勝海舟

勝海舟(右は1860年にサンフランシスコで撮影)/wikipediaより引用

幕末・維新

なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯

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勝海舟
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長崎海軍伝習所

いざ幕政に参画すれば、それこそフル回転で仕事をせねばなりません。

まずは幕府の提案を受け、自前の海軍が必要だと考えていた勝は、安政2年(1855年)に【長崎海軍伝習所】を創設します。

長崎海軍伝習所絵図/wikipediaより引用

そして3年間にわたり、長崎に滞在。

この間、島津斉彬にも拝謁しており、薩摩藩とのつながりができたのです。西郷との縁は、すでに始まっていたんですね。

さらには薩摩藩士であり、大阪の商業を発展させた五代友厚も、長崎海軍伝習所で学んでいます。

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一方、勝不在の江戸は、激動の時を迎えていました。

阿部正弘が急死してしまい、幕政は将軍継嗣問題で一橋派と南紀派に分かれ、争いが起こったのです。

ここがなんともややこしいのですが、両派ともに「開国派&攘夷派」が入り混じっておりまして、例えば一橋派は、ゴリゴリの攘夷論者・徳川斉昭の子である慶喜を立てていました。

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その中に、開明的な島津斉彬や、阿部が引き立てた幕臣も含まれているのです。

一方、南紀派の井伊直弼は、一橋派を処断するための【安政の大獄】を起こします。

と、時代はそれだけに飽き足らず、その井伊も、勝が渡米中に【桜田門外の変】で暗殺。

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もしも勝が江戸にいたら、こうした争乱に巻き込まれてしまっていたかもしれません。

 


咸臨丸で、アメリカへ

安政6年(1859年)。

勝は築地の軍艦操練所の教授方頭取となり、江戸に戻ります。

幕府は、日米修好通商条約締結に伴う使節団を、翌1860年にアメリカへ派遣することになりました。

使節はポーハタン号と咸臨丸で出発し、勝は咸臨丸に乗っていました(通訳には、あのジョン万次郎が選ばれております)。

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咸臨丸/wikipediaより引用

「勝は船酔いで役に立たなかった」とされています。

確かにその通りであり、指揮権をアメリカ海軍のブルック大尉に委譲してしまったほどでした。

さらにストレスがたまったせいか同船していた人とトラブルを起こしてしまい、マイナス評価となったようです。

知識としては知っていても、実際に海外に行ったことはなかった勝。

初めて海外の土を踏み、様々な知識を得ることができました。

しかし、船酔い体質が海軍には不適切とされたのか、帰国後は海軍から教育方面に転属されてしまうのです。

勝は、蕃書調所、洋学長所、開成所に配属され、教育畑となりました。

攘夷熱が高まり、無謀な行為に出る者もいる一方、江戸ではこうした西洋の語学や技術を学ぶ場所に、各藩が俊英を送り込んでいました。

明治政府に先んじて、幕府は欧化政策を打ち出していたわけです。

実はこのころ最も先進的だったのは、開明派の各藩などではなく、幕府でした。

 


インフルエンサー勝海舟

明治維新に至るまで、揺れる幕府の中、勝は政治状況に左右されました。

能力は抜群で疑いようはありません。

しかし、政治のメインステージは今や京都。

朝廷、徳川家、薩摩藩、長州藩、会津藩……様々な勢力によるパワーゲームに、勝が入り込む隙間はないわけです。

鉄火肌な性格や、あふれんばかりの才気が災いしたのか。たいした役割を果たせませんでした。

勝は賢い人物ではあります。

ただし、政治闘争を舞台に渡り合うタイプではありません。

幕末史というのは、先見性のある人物が旧弊にこり固まった政権を倒したものとは言えません。

政治闘争で強い者が勝つ。そういう性格のものでした。勝に出番はないわけです。

むしろ勝の場合、有為の人材に影響を与えたことが大きいと言えます。

西郷隆盛が主人公でも、坂本竜馬が主人公でも、勝は重要な人物として登場します。

ゆえに、勝の実績というのは測定できない部分があります。

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人の行動に影響を与えたことは確かでも、それがどれだけなのかは状況から推察するほかないからです。

 

将軍様が逃げて来た

慶応4年(1868年)一月。

勝は、氷川の自宅でゴロゴロしていました。

このころ名目的に軍艦奉行ではありましたが、実際には閑職だったのです。

するとそこに、突然、登城せよとの連絡が届きます。

「何言ってんでぇ、俺ぁいかねえよ」

まさか鳥羽伏見で徳川慶喜が大敗しているとは知らなかったのです。

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しかし、いざ将軍様のお呼び出しと知って、慌てて浜離宮へ。

そこには、開陽丸で江戸へ逃げ帰った慶喜らがいました。

開陽丸/Wikipediaより引用

そこで、コトの顛末を聞いた勝は激怒。

なぜ尻尾を巻いて帰って来たんですか! とズケズケと慶喜に迫ります。

「こっちにゃあ、無傷の海軍がまるまる残ってます。城で持ちこたえてくれりゃあ、軍艦で駆けつけられたもんを」

慶喜としてはそういう問題ではなく、要するに朝敵になりたくなかったわけです。

しかし多くの人が慶喜の行動にはあきれ果てていました。

ここで慶喜は、叱り飛ばす勝に頭を下げ、「これからは頼れるのはそち一人である」と言うわけです。

主君にここまで言われたら、引っ込んではいられません。勝、全力の戦いが始まります。

慶喜の気持ちとしては、複雑です。

戦えば勝てると主張する者もいる。

一方で、西軍は慶喜を殺す気でいると息巻いているという情報も届く……。

そんな中、勝が陸軍総裁に任命され、幕府のトップに立たせられるわけです。

慶喜はもはや恭順の意志を固め、徹底抗戦派の松平容保らの進言を拒否し、登城停止処分に。

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自らは上野寛永寺大慈院に入り、蟄居恭順の姿勢を見せました。

おさまらない徹底抗戦派に付け狙われたりしながら、勝は慶喜の意見を尊重して、胃がキリキリするような状況で奔走します。

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