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【勝海舟】
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コレデオシマイ
さて、そのあと勝はどうなったか。
実は静岡藩士となりました。
慶喜が駿府に向かったとき、ついていった幕臣たちは、静岡藩士になったわけです。
一方、生活がたちゆかなくなり、自死を選ぶ者も少なくありません。
その後の勝は、ごく短期間、明治政府に登用されますが、政府のやり方に反発してすぐ辞めてしまいます。
名誉職には就いていますが、実質的な権力はありませんでした。
短気で鉄火肌の江戸っ子らしさがある勝は、人間関係では揉めやすいところがあります。西郷のように気が合えばよいのですが、合わない人間とはとことん合わない。
しかし、そうした性格だけが問題とも言えないわけで。
ともかく、勝の目には、明治政府のやり方が、とてつもなくくだらないことに思えて仕方なかったのです。
たとえば鹿鳴館の舞踏会。
勝のような粋な江戸っ子にとっては、無粋な田舎者の寄せ集めにしか見えず、江戸の情緒を破壊して、西洋の真似をしているように思えるわけです。
西郷が西南戦争を起こして散り、大久保もまた、暗殺され……。
「一体何をやっているんでぇ」
勝の舌鋒鋭い政府批判は、留まるところを知りません。
そんな勝の話をまとめたのが『氷川清話』です。
歯に衣を着せない言い回しで、当時の時局をズバズバと斬っています。
ただし勝は「信頼できない語り手」でして、この『氷川清話』は大変おもしろいものではありますが、誇張や記憶違いも含まれていますので、注意が必要です。
一方、彼が完全に明治政府を見限っていたとも言い切れない部分もあります。
ご意見番として意見を求められれば、きちんと答えましたし、名誉職とはいえ政府から給料も出ていたわけです。
「三百年の徳川幕府をあっさりと敵に売り渡し、二君に仕えるとは。勝というのは傑物かもしれんが、武士の風上にも置けぬ人物だ」
同じく幕臣であった福沢諭吉はそう考え、勝のことを嫌っていました。
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多くの幕臣が困窮する中、勝は悠々自適の人生を続けました。
天璋院篤姫と屋形船で遊び、昔話を語り合うこともあったそうです。
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そして明治32年(1899年)1月19日。
勝は脳出血で倒れ、ブランデーを死に水かわりに口に含ませられて死去。享年77。
最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。なんという江戸っ子っぷりでしょう。
幕府にも有能な人材は確かにいた
四民平等となった明治時代は、ありとあらゆる人々にチャンスが来た時代――とされています。
しかし、この見方は正確ではないでしょう。
勝海舟は、旧弊にとらわれた無能揃いの幕臣の中で、例外的な俊才とされています。
そうしたイメージが投影されたフィクションも数多く存在します。
確かに勝は、幕臣の中でもトップクラスの能力がありました。
しかし彼以外にも、才知あふれて先見性に富んだ幕臣はいたわけです。
勝と違って、能力を残すチャンスに恵まれないまま、歴史の中に埋没してしまった者もおります。
「坂本竜馬が生きていたら」
「高杉晋作が生きていたら」
そんなIFは語られます。しかし、それだけではありません。
幕臣や佐幕藩出身者であったために埋もれた者。
開明的であったがために攘夷の犠牲となった者。
そうした有能な人材がいました。
勝海舟の優れた資質を振り返るとともに、争いに敗れた幕府側にも有能な人材がいたことを今更ながらに痛感します。
貧乏旗本の勝が大出世できたのは、幕府も人材を活用し、チャンスを与えていたのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
年表で見る勝海舟と外国圧力の歴史
1808年 生誕前 フェートン号事件(外国からの圧力)
1811年 生誕前 ゴローニン事件
1821年 生誕前 伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成
1823年 1才 シーボルトが鳴滝塾を開く
1825年 3才 無二念打払令(異国船打払令)
1827年 5才 西郷隆盛誕生
1828年 6才 シーボルト事件
1829年 7才 赤坂へ引越し
1831年 9才 野犬に睾丸を噛まれる
1833年 11才 天保の大飢饉(~39)
1836年 14才 坂本龍馬誕生
1837年 15才 モリソン号事件
1839年 17才 蛮社の獄
1840年 18才 アヘン戦争
1841年 19才 水野忠邦「天保の改革」
1842年 20才 オランダ語の勉強開始
1843年 21才 オランダ語の文章を書けるまでに
1846年 24才 ビッドル浦賀へ
1847年 25才 ドゥーフ・ハルマの筆写
1850年 28才 蘭学と兵学の塾を開く
1851年 29才 ジョン万次郎を保護・太平天国の乱
1853年 31才 ペリー来航
1854年 32才 ペリー再び(日米和親条約)
1855年 33才 異国応接掛附蘭書翻訳御用に抜擢→幕政に参加・長崎海軍伝習所を創設・安政の大地震
1856年 34才
1857年 35才 阿部正弘亡くなる・篤姫と徳川家定が婚姻
1858年 36才 島津斉彬急死
1859年 37才 軍艦操練所の教授方頭取となる
1860年 38才 咸臨丸でアメリカへ
1867年 45才 大政奉還
1868年 46才 鳥羽伏見の戦い・西郷隆盛と会談・江戸の無血開城
1899年 77才 脳出血後に死亡・最期の言葉は「コレデオシマイ」
【参考文献】
国史大辞典
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon)
安藤 優一郎『勝海舟と福沢諭吉―維新を生きた二人の幕臣』(→amazon)