徳川家茂

徳川家茂/wikipediaより引用

幕末・維新

14代将軍・徳川家茂(慶福)は勝海舟にも認められた文武の才の持ち主

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そもそも斉昭がヤバすぎた

一方、南紀派は、井伊直弼が【安政の大獄】という粛清をしてしまったため、どうしても悪印象を抱かれてしまいます。

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しかし、冷静に考えると、どっちもどっち……といいますか、一橋派も完璧ではありません。

むしろ、コトの本質は、慶喜や家茂の人格や資質問題というよりも

【一橋派の徳川斉昭がいろいろやらかしすぎている】

という点ではないでしょうか。

徳川斉昭
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ここで、一橋派の斉昭のやらかしたことをあげていきます。

徳川斉昭
史実の徳川斉昭は幕府を揺るがす問題児だった?そして水戸家は崩壊へ

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上記に徳川斉昭の人となりがまとまっておりますが、他の関連記事と合わせて、彼の特徴をリストアップさせていただきますと……。

徳川斉昭とは?

◆下半身がゆるすぎて大奥から嫌われまくる。家定の生母・本寿院のコメント「斉昭の息子を家定の養子にするくらいなら、私は自殺する」

◆イケイケの攘夷派で、絶対に実現できないような攘夷計画を主張し、幕政を混乱させる

◆老中・堀田正睦への逆恨みから、彼の「日米和親条約勅許獲得工作」を妨害

◆姻戚関係にある公卿・鷹司政通ら公卿に工作を持ちかけ、幕府の働きかけをさんざん妨害

◆【戊午の密勅】のフィクサーとされる(そうでなくとも、水戸藩に下賜されている以上関与なしとはいえない)

藤田東湖と強引な改革を行い、水戸藩が内部分裂する原因を作る

ご覧の始末です。

 

直弼が水戸藩らにブチギレ!

水戸藩を中心に燃え上がった【尊皇攘夷】思想は、いろいろとやっかいな結果を引き起こしました。

幕府としては、足並みをそろえて開国して、富国強兵に進みたい。

しかし、ここで「ちょっと~、天皇無視して話進めていいと思ってるの~異人なんてぶったぎりなさいよ~」と足を引っ張ってくるのが、一橋派であったわけです。

幕府の強硬派・井伊直弼が最終的にキレたのは、安政5年(1858年)の【戊午の密勅】です。

これは孝明天皇が、幕府をないがしろにして、水戸藩に勅書を下賜した事件でした。

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「こいつは、さすがにゆるされませんわ~!」

そうキレたのが井伊直弼。

幕府をナメきって、天皇の権威を背景に好き勝手やらかそうというのは、そりゃ幕府の保守派からすれば絶対に許されないことです。

いくら斉昭がシラを切ろうとも、密勅が水戸藩に下された以上、弁解も通りません。

ちょっと家茂から話が外れましたが、この「将軍継嗣問題」については、一橋派の無茶ぶりで自滅という一面もあるわけです。

幕末は、人々が国のために尽くして維新を成し遂げたとされています。

ただし、この問題でこの二派が揉めず、「尊皇攘夷」という回り道をせず、一丸となって開国と富国強兵という正解にたどりついていれば、流れずに済んだ血もあったのではないでしょうか。

 

責任感あふれる少年将軍・家茂

さて、将軍継嗣問題は南紀派の勝利に終わり、安政5年(1858年)に家茂は第14代将軍となりました。

後見人は、田安徳川家の第5代および8代当主・徳川慶頼。

松平春嶽の異母弟です。

徳川慶頼/wikipediaより引用

家茂というとひ弱な印象がありますが、元幕臣で洋画家・川村清雄による肖像画を見れば、印象が変わると思います。

この絵は、勝海舟も「いい出来」と太鼓判を押してます。

さらには、いざ将軍に就任すると責任感もにじんできたようです。

「どことなく徳川吉宗の再来のようで、将来頼もしそうだと皆で噂しております」

そんな意見も、側近から出てきました。

本人も意識していたようで、吉宗を模した具足を作らせています。

ただし、どんなにがんばって背伸びしてみても、現在でいうならば中学生くらいの年齢です。時にはわがままも言いました。

動物が好きだからと鈴虫を献上されると……「気に入った! 虫篭を200用意せよ」と命じて周囲の者が困り果てたとか。

鬼の首を取ったようように、一橋派からは「周囲の連中はまるで、わがままな小僧のご機嫌取りをしているみたいだ」と笑いものにしたとか。

なんというか……互いに子供か、と……。

ただ、そうしたわがままも将軍として過ごすうちに落ち着いてきました。

あるとき、家茂は書道の師範の頭から水を掛けてふざけました。

側近らは、将軍らしからぬふるまいにあきれていましたが、実は年老いた師範が失禁したことを察知し、わざと水を掛けてかばっていたと、あとでわかったのです。

もしも失禁をとがめられたら、無礼であるとして師範は処罰を免れなかったことでしょう。家茂の機転で、彼は救われたのです。

幼く、頼りないところはあるものの、将軍として気丈に振る舞っていた――それが将軍・家茂でした。

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