奄美大島へ西郷隆盛が流され、島で生誕した2人の子供。
そのうちの一人が万延2年(1861年)1月2日に生まれた西郷菊次郎です。
実は、この菊次郎が父の思い出を語る――そんなスタンスで進むのが、林真理子氏の『西郷どん』でした。
京都市長に任ぜられる前は台湾総督府でも働くなど、史実においては優秀な外務官僚であり政治家だったという印象です。
では英雄の子息は実際のところ、いかなる運命を辿ったのか?
西郷菊次郎の生涯を見て参りましょう。

西郷菊次郎/wikipediaより引用
西郷には3人の妻と5人の子女
まず最初に、西郷隆盛の妻と、その子女を確認しておきたいと思います。
◆1番目の妻~伊集院須賀(1852年結婚-1854年離縁/没年不明)

『西郷どん』では橋本愛さんが演じた(絵・小久ヒロ)
・子どもなし
◆2番目の妻~愛加那(1859年結婚-1861年離縁/1902年死去)

愛加那/wikipediaより引用
・菊次郎(1860年生-1928年死去)
・菊子(1862年生-1909年死去/大山巌の弟・誠之助の妻)
◆3番目の妻~岩山糸(1865年結婚-1877年死別/1922年死去)

岩山糸(西郷糸子)/wikipediaより引用
・寅太郎(1860年生-1919年死去)
・牛次郎(1870年生-1935年死去)
・酉三(1873年生-1903年死去)
ご覧の通り子どもは全部で5人です。
最初の妻である伊集院須賀は、結婚間もなくして西郷の江戸行きを機に離縁。
その後、奄美大島で出会ったのが愛加那であり、菊次郎はその長男でした。
長男なのに「次郎」となったのはなぜか?
奄美大島で生まれ、鹿児島に引き取られる
万延2年(1860年)、西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で誕生しました。
父が35才の時にうまれた、初めての子です。
それでも敢えて「次郎」としたのは、母の愛加那が「島妻(アンゴ)」であったことから庶子扱いとなったため――と、小説版『西郷どん』では説明されています。
母の愛加那だけでなく、菊次郎と妹・菊子は、奄美大島で暮らす西郷の心をよく慰めたことでしょう。
そもそも西郷が島流しにされたのは、島津斉彬が死んで井伊直弼の安政の大獄が始まり、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推していた一橋派が無茶を重ねて弾圧されたのがキッカケです。

井伊直弼/Wikipediaより引用
西郷は、幕府から目をつけられていた僧・月照と共に錦江湾へ入水自殺を試み、奇跡的に助かった後、薩摩藩からは「死んだ」ことにされて島へ流されていたのでした。
薩摩としては、2人は厄介者だったのですね。
それでも大久保利通の働きかけや、西郷の実力そのものが大きかったのでしょう。
島での暮らしは1858年に始まり、そして1861年に薩摩へ復帰。
愛加那を連れていくことはできない代わりに、子どもは薩摩で教育を受けることが許されました。
父の復帰から遅れること約8年。
明治2年(1869年)、菊次郎9才の時、菊子と共に2人の子どもたちは鹿児島へ引き取られます。
糸は実子と分け隔てなく育てた
菊次郎にとって新しい薩摩での生活。
そこにいたのは父の再婚相手である岩山糸(西郷糸子)でした。
彼女は、心やさしく度量の広い女性であり、実子・寅太郎らと分け隔てなく菊次郎・菊子の兄妹を大切に育てます。
むろん薩摩の子どもですから、菊次郎も父同様に郷中教育(ごじゅうきょういく)を受けます。
詳細は以下の記事に譲りますが、郷中教育とは
・負けるな
・嘘をいうな
・弱い者いじめをするな
という3つの教えをもとに、勉学や武芸を先輩後輩で教え合うもの。
※以下は「郷中教育」の関連記事となります
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西郷や大久保を育てた薩摩の「郷中教育」泣こかい飛ぼかい泣こよかひっ飛べ!
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例えば儒教経典だけでも四書五経(四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』『礼記』『孝経』『近思録』)というように膨大なものとなります。
薩摩は、示現流や薬丸自顕流という殺人剣で恐れられると同時に、藩士の学問教育も徹底しておりました。
壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置
明治5年(1872年)。
12才になった菊次郎は、アメリカへ留学します。
しかしそんな学生生活も、2年6ヶ月が過ぎた明治7年(1874年)、帰国命令が出されて突如終わってしまいます。
財政緊縮のため、政府が留学生を呼び戻したのでした。
前途洋々たる将来が拓ける――。
そう思っていたであろう菊次郎に、更に突きつけられた厳しい現実は、征韓論で敗れ、薩摩に下野した父の姿でした。
そして運命の明治10年(1877年)がやってきます。
西郷が明治政府相手に蜂起した西南戦争です。
この戦いに菊次郎も父と共に戦いますが、延岡・和田越えの戦闘にて、敢えなく右脚に被弾。

和田越決戦地/photo by shikabane taro wikipediaより引用
当時は、手足に銃弾を受け、弾丸を摘出するケースは少ないもの。壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置でした。
かつての軍人に義手・義足が多かったのは、そのような原因があったのですね。
それも、ロクに麻酔処置も施されないまま切断するのですから、実に恐ろしい状況であり、菊次郎の場合もまたそうでした。
「おはんは白旗を掲げて降伏するとよか」
菊次郎は、右脚の膝から下を切断することになります。
まだ20才にも満たない青年にとって、その辛さたるや、想像に難くないでしょう。
右脚を失って移動もままならなくなり、西郷家の使用人・熊吉につきそわれて、なんとか俵野にまで移動できるという有様。
結局、地元住民の家で療養することになります。
そんな彼のもとに、父の西郷が訪ねて来ました。

西郷隆盛(石川静正画の油彩)/wikipediaより引用
既にこのとき、西郷は軍服を燃やし、愛犬を解き放っていました。
最期の時を覚悟していたのです。
「菊次郎、おはんは白旗を掲げて降伏するとよか。殺されることはなか」
「おいは、這いつくばってでも、父上についていきもす!」
菊次郎は父を追いかけようとしますが、右脚が切断された状態では、思う様に動けません。
這いずり回り、身動きできなくなったところを、熊吉に助けられました。
そして菊次郎は、叔父である西郷従道に降伏することになったのです。

西郷従道/wikipediaより引用
従通は兄の忘れ形見である甥の菊次郎を見ると、大いに喜びました。
「菊、菊! おはんだけでん、生きていてよかった! 熊吉、礼を言うでな」
そして明治10年(1877年)9月24日、西郷隆盛は自刃します。
享年49。
永遠に別れることとなりました。
台湾に今も残る「西郷堤防」
菊次郎は、叔父・従通のはからいにより、アメリカ留学の経験を生かせる外務省に入りました。
入省後は、アメリカ公使館や本省でキャリアを重ねる日々。
日清戦争の結果を受け、台湾が日本領となった明治28年(1895年)、35才の菊次郎は台湾総督府へ赴任します。
そして、台北県支庁長や初代宜蘭(ぎらん)庁長を歴任しながら、4年半におよんだ宜蘭時代、菊次郎は統治に力を入れました。
農業や産業の奨励、土木工事等……様々な功績を残すのです。
菊次郎は、特に河川工事に力を入れました。
宜蘭市を流れる宜蘭川は、人々の生活を潤す水源ではあるのですが、毎年のように氾濫、市民生活をおびやかしていました。
そこで菊次郎は、巨費を投じて17ヶ月もかけ、宜蘭川に堤防を作ったのです。
お陰で宜蘭の市民は水害から守られるようになりました。
1.7キロにおよぶ宜蘭川堤防は、現在も「西郷堤防」と呼ばれ、傍らにはその業績を称える石碑も残されています。
さらに宜蘭市にある「宜蘭設治紀念館(→link)」には、菊次郎の写真はじめ、ゆかりの品が展示されています。
建物も、菊次郎の時代のものがそのまま残されているのだとか。
★
帰国後、菊次郎は明治37年(1904年)から明治44年(1911年)まで、京都市長をつとめました。
前述の通り、小説版『西郷どん』は、菊次郎が京都市長として就任する場面から始まっています。
父の死から30年以上の月日が経過。その記憶はなお鮮烈なものであったことが予想されます。
そして昭和3年(1928年)に死去。
享年68。
西郷の子の中では、二番目の長寿でした。
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【参考】
『国史大辞典』
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon)
ほか









