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橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用




西郷どん特集 幕末・維新

橋本左内26年の生涯をスッキリ解説!西郷どんで風間俊介さんが演じる福井藩の天才

更新日:

西郷隆盛に影響を与えた人物は誰か?

と問われたら、多くの方が
島津斉彬
勝海舟
大久保利通
坂本龍馬
あたりの人物から候補者を挙げるでしょう。

では、もう一つの質問です。

西郷隆盛がその死の直前まで大切に持っていた「手紙」の送り主は誰か?

橋本左内――。

それは齢26にして安政の大獄の犠牲者となった、福井藩の天才。

大河ドラマ『西郷どん』では風間俊介さんが演じます。

 

福井藩の神童

橋本左内(本稿はこの名で統一)は天保5年(1834年)、福井藩奥外科医・橋本長綱の長男として誕生しました。

幼いころから聡明だったことで知られた左内は、15才にして『啓発録』を執筆。
その骨子は、以下の五項目からなっておりました。

1. 13~14才になったら大人に頼るような子供っぽさは捨てる
2. 士気を鼓舞してゆく
3. 志を立てる
4. 勉学に励む
5. よりよい人付き合いを目指す

これだけのことを、きっちり文章にして記すとなれば、やはり神童ということでしょう。
啓発録』は現代語訳も出版されており、今なお学生やビジネスマンの間で人気があるほどです。

 

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優れた頭脳は「池中の蛟竜」と称される

神童として知られた左内。『啓発録』を著した翌年、16才にして緒方洪庵に弟子入りしてからも、その才能に尽きることはありません。

適塾で医師を育成した緒方も、左内の頭脳には舌を巻き、彼をこう呼びました。

「池中の蛟竜」

出典元は『三国志』の呉志・周瑜伝ですね。
これから世に出るのを待っている――そんな大きな才能という意味が込められておりました。

左内の、ちょっと変わった性格を表すエピソードとして、こんな話があります。

あるとき、友人が負傷しました。
それを見て、左内はその傷をあろうことか焼こうとします。

「火傷なら治療法を知っているから」

かような理屈でした。
合理的というか、何というか。
常人の発想から離れたところにいる――我々凡人は、唖然とするばかりでしょう。

 

西洋化と藩政改革に抜擢

左内の秀才ぶりは、更に広く知れ渡り、交際範囲は広まります。

西郷隆盛、藤田東湖、梅田雲浜、横井小楠。
島津斉彬に付き従い、江戸に出向いていた西郷は、彼らと接する機会を得たのでした。

そして西郷は、同年代の優秀な思想家として、左内の名を挙げるほど高く買っていました。

絵・富永商太

もちろん、さほどに若く優秀な左内を、世間も放ってはおきません。

藩主・松平春嶽(慶永)に取り立てられ、書院番、侍読(秘書)、御手元御用掛と順調に出世。
それだけ仕事が出来たのでしょう。

藩校・明道館の蘭学係にも就任し、洋書習学所を開設しました。
積極的に西洋の学問や技術を取り入れ、藩政改革や開発に取り組んだのです。

藩政改革にも尽力しました。これが20代前半までのことというのですから、まさに早熟の天才というほかありません。

列強の脅威を感じ、いかにして日本もそこから学ぶか?
その点についても、左内は若くして構想を抱いていました。

 

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左内の国家構想とは?

時代は幕末。外国からの圧力が強くなるに従い、日本全土で様々な動きが起きておりました。

薩摩藩も西郷も大きく関わったのが、将軍継嗣問題です。
13代将軍・徳川家定の後釜には、誰を据えるか?

そこで水戸藩主・徳川斉昭の息子にして一橋家にいた一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推したのが薩摩もいる一橋派。
これと真っ向から対立したのが井伊直弼などの南紀派です。

最後の将軍となった徳川慶喜/wikipediaより引用

左内は、一橋派である主君・松平春嶽の右腕として活躍します。

英明な慶喜を将軍として、その下で幕藩体制を維持したまま、西洋の技術を導入して列強に対抗する――それが橋本の構想でありました。
ざっとマトメておきますと。

将軍:一橋慶喜
国内事務宰相:松平春嶽・徳川斉昭・島津斉彬
外国事務宰相:鍋島閑叟
その他官僚:川路聖謨・川井尚志・岩瀬忠震

彼はこのような構想を抱きます。
外交面では、ロシアと手を結び、イギリス等の各国に対抗する案も抱くほどでした。

 

忍び寄る安政の大獄

「安政の大獄」とは、一般に思われがちな「倒幕派への弾圧」ではありません。
井伊直弼など南紀派による一橋派の粛清であり、どちらの派にも様々な政治思想の人が含まれておりました。

この安政の大獄によって取り調べを受けた左内は、終始こう主張します。

「私の行動は全て幕府のためにしたことです」

間違いはないでしょう。
左内は、あくまで幕府の体制を強化することを目指していました。
そのために必要な条件として考えていたのが、聡明な慶喜を将軍にすることだったのです。

しかし、そんな言い分が認められるわけもなく……。

「強情な奴だ。自分のしたことをあくまで主命と言い張りおって、罪を主君になすりつけるとは不届き者め」
と、かえって心証を悪くしてしまうのでした。

左内の主君・松平春嶽は蟄居謹慎処分。
そして橋本は、伝馬町牢屋敷斬首となりました。

 

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西郷最期のときまでその書状を持つほどの仲

彼が斬首へと引き出されるとき、牢名主は涙を拭いながらこう言いました。

「あなたのように、若く、優秀な方が処刑されるとは、惜しいことです。あなたの身代わりに私が死ねたらよいのに」

そう思った者は、この牢名主一人ではなかったことでしょう。

享年26。あまりに短い生涯でした。

時は流れて明治10年(1877年)。
自刃した西郷隆盛の手文庫の中から、左内の書状が出てきました。

「将軍継嗣問題」の頃にやりとりしたもの。
最期のときまで手紙を手元に置くほどに、二人は親しかったのです。

もしも橋本が生きていたら、西郷と志を共にして明治を生きていたのだろうか――。
歴史IFを楽しむと、そんな風に考えてしまうかもしれません。

しかし、個人的にはそれは難しいものだったのでは?と感じてしまいます。

左内の考えた「幕藩体制を維持したうえでの国家構想」は、倒幕とはむしろ方向性が逆。
彼と考えが同じであった徳川慶喜、川路聖謨がその後どういう道を歩んだかを考えれば、左内もまた新政府にスンナリ参加したとは思えないのです。

幕臣・福沢諭吉のように、政府外から学者として近代化に尽くす、そんな道だったのではないでしょうか。

先進的な考えを抱き、開明的で、優秀だった左内。
しかし、倒幕派ではない。

それでも若くして命を落としてしまう。
彼もまた、幕末維新の動乱期に、理不尽な運命に翻弄されてしまった一人でした。

文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新人物事典




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