徳川家茂

徳川家茂/wikipediaより引用

幕末・維新

14代将軍・徳川家茂(慶福)は勝海舟にも認められた文武の才の持ち主だった

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
徳川家茂
をクリックお願いします。

 


和宮との結婚生活

そんな家茂に、縁談が持ち上がりました。

【幕府と朝廷を婚姻によって結びつけること】

そんな背景を持った縁談は、徳川家代々の将軍の中でも、最も重大深刻な論争を巻き起こします。

発案者は井伊直弼とされ、幕府だけではなく、近衛忠煕や中山忠能、岩倉具視らの公家も推し進めるべく参加。もちろんそこに当事者の意見は入り込めません。

近衛忠煕
篤姫を養女にした近衛忠煕(ただひろ)幕末のエリート貴族91年の生涯とは?

続きを見る

岩倉具視
岩倉具視・薩長ではない幕末の下級貴族がなぜ明治政府の主要メンバーに選ばれた?

続きを見る

文久2年(1862年)、和宮は泣く泣く、家茂の元へと嫁ぎます。

そこで待ち受けていた家茂は、貴公子然とした心優しい青年でした。

和宮は大奥のしきたりになじめず、辛い思いをすることも多かったのですが、夫である家茂はいつでも彼女の味方でした。

政略結婚とはいえ、夫婦の間には深い情愛が存在したのでした。

和宮
和宮と家茂(14代将軍)は政略結婚でもラブラブ?二人を天国で出会わせて

続きを見る

 


将軍の上洛

和宮との婚礼の年、徳川慶頼が後見の座を退き、親政が成立します。

この年、薩摩藩の「国父」こと島津久光が動きました。

島津久光
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年

続きを見る

久光は朝廷の意思を携えて江戸に入り、慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任命することを要求。

幕府はのまざるを得ませんでした。

松平春嶽(松平慶永)
幕末のドタバタで調停調停に追われた松平春嶽(松平慶永)生涯63年まとめ

続きを見る

以来、後見職である慶喜の陰に隠れがちになります。

文久3年(1863年)、家茂は上洛しました。

この将軍上洛には、のちの新選組となる近藤勇天然理心流の門人、清河八郎、山岡鉄舟高橋泥舟、伊庭八郎らが付き従っています。

近藤勇
近藤勇が新選組で成し遂げたかったことは?関羽に憧れ「誠」を掲げた35年の生涯

続きを見る

山岡鉄舟
山岡鉄舟~西郷を説得して無血開城を実現させた生粋の武人53年の生涯

続きを見る

高橋泥舟
なぜ高橋泥舟は勝海舟から馬鹿正直と評価された?槍一筋に生きた武士

続きを見る

将軍上洛は、実に230年ぶりのこと。京都で家茂は、公武合体の推進を図るはずでした。

しかし、過激な尊攘運動の攻勢にさらされてしまいます。

家茂は賀茂社行幸に供奉。このとき、高杉晋作が、「いよっ! 征夷大将軍」と声を掛けた……と伝わりますが、これは後世の創作です。

司馬遼太郎が描かなかった幕末
『司馬遼太郎が描かなかった幕末』が面白いから湧いてくる複雑な思い

続きを見る

賀茂社行幸で家茂は、雨に打たれながら孝明天皇を待つことになりました。そのためか、体調を崩してしまったようです。

石清水行幸は、病だということで断りました。

しかし、そうスンナリ通るはずもなく。

「本気で攘夷やる気あるんですよね」

こう、迫られやむなく「5月15日までには攘夷をします」と返答してしまいます。

家茂は、6月には江戸に戻りました。

この帰り道、家茂は幕臣・勝海舟から海軍の必要性を聞きます。

家茂からすすんで話を聞いたとはいえ、将軍に直接意見する勝に周囲は反発しました。しかし、家茂は素直に彼の意見を聞き入れたのです。

勝はその即断即決に感心しました。これぞ名君だ!

 


苦悩の中で夭折

元治元年(1864年)、家茂は再上洛しました。

公武合体を実現しようとしたのです。

しかし、力及ばず、江戸へ。

当時の京都はますます危険きわまりない街へと変貌していました。

夏に【禁門の変(蛤御門の変)】が起こると、長州藩を討伐せよという声があがります。

禁門の変(蛤御門の変)
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた

続きを見る

そして【第一次長州征討】を開始。

このときは、長州藩側が家老らに切腹させ、恭順の意を示し、終わりました。

長州征討
長州征討で潰される寸前だった長州藩~なぜドン底から復活して倒幕できたのか

続きを見る

元治2年(1865年)、再度、長州征討が行われました(「第二次長州征討」)。

これが幕府軍の敗北に終わってしまうのです。

高杉晋作の活躍が華々しく語られるわけですが、そもそも責任者である薩摩藩の西郷隆盛に、やる気がありませんでした。

西郷隆盛
西郷隆盛~幕末維新の時代を最も動かした男~誕生から西南戦争まで49年の生涯とは

続きを見る

このころから西郷は、倒幕を視野に入れて動き始めていたのです。

そんな大変な状況の中、大阪城内で家茂は病死してしまいます。
享年21。

あまりに若すぎる死でした。

 

死後、和宮のもとへ西陣織が届けられ……

死因は複合的で、喉と胃腸の不調、脚気に苦しんでいました。過度なストレスにもさらされていたことでしょう。

家茂の死後、和宮のもとにあるものが届きました。

彼女が欲しがっていた西陣織の着物です。

「空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ」

せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう

あまりに哀しい、残された妻の心情でした。

夭折してしまったため印象が薄く、将軍継嗣問題のこともあってか、慶喜よりも暗愚とみられがちな家茂。

しかし実際は、勝海舟の進言を素直に受け入れる、聡明さと度量の持ち主でした。

勝は「長生きしたら歴史に名君として名を残せただろうに」と嘆き、その名を口にするだけで涙ぐんでいた……と伝わります。

激動の時代に翻弄された、青年将軍の儚い生涯でした。


あわせて読みたい関連記事

勝海舟
なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?生粋の江戸っ子77年の生涯

続きを見る

和宮
和宮と家茂(14代将軍)は政略結婚でもラブラブ?二人を天国で出会わせて

続きを見る

徳川慶喜が将軍になるまで
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期

続きを見る

コメントはFacebookへ

徳川斉昭
徳川斉昭は幕府を揺るがし滅ぼす問題児だった?そして水戸藩も崩壊の憂き目へ

続きを見る

本寿院
13代将軍家定の生母・本寿院~嫁の篤姫との関係は対立ではなく良好か

続きを見る

堀田正睦
幕府と朝廷の板挟みで苦しんだ堀田正睦~優秀な開明派 55年の生涯を振り返る

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
『別冊歴史読本 天璋院篤姫の生涯』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
『国史大辞典』

TOPページへ


 



-幕末・維新
-,

×