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【徳川家茂】
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和宮との結婚生活
そんな家茂に、縁談が持ち上がりました。
【幕府と朝廷を婚姻によって結びつけること】
そんな背景を持った縁談は、徳川家代々の将軍の中でも、最も重大深刻な論争を巻き起こします。
発案者は井伊直弼とされ、幕府だけではなく、近衛忠煕や中山忠能、岩倉具視らの公家も推し進めるべく参加。もちろんそこに当事者の意見は入り込めません。
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文久2年(1862年)、和宮は泣く泣く、家茂の元へと嫁ぎます。
そこで待ち受けていた家茂は、貴公子然とした心優しい青年でした。
和宮は大奥のしきたりになじめず、辛い思いをすることも多かったのですが、夫である家茂はいつでも彼女の味方でした。
政略結婚とはいえ、夫婦の間には深い情愛が存在したのでした。
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将軍の上洛
和宮との婚礼の年、徳川慶頼が後見の座を退き、親政が成立します。
この年、薩摩藩の「国父」こと島津久光が動きました。
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久光は朝廷の意思を携えて江戸に入り、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求。
幕府はのまざるを得ませんでした。
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以来、後見職である慶喜の陰に隠れがちになります。
文久3年(1863年)、家茂は上洛しました。
この将軍上洛には、のちの新選組となる近藤勇ら天然理心流の門人、清河八郎、山岡鉄舟、高橋泥舟、伊庭八郎らが付き従っています。
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将軍上洛は、実に230年ぶりのこと。京都で家茂は、公武合体の推進を図るはずでした。
しかし、過激な尊攘運動の攻勢にさらされてしまいます。
家茂は賀茂社行幸に供奉。このとき、高杉晋作が、「いよっ! 征夷大将軍」と声を掛けた……と伝わりますが、これは後世の創作です。
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賀茂社行幸で家茂は、雨に打たれながら孝明天皇を待つことになりました。そのためか、体調を崩してしまったようです。
石清水行幸は、病だということで断りました。
しかし、そうスンナリ通るはずもなく。
「本気で攘夷やる気あるんですよね」
こう、迫られやむなく「5月15日までには攘夷をします」と返答してしまいます。
家茂は、6月には江戸に戻りました。
この帰り道、家茂は幕臣・勝海舟から海軍の必要性を聞きます。
家茂からすすんで話を聞いたとはいえ、将軍に直接意見する勝に周囲は反発しました。しかし、家茂は素直に彼の意見を聞き入れたのです。
勝はその即断即決に感心しました。これぞ名君だ!
苦悩の中で夭折
元治元年(1864年)、家茂は再上洛しました。
公武合体を実現しようとしたのです。
しかし、力及ばず、江戸へ。
当時の京都はますます危険きわまりない街へと変貌していました。
夏に【禁門の変(蛤御門の変)】が起こると、長州藩を討伐せよという声があがります。
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そして【第一次長州征討】を開始。
このときは、長州藩側が家老らに切腹させ、恭順の意を示し、終わりました。
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元治2年(1865年)、再度、長州征討が行われました(「第二次長州征討」)。
これが幕府軍の敗北に終わってしまうのです。
高杉晋作の活躍が華々しく語られるわけですが、そもそも責任者である薩摩藩の西郷隆盛に、やる気がありませんでした。
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このころから西郷は、倒幕を視野に入れて動き始めていたのです。
そんな大変な状況の中、大阪城内で家茂は病死してしまいます。
享年21。
あまりに若すぎる死でした。
死後、和宮のもとへ西陣織が届けられ……
死因は複合的で、喉と胃腸の不調、脚気に苦しんでいました。過度なストレスにもさらされていたことでしょう。
家茂の死後、和宮のもとにあるものが届きました。
彼女が欲しがっていた西陣織の着物です。
「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」
せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう
あまりに哀しい、残された妻の心情でした。
★
夭折してしまったため印象が薄く、将軍継嗣問題のこともあってか、慶喜よりも暗愚とみられがちな家茂。
しかし実際は、勝海舟の進言を素直に受け入れる、聡明さと度量の持ち主でした。
勝は「長生きしたら歴史に名君として名を残せただろうに」と嘆き、その名を口にするだけで涙ぐんでいた……と伝わります。
激動の時代に翻弄された、青年将軍の儚い生涯でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
『国史大辞典』