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西郷菊次郎/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

西郷菊次郎68年の生涯マトメ!西郷隆盛と愛加那の息子は右足を失い、台湾に西郷堤防を作る

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黒木華さん演ずる岩山糸との恋愛話で、何かと話題の大河ドラマ『西郷どん』。

林真理子氏の原作の中にそんな話は一切なく、むしろ小説の中で注目度が高いのは2番目の奥さん・愛加那とぅま)です。
西郷隆盛が奄美大島へ流されたときに出会い、彼女との間には2人の子どもに恵まれました。

そのうちの一人が西郷菊次郎です。

実は、この菊次郎が父の思い出を語る――そんなスタンスで進むのが、林真理子氏の『西郷どん』でして。
ドラマでは未だ登場のない菊次郎ですが、京都市長に任ぜられる前は台湾総督府のもとでも働くなど、史実においては優秀な外務官僚であり政治家だったという印象です。

幕末一の英雄子息はいかなる運命を辿ったのか?

西郷菊次郎の生涯を見て参りましょう。

 

西郷には3人の妻と5人の子女

まず最初に、西郷隆盛の妻と、その子女を確認しておきたいと思います。

◆1番目の妻~伊集院須賀(1852年結婚-1854年離縁/没年不明)
・子どもなし

◆2番目の妻~愛加那(1859年結婚-1861年離縁/1902年死去)
・菊次郎(1860年生-1928年死去)
・菊子(1862年生-1909年死去/大山巌の弟・誠之助の妻)

◆3番目の妻~岩山糸(1865年結婚-1877年死別/1922年死去)
・寅太郎(1860年生-1919年死去)
・牛次郎(1870年生-1935年死去)
・酉三(1873年生-1903年死去)

ご覧の通り子どもは全部で5人です。

最初の妻である伊集院須賀は、結婚間もなくして西郷の江戸行きを機に離縁。
その後、奄美大島で出会ったのが愛加那であり、菊次郎はその長男でした。

長男なのに「次郎」となったのはなぜか?
まずは原作を踏まえて見て参りましょう。

 

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奄美大島で生まれ、鹿児島に引き取られる

万延2年(1860年)、西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で誕生しました。

父が35才の時にうまれた、初めての子です。
それでも敢えて「次郎」としたのは、母の愛加那が「島妻(アンゴ)」であったことから庶子扱いとなったため――と、小説版『西郷どん』では説明されています。

母の愛加那だけでなく、菊次郎と妹・菊子は、奄美大島で暮らす西郷の心をよく慰めたことでしょう。

そもそも西郷が島流しにされたのは、島津斉彬が死んで井伊直弼安政の大獄が始まり、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推していた一橋派が政治的に弾圧されたのがキッカケです。
西郷は、幕府から目をつけられていた僧・月照と共に錦江湾へ入水自殺を試み、奇跡的に助かった後、薩摩藩からは「死んだ」ことにされて島へ流されていたのでした。

薩摩としては、2人は厄介者だったのですね。

それでも大久保利通の働きかけや、西郷の実力そのものが大きかったのでしょう。
島での暮らしは1858年に始まり、そして1861年に薩摩へ復帰。

愛加那を連れていくことはできない代わりに、子どもは薩摩で教育を受けることが許されました。

父の復帰から遅れること約8年。
明治2年(1869年)、菊次郎9才の時、菊子と共に2人の子どもたちは鹿児島へ引き取られます。

 

糸は実子と分け隔てなく育てた

菊次郎にとって新しい薩摩での生活。
そこにいたのは父の再婚相手である岩山糸(西郷糸子)でした。

彼女は、心やさしく度量の広い女性であり、実子・寅太郎らと分け隔てなく菊次郎・菊子の兄妹を大切に育てます。

岩山糸(西郷糸子)/wikipediaより引用

むろん薩摩の子どもですから、菊次郎も父同様に郷中教育(ごじゅうきょういく)を受けます。

詳細は以下の記事に譲りますが、郷中教育とは

・負けるな
・嘘をいうな
・弱い者いじめをするな

という3つの教えをもとに、勉学や武芸を先輩後輩で教え合うもの。

例えば儒教経典だけでも四書五経(四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』『礼記』『孝経』『近思録』)というように膨大なものとなります。

薩摩は、示現流や薬丸自顕流という殺人剣で恐れられると同時に、藩士の学問教育も徹底しておりました。

郷中教育が西郷や大久保ら薩摩藩士を育てた!「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ!」

 

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壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置

明治5年(1872年)。
12才になった菊次郎は、アメリカへ留学します。

しかしそんな学生生活も、2年6ヶ月が過ぎた明治7年(1874年)、帰国命令が出されて突如終わってしまいます。
財政緊縮のため、政府が留学生を呼び戻したのでした。

前途洋々たる将来が拓ける――。
そう思っていたであろう菊次郎に、更に突きつけられた厳しい現実は、征韓論で敗れ、薩摩に下野した父の姿でした。

そして運命の明治10年(1877年)がやってきます。
西郷が明治政府相手に蜂起した西南戦争です。

この戦いに菊次郎も父と共に戦いますが、延岡・和田越えの戦闘にて、敢えなく右脚に被弾。

和田越決戦地/photo by shikabane taro wikipediaより引用

当時は、手足に銃弾を受け、弾丸を摘出するケースは少ないものでして。
壊疽を避けるための切断――それが一般的な処置でした。

かつての軍人に義手・義足が多かったのは、そのような原因があったのですね。




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それも、ロクに麻酔処置も施されないまま切断するのですから、実に恐ろしい状況であり、菊次郎の場合もまたそうでした。

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