江戸っ子と徳川慶喜

幕末・維新

江戸っ子から見た無血開城&トンズラ将軍慶喜 現場で何が起きていた?

2023年の朝ドラ『らんまん』に、倉木隼人と“えい”という夫妻が登場しました。

隼人は元彰義隊士。

えいは彼を匿い、それが縁で結ばれた夫婦です。

隼人は酒に溺れ、日雇いで生きています。

そんな夫でも、妻には深い愛情があります。

一体なぜ?

彼らのような江戸庶民の感情は、幕末の江戸城無血開城や最後の将軍・徳川慶喜の動向を振り返るとき、非常に重要な存在と言えます。

総大将が逃げ出し、決着がついているのに戦い続けた江戸っ子や東北諸藩――彼らは愚か者だったのか?

江戸っ子の目線から、幕末のクライマックスを振り返ってみましょう。

 

明治維新は「無血革命」なのか?

徳川慶喜の命が奪われることもなく、江戸城が無血開城となった印象が強いせいか。

明治維新は「無血革命」だった――そんな風に言われたりしますが、果たして実態はどうでしょう。

そこには無血革命を強調したい意図があり、以下のように数々のバイアスがかけられています。

◆明治政府の上層部が吹聴喧伝した

伊藤博文などの上層部が、海外でまでそう語りました。

明治維新から日露戦争後まで、日本は極東の優等生。清と違ってスムーズに近代化を成し遂げた。ロシアよりもずっと清新だ。

そんな宣伝戦略があり、イギリスの思惑も深く絡んでいます。

◆イギリスが無血革命を指向する

イギリスは【フランス革命】以来、国王斬首は野蛮だとしてライバル・フランスを激しく批判していました。

この姿勢は宿敵であるナポレオンにも発揮され、彼は流刑にとどめられています。

それどころか、ナポレオン3世と4世を庇護したのが他ならぬイギリス。

しかし彼らにとって流れる血とは青い血、つまりは王侯貴族を重視します。

幕末の動乱期にどれだけの志士や幕臣が死のうと、【戊辰戦争】でどれだけの庶民や兵士が死のうと、さして気にかけていないからこそ無血と言えてしまう。

◆維新前後の戦死者数の把握に疑義が生じている

戦国時代と幕末は、江戸時代という泰平の世を経て、遺体の扱いに大きな変化が生じました。

遺体を放置したら腐敗するため戦国時代は即座に埋めたものですが、江戸時代は罪人の死体は晒したのです。

戊辰戦争の場合、その慣習が残ったためか、遺体処理に不備が生じます。武士ではない層がやむなく担うこともありました。

会津戦争】での遺体埋葬禁止令は、誇張があったとされますが、実際に不備があったからこそ語り伝えられた。

東北地方の戊辰戦争慰霊碑を比較すると、西軍の死者は詳細が刻まれている一方、東軍は曖昧なままのことがしばしばあります。同じ人命の損耗でも、東西格差が生じているのです。

靖国神社の英霊となるとさらに露骨であり、現在に至るまでそれは続いています。

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◆明治政府の人命把握がそもそも格差ありき

明治になってからも人命格差は続きます。

その軋轢は北海道に集中。

明治政府は北海道開拓と、囚人の苦役を一石二鳥でまとめました。

当初は東北諸藩の者を屯田兵とし、監獄が整備されると囚人、日清戦争以降は海外からの労働力を酷使します。

北海道各地にはそんな犠牲者の慰霊碑が残されています。アイヌはそもそも人命として把握されていたかどうかもあやしいレベルです。

そういう人命の犠牲を数えるうえでも露骨なバイアスがかかっているのが明治という時代。

まさに「どの口が無血革命と言うのか」という話で、はっきり言えば綺麗事です。

人口差もあるため、フランス、ロシア、中国の革命より犠牲が少ないように見えるかもしれません。

適切な数え方、数字の比較はどうしたらよいか。その点も踏まえねばならないでしょう。

 

江戸っ子は大政奉還と王政復古に納得できた?

嘉永6年(1853年)にペリーが来航。

このとき現地の人々は見物に押しかけ、瓦版屋や浮世絵師たちは速報号外を印刷販売しました。

浮世絵でも時事ネタは売れる定番だったのです。

なにせ当時は、和宮が京都から嫁いでくるわ、将軍家茂が家光以来の上洛を果たすわ、大地震が頻発するわ、疫病が流行るわ、物価が高騰するわ、漁村だった横浜が急速に発展するわ……と、号外ネタづくしの時代です。

幕政改革は、江戸っ子にとって歓迎すべきものではありません。

例えば参勤交代が緩和されると、大名屋敷がお得意様だった江戸っ子は取引先を失います。

大奥もそうです。予算が削減されると、衣装や菓子を納入していた業者は収入が減ってしまう。

治安は急速に悪化しています。

生麦事件】に続いて【薩英戦争】が勃発し、江戸も砲撃されるのではないか?と人心は不安で混乱したのです。

後世の私達は「薩英戦争後にイギリスと薩摩が手を組む」と冷静に状況を追えますが、騒乱真っ只中の当時は一寸先は闇。

実際、英国ではヴィクトリア女王が激怒して、対日戦争を訴え、江戸の攻撃案まで立てられていたのです。

しかし、現実に江戸は火の海にならず、日常生活が決定的に破壊されることはありませんでした。

こうした状況を前にして、江戸の幕閣はどうしていたか?

彼らは困り果てていました。

京都の朝廷が政治に口を挟むようになってきて、どうにもうまくいかない。自国のため外交を進めようとすると、京都の「孝明天皇の意見を聞け!」という横槍が入る。

同じく京都にいる徳川慶喜も厄介でした。

聡明で政治力は高い上に、くだけた言い方をすれば「空気を読まない」。

孝明天皇の信頼を盾にした【一会桑政権】という、幕府から半ば独立した政治体制を整え、ますますコントロールが効かない。

それでも幕閣では最善を尽くそうとする人物がいます。

例えば小栗忠順

幕府内で重くどんよりとした空気が漂う最中、小栗は横須賀製鉄所の設立を進めました。

他の幕臣たちが、このままでは幕府は危ういと肌で感じていたところ、小栗は明るく言ってのけます。

「確かに幕府の前途は暗い。だからこそこの製鉄所は作らねばならない。幕府という母屋が売りに出されたとしても、そこに“土蔵付き売家”と札を貼れるだろう?」

と、この言葉通り、程なくして幕府は崩壊、その過程で小栗忠順は冤罪処刑という非業の死を遂げます。

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しかし東郷平八郎は小栗の功績を認識していて、【日露戦争】の勝利は小栗あってのことだと語っています。

海軍の戦艦は、横須賀製鉄所改め造船所から出航していたのです。

 

将軍没落も時代の流れか

慶応4年(1868年)――江戸っ子たちは何を思い、正月を迎えたのか。

勝海舟は氷川の自宅で寝正月を過ごしていました。

罷免されて暇であり、緊張感はない。

それが突如、浜離宮まで呼び出されたと思うと、顔面蒼白の慶喜その人がいたのだから、まったくもってわけがわからない。

京都で将軍様が大敗北した上に、部下たちを置いたままトンズラって……いったい何事でぇ!

この一件を江戸っ子たちはどう思っていたのか? メディアはどう報じたか?

それを理解するうえで重要なヒントがあります。

当時の売れっ子であり、脂の乗り切った浮世絵師・月岡芳年の『魁題百撰相』です。

彼が得意とする武者絵であり、一見、鎌倉から江戸まで武士の姿を描くと思わせるようで、実は時事ネタづくしという作品。

その「足利義輝公」を見てみますと、詞書では第15代とされています。

ただのミス?

いいえ、この作品の詞書は、わざとまちがったと思われる箇所が出てきます。

幕府復興の志を持ち、京都に入るものの、三好・松永に襲撃される。

織田信長が上洛し、京都に入るも、織田と仲違えして再度京都から落ちてしまう。

嗚呼、これも時代というものだろうか。

13代義輝の名前でありながら、15代義昭と混ざっている。これには意図的なものがあるのでしょう。

以下のように読み替えるとどうでしょう?

幕府復興の志を持ち、一橋派から将軍候補にあげられるものの、結果的に失敗して処罰されてしまう。

島津久光が上洛し一橋派復権を実現し、京都に入るも、島津久光と仲違えして、再度京都から落ちてしまう。

嗚呼、これも時代というものだろうか。

絵を見れば、ますますこの読み解きはハッキリしてきます。

『魁題百撰相』足利義輝/wikipediaより引用

描かれた人物は悲運の将軍・義輝というよりも、よくいえば聡明、悪くいえば狡猾さが滲んだ美男。

何より、慶喜の写真によく似ています。

徳川慶喜/wikipediaより引用

時代の流れといえばそうだけれども、納得できていない。そもそも政治的な手続きは京都で一方的に決まってしまった。

意味がわからない。納得できるわけもない。

それが江戸っ子の心境。

【フランス革命】のように、市民が武器を手にした革命とはまるで違い、頭の上で勝手に決まってしまったようなものでした。

この詞書はそれでも抑制されています。

江戸っ子はべらんめえ口調でこう語っていたとか。

「豚だの牛だの食らっていやがる一橋めがよォ、のこのこ戻ってきやがって。江戸が騒がしくて仕方ねェ! とっとと腹でも切ってくたばりやがれ!」

豚肉を食べる一橋家当主ということで、“豚一”と呼ばれた慶喜。

江戸っ子にしてみれば、親しみも何もあったもんじゃありません。

若き徳川家茂までは江戸で将軍となり、江戸城の主として君臨した期間があります。その家茂が上洛する様は浮世絵として販売されました。

歌川派の絵師である月岡芳年も落合芳畿らも筆を執り、東海道を歩む将軍様御一行を描いたのです。

描く者、刷る者、売る版元、それを眺める江戸っ子まで、みなが家茂に愛着を感じていました。

一方で慶喜は?

家茂亡き後、よくわからないまま京都で将軍となり、江戸っ子にしてみれば全く親しみを持てない親戚のようなもの。

しかもそいつのせいで、女子どもだけでも逃げろと江戸中大騒ぎなのです。

芳年の描く慶喜の絵は、美貌でありながら冷え切っていて、何を考えているのかわからない人物が描かれている。

これが慶長4年の江戸っ子から見た慶喜像なのでしょう。

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