドコ? 明治維新後は?

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幕末を舞台にした大河ドラマでは、必ずといっていいほど重要な局面で登場する男・勝海舟(かつかいしゅう)――。

坂本龍馬西郷隆盛に大きな影響を与えた「政治家」の顔を見せれば、一方では、火消しの新門辰五郎とも懇意にしていたという江戸っ子の一面も魅せる。

幕府に仕える幕臣の中では異色な存在。

では、彼の生い立ちなどをご存知ですか? 明治維新後はどうしていたの? なんて尋ねられると、案外、素顔については知られていない。

本稿では、そんなミステリアスな一面も含めて“勝海舟の一生”を追ってみましょう。

※名前の表記は勝海舟で統一します

 

両国生まれの江戸っ子・勝

勝海舟といえば、べらんめえ口調で喋る、江戸っ子という印象があります。

実際、生まれは、江戸情緒の濃い両国(現在の東京都墨田区亀沢)。
文政6年(1823年)に生誕しております。西郷隆盛が1827年生まれですから4つ年上になりますね。

父は旗本の勝小吉で、母はお信。
小吉はもともと、旗本・男谷彦四郎の三男で、勝家に養子入りしたのでした。

※なお、勝が生まれた場所は、男谷彦四郎邸。つまりお祖父ちゃんの家になります

勝家は、将軍に御目見得できる“旗本”の身分とはいえ、知行はわずか41石でした。
ほとんど御家人(将軍の御目見得はムリ)に近い存在で、父の小吉も就ける職はなく、細々とした暮らしを送っています。

ただ、博徒や侠客とも親しくつきあいがあり、顔の利く男でして。
息子の勝も、自然と火消したちとは昵懇の間柄となりました。父の代(あるいはそれ以前)からの人脈だったのでしょう。

勝は7才まで男谷家で過ごし、のちに赤坂に引っ越します。

少年時代の逸話といえば、9才の時に狂犬病の野犬に睾丸を噛まれて、片方を失ったというもの。
彼はそのせいで二ヶ月以上寝込んだそうで。狂犬病ならば、その程度で済んで幸運だったでしょう。

つまり江戸の無血開城の話し合いというのは、
「睾丸肥大の西郷と、睾丸が一つしか無い勝の会談」
であったわけです。
どうでもいい話ですけれども、西郷の睾丸肥大化については、歴女医・馬渕まり先生の記事に詳しくありますので、そちらをご参照ください。

西郷隆盛のタマが大きく腫れた原因は寄生虫!? 現役の女医さんにご診断いただきました

なお、睾丸というのは片方なくなっても案外平気なものです。

勝は多数の妾を囲い、使用人にも手を出しました。しかも平然と妻妾との同居をしていたのです。
そのため妻子からは、大層あきれられております。

この怪我の後遺症があるとすれば、生涯を通して犬嫌いとなったことでしょう。

 

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3千ページの辞書『ドゥーフ・ハルマ』を2部写す

成長した勝は、幕臣の子らしく剣術修行に励みます。

直心影流の免許皆伝で、山鹿流も習っています。
が、勝の性格的に、血なまぐさい切った張ったの世界が大嫌いで、それよりも勉学について才能を発揮するように。

オランダ語の習得は、天保13年(1842年)に開始。
翌年には文章を書けるまでになりました。

妻・たみと結婚した翌年の弘化3年(1846年)には、本所から赤坂田町に移り、このころからますます蘭学の修得に打ち込みます。

勝は、3,000ページもある蘭和対訳辞書『ドゥーフ・ハルマ』を筆写しました。
この辞書は蘭学を学ぶ者にとってマストバイな一冊ですが、幕府は出版を禁じていたのです。
貧しい勝には、筆写本すら手が出ません。

そこで勝は、損料(レンタル料)10両を支払い、筆写本を借りました。

 

『ドゥーフ・ハルマ』/Wikipediaより引用

そして弘化4年(1847年)から一年間、寝る間も惜しんで2部の写し作業を完了。
一部は売り払ってレンタル料にあて、一部は手元に置いたわけです。

この過程で、いかほどオランダ語の勉強に繋がったか。
ハイスペックな頭脳のほどが現代の我々にもわかりましょう。

 

阿片戦争後、危機感を抱く勝

当時、知識人たちは社会情勢に強い危機感を抱いていました。
日本よりはるかに大きな清国が、阿片戦争でイギリスに敗北していたからです。

アヘン戦争/Wikipediaより引用

勝は考えました。
「これからは蘭学と軍学で、この国を強くしなきゃいけねぇ」

阿片戦争から10年。
嘉永3年(1850年)に、勝は蘭学と兵学の塾を開きました。

この時点で、黒船来航、3年前のこと。
彼の名声は高まり、入塾者はどんどん増えてゆきます。

「勝先生、これからは火縄銃というわけにはいかんでしょう。ひとつ、小銃や大砲を作ってみてはくれませんか」
そんな依頼をする藩もあったそうで。

実は黒船来航を待つまでもなく、日本国内は外圧を控えて沸騰していました。

「講義ならいくらでもできるが、大砲を作るとなるたぁ……」
勝はオランダの書物を見ながら設計図を引き、鍛冶屋や鋳物師に頼んで、作ることにしました。

「勝先生は、大砲こしらえてたんまり金儲けているらしいぜ」
そんな噂が立ちましたが、実際は逆。
何せ初めてのことですから、試行錯誤を繰り返してともかく金がかさみます。
評判の塾を経営しているとはいえ、収入は常にカツカツでした。

鋳物師が手抜きをしようと賄賂を持って来ても、勝は断固として断りました。
そんなこともあって勝の名声は広まっていたようです。

黒船来航以前に、もし西洋から船が来航したらどうすべきか、書物に書いてまとめていました。

その先進性。常に一歩先をゆく男でした。

 

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黒船来航後、老中・阿部に見いだされる

嘉永6年(1853年)、ついに幕府が恐れていた事態がやってきます。
黒船の来航です。

時の老中・阿部正弘は、慣例を破り、譜代大名と幕臣以外の外様大名を含め、様々な層に意見を求めました。
幕臣も、幕府に上書を出すことができるようになったのです。

こうした上書は実に700にのぼり、しかしその大半が役に立たないものばかり。
根性論で「攘夷をしてしまえ」みたいなものもたくさんあるわけです。

そんな中、蘭学と軍学を学んだ勝の上書は、後の明治政府の方針にもつながるような構想であり、各方面から注目を集めました。
具体的には以下のようなものです。

・将軍の御前で外交・内政の討論をする
・軍艦をつくるとともに、貿易を行う
・敵が上陸した際の、江戸防衛計画
・西洋式軍隊に改め、教練学校を作る
・火薬製造に必要な資源を調達する方法

阿部正弘もまた有能で知られた人物。有事にあたり、幕政改革に取り組むには、身分にとらわれない有能な人材の登用に真剣でした。

上書も素晴らしく、経営していた塾も既に評判だった勝。
目付・海防掛の大久保一翁(忠寛)も、強く推しています。

大久保一翁/Wikipediaより引用

安政2年(1855年)、勝は異国応接掛附蘭書翻訳御用に抜擢されます。
貧しい旗本の子に過ぎなかった男は、かくして幕政に参加できるようになっていくのでした。

 

長崎海軍伝習所

いざ幕政に参画した勝は、それこそフル回転で仕事をせねばなりません。
まずは幕府の提案を受け、自前の海軍が必要だと考えていた勝は、安政2年(1855年)に「長崎海軍伝習所」を創設します。

長崎海軍伝習所/wikipediaより引用

そして3年間にわたり、長崎に滞在。

この間、島津斉彬にも拝謁しており、薩摩藩とのつながりができたのです。西郷との縁は、すでに始まっていたんですね。
さらには薩摩藩士であり、大阪の商業を発展させた五代友厚も、長崎海軍伝習所で学んでいます。

一方、勝不在の江戸は、激動の時を迎えていました。

阿部正弘が急死してしまい、幕政は将軍継嗣問題で一橋派と南紀派に分かれ、争いが起こったのです。

ここがなんともややこしいのですが、両派ともに「開国派&攘夷派」が入り混じっておりまして。

例えば一橋派は、ゴリゴリの攘夷論者・徳川斉昭の子である慶喜を立てていました。
その中に、開明的な島津斉彬や、阿部が引き立てた幕臣も含まれているのです。




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一方、南紀派の井伊直弼は、一橋派を処断するための「安政の大獄」を起こします。
と、時代はそれだけに飽き足らず、その井伊も、勝が渡米中に「桜田門外の変」で暗殺。
もしも勝が江戸にいたら、こうした争乱に巻き込まれてしまっていたかもしれません。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

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