道行く屈強な浪人や若者に対し、やたらと因縁をふっかけている男がいた。
「なんだてめえは! 上等だ! こっち来やがれ!」
喧嘩っ早い江戸っ子である。売られた喧嘩を買わないはずがない。
するとそこへ別の男が割って入ってきて、こう迫るのである。
「まぁまぁ、ここは抑えて。どうだい、ゼニになる話があるんだ。三田の薩摩屋敷に来ないか」
いったい何者なのか?
慶応3年(1867年)という維新前夜に、いったい彼らは江戸で何をしていたのか?
怪しげな一軍を率いる男の名は相楽総三(さがらそうぞう)。
後に西郷隆盛のスケープゴートにされ、1868年3月26日(慶応4年3月3日)に処刑されてしまう、まるで捨て駒のような青年であった――。
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豪農生まれの教養あふれる青年
天保10年(1839年)、下総相馬郡(現在の茨城県取手市)。
地元の富豪・小島家四男として、後の相楽総三は誕生しました。
小島家は、旗本に金を貸す等して、大富豪とまで呼ばれるようになった家柄。相楽の邸宅は下総にあるものの、自身は江戸の赤坂生まれです。
この家は、江戸と行き来をしていました。
日本が激動の時代へと向かう幕末、尊皇攘夷思想にふれたのは、武士だけではありません。
相楽のような、豪農の息子であっても学ぶ機会はありました。
関東の豪農といえば、土方歳三の出もそうです。
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土方は相楽の4才年上にあたります。
余裕がある豪農という出身層は似通っていますが、土方が俳諧という趣味を学んだのに対して、相楽の場合は国学をはじめとする思想教育を受けたわけです。
相楽はのびのびと国学を学び、20才の頃には私塾を開き、門人200名を集めたほどでした。
フリーランス草莽志士として活動
文久元年(1861年)、風雲急を告げる時代に、相楽は国のために尽くすことを誓いました。
「俺は草莽の志士として、この国のために運動をする!」
そう決めた相楽は父から大金をもらい、日本全国で同志を募ることにしました。
そして上野、下野、信濃、越後、出羽、秋田……東国を旅して回ったのです。
幕府にも、朝廷にも、藩士にも所属しない、無所属志士を集めたわけですね。
文久3年(1863年)には、桃井可堂(もものい かどう)率いる慷慨組(こうがいぐみ)による上野国赤城山挙兵を援助します。
桃井も、相楽同様豪農の出身で、草莽の志士でした。
しかしこの挙兵は失敗します。
江戸に戻った後は、翌元治元年(1864年)、水戸藩尊攘激派である天狗党の筑波山挙兵に加わるものの、藤田東湖の子・藤田小四郎と意見が合わず下山。
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もしここで小四郎と意気投合しても、末路は破滅が待っていたことでしょう。
草莽の志士として活動をしているものの、どうにもうまくいかない……そんな時、相楽は転機を迎えます。
江戸、維新前夜のテロル
明治維新まであと少し――そんなとき、相楽はツテを頼り、3人の幕末キーパーソンと知り合いました。
「おぉ、すげえ、ビッグネームじゃん! 今までのとは違うし!」
そう浮かれてもおかしくはないですよね。
慶応2年(1866年)、上洛を果たした相楽は、西郷から密命を受けます。
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そしてその翌年、慶応3年(1867年)10月。
相楽、薩摩藩士・益満休之助、伊牟田尚平は、西郷の命によりとある計画を実行に移すのでした。
相楽は、人脈をたどってヤクザ者らアウトローを500名ほど集めます。軍資金は、父親を頼りました。
それまでは本名の小島四郎を名乗っていましたが、このころから相楽総三と名を変えました。
彼らが行ったのは、江戸での騒擾活動でした。
要するに、破壊工作であり、陽動作戦であり。現代で言えばテロですね。
その中身は、ヒドいものでした。
血の気の多い江戸っ子に喧嘩をふっかける程度ならまだマシ。
放火、強盗、暴行、殺人……と、血腥い(ちなまぐさい)犯行のあとで、彼らは「薩摩藩の者じゃぁ!」と大胆不敵に名乗るのです。
神出鬼没のテロリストの暗躍に、江戸の人々はふるえあがり、幕府は怒りました。
しまいには、天璋院篤姫や和宮がいる江戸城二の丸にまで放火されました。
「薩摩御用盗だ……」
「薩摩の奴らが、姫君(天璋院篤姫)をかっさらうために暴れてやがる……」
しまいには、佐土原藩(薩摩藩の支藩)の者が、江戸警護を担当している庄内藩邸に発砲しました。
幕府側も、ついに我慢の限界。
小栗忠順は、庄内藩士に命じて薩摩藩邸を焼き討ちにします。
この攻撃には、幕府を支援していたフランス軍のブリュネも参加していました。
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この最中、相楽は脱出し京都へと向かいます。
幕府の怒りは頂点に達しており、もはや戦争は不可避。
これにて相楽はミッションコンプリートです。
幕府を挑発し、戦争を起こすことこそ、テロルの目的でした。
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