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徳川家茂(徳川慶福)/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

徳川家茂(徳川慶福)21年の生涯マトメ!一橋慶喜と後継を争った14代将軍は、勝海舟にも認められ

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幕末の将軍といえば、徳川慶喜一橋慶喜)の印象が強いものです。

水戸藩・徳川斉昭を父に持ち、一橋家に養子入り。
島津斉彬(と西郷隆盛)や、松平春嶽(と橋本左内)に擁立されて第14代将軍を……目指したところで井伊直弼たちの一派に負け、安政の大獄で謹慎処分となってしまいました。

このとき後継者争いに勝利し、第14代将軍になったのが徳川家茂(徳川慶福)です。

あまりに短い一生のため、存在感が薄い人物かもしれません。
ただし、無能と切って捨ててよい人物でもない存在。

井伊直弼らに担がれたのも相応の実力があったからで、あの勝海舟もその才を惜しんでいたほどです。
彼の儚い一生を辿ってみましょう。

勝海舟/wikipediaより引用

 

心優しく、聡明な少年だった

家茂は弘化3年(1846年)、第11代和歌山藩主・徳川斉順(なりより)の長子として生まれました。

母は側室で、若山藩士・松平六郎右衛門晋の娘・みさ(実成院)。
幼名は菊千代といいます。

生まれた翌年には、第12代和歌山藩主・斉彊(なりかつ)の養子となりました。

嘉永2年(1849年)、養父が没したため藩主となりました。
それから2年後の嘉永4年(1851年)元服し、将軍・徳川家慶より偏諱を与えられて徳川慶福と改名します。

こうしてみてくると、早く大人にならねばならなかった大変な人物と思えます。
しかし、優しい養育係に育てられた家茂は、幸運な少年期を過ごしているのです。

家茂の養育係は、旗本・古屋豊展の娘であった波江という老女(役職名)でした。
波江は美しく聡明、慈愛に満ちた女性です。

家茂は動物好きで、庭のアヒルや小鳥を好みました。
慶福に改名する儀式の最中にぐずりだしたことがありましたが、鳥を見ただけで泣きやんだとか。

あるとき、家茂は鶴を屋内にあげようとしてダダをこねました。
やがて悪いことをしたと悟ると、波江に謝ったそうです。

家茂は、乗馬を好み、剣術や歌や文学は好まなかったとされています。
が、実際にはそうではありません。

徳川一門の大名にふさわしい、即興で歌を詠む才能の持ち主でした。
儒教の経典もよく読み、教養も身につけていました。
勝海舟も「文武に長けた人物」と評価しています。

聡明で、責任感が強い。
悪いことをしたらきちんと謝罪する。
しかも優しく温厚、動物が好き。

のちの和宮とのエピソードからしても、育ちも性格もよい貴公子であったことがわかります。
性格面でいえば、これほどの好人物もなかなかいないと言えるのではないでしょうか。

徳川家茂/wikipediaより引用

 

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将軍継嗣問題に引きずり込まれ

聡明で心優しい、徳川一門。
となれば、家茂に白羽の矢が立てられても何らフシギはありません。

そうです。第13代将軍・徳川家定の後継者問題です。

家定は病弱で、島津家から正室・篤姫を迎えたとはいえ、健康で立派に成長する跡継ぎが得られるとは限りません。
そこで、徳川一門の誰かを養子にする必要がありました。

ここで、ちょっと各種史料を引用してみましょう(飛ばしてくださっても問題ありません)。

『日本大百科全書』より
松平慶永は島津斉彬ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、老中阿部正弘の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代大名の筆頭井伊直弼は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻を招くとの考えのもとに、血統近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。
『世界大百科事典』
越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬らが,この一橋慶喜を擁立する運動を起こした。一橋派には幕政改革を求める雄藩主や開明派の幕臣が連なり,幕府を欧米型の近代国家の方向へ脱皮させようともくろんだ。これに対し家定は,自分の後継ぎに紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を望んだ。幕府をこれまでどおりに運営すればいいと考える譜代大名の多くが紀州派に集まった。
Wikipedia
これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は、大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。

こうした記述を読むと、
「せっかく一橋派が聡明な慶喜を推したのに、凡愚な家茂を推した南紀派が邪魔だよね。南紀派は保身をはかりたかっただけでしょ」
という印象を受けませんか?

家茂は慶喜より愚か――情報操作とは言わないまでも、そういったイメージにされているのは否定しきれません。

しかし考えてもみてください。

慶喜と家茂には、結構な年齢差があります。
いくら聡明といえども、当時の家茂はまだ中学生くらい。
その年齢ではこの多難な政局では心許ないと思われても仕方ありません。

ここは、ちょっと注意した方がよろしいかと思います。

一橋派は、のちに倒幕派に鞍替えし、歴史の勝者となった勢力が含まれているからです。
勝者によるバイアスがかかっていることを考慮した方がよいでしょう。

 

そもそも斉昭がヤバすぎでして

一方、南紀派は、井伊直弼が「安政の大獄」という粛正をしてしまったため、どうしても悪印象を抱かれてしまいます。

しかし、冷静に考えると、どっちもどっち……といいますか、一橋派も完璧ではありません。

むしろ、コトの本質は、慶喜や家茂の人格や資質問題というよりも、
【一橋派の徳川斉昭がいろいろやらかしすぎている】
という点ではないでしょうか。

徳川斉昭/wikipediaより引用

ここで、一橋派の斉昭のやらかしたことをあげていきます。

【関連記事】徳川斉昭

上記に徳川斉昭の人となりがまとまっておりますが、他の関連記事と合わせて、彼の特徴をリストアップさせていただきますと……。

◆下半身がゆるすぎて大奥から嫌われまくる。家定の生母・本寿院のコメント「斉昭の息子を家定の養子にするくらいなら、私は自殺する」
◆イケイケの攘夷派で、絶対に実現できないような攘夷計画を主張し、幕政を混乱させる
◆老中・堀田正睦への逆恨みから、彼の「日米和親条約勅許獲得工作」を妨害
◆姻戚関係にある公卿・鷹司政通ら公卿に工作を持ちかけ、幕府の働きかけをさんざん妨害
◆「戊午の密勅」のフィクサーとされる(そうでなくとも、水戸藩に下賜されている以上関与なしとはいえない)
藤田東湖と強引な改革を行い、水戸藩が内部分裂する原因を作る
【関連記事】藤田東湖

水戸藩を中心に燃え上がった「尊皇攘夷」思想は、いろいろとやっかいな結果を引き起こしました。

幕府としては、足並みをそろえて開国して、富国強兵に進みたい。
しかし、ここで「ちょっと~、天皇無視して話進めていいと思ってるの~異人なんてぶったぎりなさいよ~」と足を引っ張ってくるのが、一橋派であったわけです。

幕府の強硬派・井伊直弼が最終的にキレたのは、安政5年(1858年)の「戊午の密勅」です。
これは孝明天皇が、幕府をないがしろにして、水戸藩に勅書を下賜した事件でした。

「こいつは、さすがにゆるされませんわ~!」
とキレたのが井伊直弼。

幕府をナメきって、天皇の権威を背景に好き勝手やらかそうというのは、そりゃ幕府の保守派からすれば絶対に許されないことです。
いくら斉昭がシラを切ろうとも、密勅が水戸藩に下された以上、弁解も通りません。

ちょっと家茂から話が外れましたが、この「将軍継嗣問題」については、一橋派の無茶ぶりで自滅という一面もあるわけです。

幕末は、人々が国のために尽くして維新を成し遂げたとされています。
ただし、この問題でこの二派が揉めず、「尊皇攘夷」という回り道をせず、一丸となって開国と富国強兵という正解にたどりついていれば、流れずに済んだ血もあったのではないでしょうか。

 

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責任感あふれる少年将軍・家茂

さて、将軍継嗣問題は南紀派の勝利に終わり、安政5年(1858年)に家茂は第14代将軍となりました。

後見人は、田安徳川家の第5代および8代当主・徳川慶頼。
松平春嶽の異母弟です。

徳川慶頼/wikipediaより引用

家茂というとひ弱な印象があります。
が、元幕臣で洋画家・川村清雄による肖像画を見れば、印象が変わると思います。

この絵は、勝海舟も「いい出来」と太鼓判を押してます。

徳川家茂(徳川慶福)/wikipediaより引用

さらには、いざ将軍に就任すると責任感もにじんできたようです。

「どことなく徳川吉宗の再来のようで、将来頼もしそうだと皆で噂しております」
というような意見も、側近から出てきました。

本人も意識していたようで、吉宗を模した具足を作らせています。

とはいえ、どんなにがんばって背伸びしてみても、現在でいうならば中学生くらいの年齢です。
時にはわがままも言いました。

動物が好きだからと鈴虫を献上されると……
「気に入った! 虫篭を200用意せよ」
と命じて周囲の者が困り果てたとか。

鬼の首を取ったようように、一橋派からは
「周囲の連中はまるで、わがままな小僧のご機嫌取りをしているみたいだ」
そう笑いものにしたとか。
なんというか……互いに子供か、と……。

ただ、そうしたわがままも将軍として過ごすうちに落ち着いてきました。

あるとき、家茂は書道の師範の頭から水を掛けてふざけました。
側近らは、将軍らしからぬふるまいにあきれていましたが、実は年老いた師範が失禁したことを察知し、わざと水を掛けてかばっていたと、あとでわかったのです。

もしも失禁をとがめられたら、無礼であるとして師範は処罰を免れなかったことでしょう。
家茂の機転で、彼は救われたのです。

幼く、頼りないところはあるものの、将軍として気丈に振る舞っていた――それが将軍・家茂でした。

 

和宮との結婚生活

そんな家茂に、縁談が持ち上がりました。

【幕府と朝廷を婚姻によって結びつけること】
そんな背景を持った縁談は、徳川家代々の将軍の中でも、最も重大深刻な論争を巻き起こします。

発案者は井伊直弼とされ、幕府だけではなく、近衛忠煕や中山忠能、岩倉具視らの公家も推し進めるべく参加。
もちろんそこに当事者の意見は入り込めません。

文久2年(1862年)、和宮は泣く泣く、家茂の元へと嫁ぎます。

そこで待ち受けていた家茂は、貴公子然とした心優しい青年でした。

和宮は大奥のしきたりになじめず、辛い思いをすることも多かったのですが、夫である家茂はいつでも彼女の味方でした。
政略結婚とはいえ、夫婦の間には深い情愛が存在したのでした。

ロマンスの神様、あの世で二人を結ばせて!政略結婚でもラブラブだった和宮&徳川家茂

 

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将軍の上洛

和宮との婚礼の年、徳川慶頼が後見の座を退き、親政が成立します。

この年、薩摩藩の「国父」こと島津久光が動きました。

久光は朝廷の意思を携えて江戸に入り、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求。
幕府はのまざるを得ませんでした。

以来、後見職である慶喜の陰に隠れがちになります。

文久3年(1863年)、家茂は上洛しました。
この将軍上洛には、のちの新選組となる近藤勇ら天然理心流の門人、清河八郎、山岡鉄舟、高橋泥舟、伊庭八郎らが付き従っています。

将軍上洛は、実に230年ぶりのことでした。

京都で家茂は、公武合体の推進を図るはずでした。
しかし、過激な尊攘運動の攻勢にさらされることとなってしまいます。

家茂は賀茂社行幸に供奉。このとき、高杉晋作が、
「いよっ! 征夷大将軍」
と声を掛けた……と伝わりますが、これは後世の創作です。

幕末の史実をキッチリ確認したいなら『司馬遼太郎が描かなかった幕末』(著:一坂太郎)を……

賀茂社行幸で家茂は、雨に打たれながら孝明天皇を待つことになりました。
そのためか、体調を崩してしまったようです。

石清水行幸は、病だということで断りました。

しかし、そうスンナリ通るはずもなく。
「本気で攘夷やる気あるんですよね」
こう、迫られやむなく「5月15日までには攘夷をします」と返答してしまいます。

家茂は、6月には江戸に戻りました。
この帰り道、家茂は幕臣・勝海舟から海軍の必要性を聞きます。

家茂からすすんで話を聞いたとはいえ、将軍に直接意見する勝に周囲は反発しました。
しかし、家茂は素直に彼の意見を聞き入れたのです。

勝はその即断即決に関心しました。
これぞ名君だ、と感動したのです。

 

苦悩の中で夭折

元治元年(1864年)、家茂は再上洛しました。

公武合体を実現しようとしたのです。
が、力及ばず、江戸へ。

当時の京都はますます危険きわまりない街へと変貌していました。
夏に「禁門の変蛤御門の変)」が起こると、長州藩を討伐せよという声があがります。

これを受けて「第一次長州征討」を開始。
このときは、長州藩側が家老らに切腹させ、恭順の意を示し、終わりました。

元治2年(1865年)、再度、長州征討が行われました(「第二次長州征討」)。

と、これが幕府軍の敗北に終わってしまうのです。
高杉晋作の活躍が華々しく語られるわけですが、そもそも責任者である薩摩藩の西郷隆盛に、やる気がありませんでした。

このころから西郷は、倒幕を視野に入れて動き始めていたのです。

そんな大変な状況の中、大阪城内で家茂は病死してしまいます。
享年21。

あまりに若すぎる死でした。

 

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死後、和宮のもとへ西陣織が届けられ……

死因は複合的で、喉と胃腸の不調、脚気に苦しんでいました。
ストレスにもさらされていたことでしょう。

家茂の死後、和宮のもとにあるものが届きました。
彼女が欲しがっていた西陣織の着物です。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう

あまりに哀しい、残された妻の心情でした。

夭折してしまったため印象が薄く、将軍継嗣問題のこともあってか、慶喜よりも暗愚とみられがちな家茂。

しかし実際は、勝海舟の進言を素直に受け入れる、聡明さと度量の持ち主でした。
勝は「長生きしたら歴史に名君として名を残せただろうに」と嘆き、その名を口にするだけで涙ぐんでいた……と伝わります。

激動の時代に翻弄された、青年将軍の儚い生涯でした。

文:小檜山青




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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典
別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯
半藤一利『幕末史
国史大辞典

 




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