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西郷どん特集 幕末・維新

相楽総三と赤報隊は時代に散った徒花~西郷隆盛に見放された草莽の志士たち

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慶応3年(1867年)10月、江戸。
道行く屈強な浪人や若者に対し、やたらと因縁をふっかけている男がいた。

「なんだてめえは! 上等だ! こっち来やがれ!」

喧嘩っ早い江戸っ子である。売られた喧嘩を買わないはずがない。

するとそこへ別の男が割って入ってきて、こう迫るのである。
「まぁまぁ、ここは抑えて。どうだい、ゼニになる話があるんだ。三田の薩摩屋敷に来ないか」

いったい何者なのか?
維新前夜、一体彼らは江戸で何をしていたのか?

怪しげな一軍を率いる男の名は相楽総三(さがらそうぞう)

後に西郷隆盛のスケープゴートにされてしまう、まるで捨て駒のような青年であった――。

 

豪農生まれの教養あふれる青年

天保10年(1839年)、下総相馬郡(現在の茨城県取手市)。
地元の富豪・小島家四男として、後の相楽総三は誕生しました。

小島家は、旗本に金を貸す等して、大富豪とまで呼ばれるようになった家柄。
相楽の邸宅は下総にあるものの、自身は江戸の赤坂生まれです。
この家は、江戸と行き来をしていたのです。

日本が激動の時代へと向かう幕末、尊皇攘夷思想にふれたのは、武士だけではありません。
相楽のような、豪農の息子であっても学ぶ機会はありました。

関東の豪農といえば、土方歳三の出もそうです。

土方は相楽の4才年上にあたります。
余裕がある豪農という出身層は似通っていますが、土方が俳諧という趣味を学んだのに対して、相楽の場合は国学をはじめとする思想教育を受けたわけです。

相楽はのびのびと国学を学び、20才の頃には私塾を開き、門人200名を集めたほどでした。

 

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フリーランス草莽志士として活動

文久元年(1861年)、風雲急を告げる時代に、相楽は国のために尽くすことを誓いました。

「俺は草莽の志士として、この国のために運動をする!」

そう決めた相楽は父から大金をもらい、日本全国で同志を募ることにしました。
そして上野、下野、信濃、越後、出羽、秋田……東国を旅して回ったのです。

幕府にも、朝廷にも、藩士にも所属しない、無所属志士を集めたわけですね。

文久3年(1863年)には、桃井可堂(もものい かどう)率いる慷慨組(こうがいぐみ)による上野国赤城山挙兵を援助します。
桃井も、相楽同様豪農の出身で、草莽の志士でした。

しかしこの挙兵は失敗します。
江戸に戻った後は、翌元治元年(1864年)、水戸藩尊攘激派である天狗党の筑波山挙兵に加わるものの、藤田東湖の子・藤田小四郎と意見が合わず下山。
もしここで小四郎と意気投合しても、末路は破滅が待っていたことでしょう。

草莽の志士として活動をしているものの、どうにもうまくいかない……そんな時、相楽は転機を迎えます。

 

江戸、維新前夜のテロル

明治維新まであと少し――そんなとき、相楽はツテを頼り、3人の幕末キーパーソンと知り合いました。

・西郷隆盛
大久保利通
・乾退助(板垣退助)

「おぉ、すげえ、ビッグネームじゃん! 今までのとは違うし!」
そう浮かれてもおかしくはないですよね。

慶応2年(1866年)、上洛を果たした相楽は、西郷から密命を受けます。

そしてその翌年、慶応3年(1867年)10月。
相楽、薩摩藩士・益満休之助、伊牟田尚平は、西郷の命によりとある計画を実行に移すのでした。

相楽は、人脈をたどってヤクザ者らアウトローを500名ほど集めます。
軍資金は、父親を頼りました。
それまでは本名の小島四郎を名乗っていましたが、このころから相楽総三と名を変えました。

彼らが行ったのは、江戸での騒擾活動でした。

要するに、破壊工作であり、陽動作戦であり。
現代で言えばテロですね。

その中身は、ヒドいものでした。
血の気の多い江戸っ子に喧嘩をふっかける程度ならまだマシ。
放火、強盗、暴行、殺人……と、血腥い(ちなまぐさい)犯行のあとで、彼らは「薩摩藩の者じゃぁ!」と大胆不敵に名乗るのです。

神出鬼没のテロリストの暗躍に、江戸の人々はふるえあがり、幕府は怒りました。
しまいには、天璋院篤姫和宮がいる江戸城二の丸にまで放火されました。

「薩摩御用盗だ……」
「薩摩の奴らが、姫君(天璋院篤姫)をかっさらうために暴れてやがる……」

しまいには、佐土原藩(薩摩藩の支藩)の者が、江戸警護を担当している庄内藩邸に発砲しました。

幕府側も、ついに我慢の限界。
小栗忠順は、庄内藩士に命じて薩摩藩邸を焼き討ちにします。

この攻撃には、幕府を支援していたフランス軍のブリュネも参加していました。

ジュール・ブリュネ/Wikipediaより引用

【関連記事】ジュール・ブリュネ

この最中、相楽は脱出し京都へと向かいます。

幕府の怒りは頂点に達しており、もはや戦争は不可避。
これにて相楽はミッションコンプリートです。

幕府を挑発し、戦争を起こすことこそ、テロルの目的でした。

 

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「赤報隊」結成

京都に向かった相楽は、慶応4年(1868年)があけると、東征軍の結成を願い、建白書と嘆願書を朝廷太政官宛に出しました。
このとき、西郷隆盛と岩倉具視も支援していました。

「よかよか。がんばってこい」
「江戸でもおきばりやす。応援しとるから」
しかも、太政官からこんな勅定書までくだされているのです。

「今すぐ東へ向かい、天下万民を天皇に従わせるべく頑張ってきなさい。今までの戦いで、民も生活が苦しいでしょう。幕府統治の頃より、年貢を半減するとも伝えなさい」

ナルホド、税金半額にすると言われたら、皆浮かれて将軍家さようなら、天皇家万歳となりますよね。
これは、相楽の提案が受け入れられたものでした。

こうして赤報隊は、近江国愛知郡松尾山において結成されたのです。

一回の草莽の志士から、西軍の先鋒にまでのぼりつめた相楽。
喜びもひとしおであったことでしょう。

赤報隊は第一から第三まで、三隊に分かれて東へ向かいます。

ちなみに二番隊は、薩摩藩に庇護されていた新選組の伊東甲子太郎一派残党。
三番隊は、岩倉具視の意を受けた者たちでした。

 

「年貢半減」を掲げたけれど……

「年貢半減」を高らかに掲げ、進軍する赤報隊。
しかし、困ったことが起こりました。

鳥羽伏見の戦いで西軍は勝利をおさめたものの、軍資金が不足していたのです。

仕方なく、西軍としては豪商三井家(2015年朝の連続テレビ小説『あさが来た』ヒロインの実家モデル)らに頼み込みます。

「ええどす。そやけど、ただというわけにはいきまへん。年貢米の請負を、やらせてもらいまひょか。年貢半減令? そんな阿呆なことは、今すぐやめとくれやす」

この瞬間、相楽の運命は暗転しました。
商人の要求を呑むためには、年貢半減令を取り消すほかありません。

やむなく西軍は、赤報隊を呼び戻すことにし、二番隊、三番隊は無事引き返します。
しかし、一番隊は命令を無視しました。
どころか「年貢半減令」を掲げたまま、東海道をずんずんと進み、信州まで達したのです。

「年貢半減……」
「そんなことがほんとうにあるのか……」
その旗印を見た農民たちは、続々と隊に加わります。
貧しい者を救う隊が来たと彼らは喜びました。

これは西軍にとっては厄介なことです。
軍資金の件でも既に西軍は、貧民ではなく豪商と結びつきつつありました。
貧者救済よりも、うまみのある豪商との結びつきのほうが彼らにとっては歓迎すべきものでした。

のちに西郷隆盛も皮肉ることになる、明治政府と豪商の癒着は、既に始まっていたのです。

 

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「偽官軍」として非情の切り捨て

西軍は、信州の各藩に「赤報隊は偽官軍である」と布告を出しました。

相楽は慌てて大垣に戻り、総督府に出頭。
そのあと信濃国下諏訪まで戻ると、赤報隊の同志たちは殺害か、捕縛されていました。

相楽は同志釈放を願ったものの、逆に捕らわれてしまいます。
取り調べもなく、弁解の機会すら与えられませんでした。

冷たい雨が降り注ぐ、慶応4年3月3日(1868年3月26日)。
相楽は7人の同志とともに、斬首されたのでした。
享年30。

その3日後も隊員が処刑され、赤報隊は解散させられました。
相楽の妻・照は、夫の死を聞くと後を追い、自害。あとには、一子・河次郎が残されます。

明治3年(1870年)頃、相楽の処刑場所に、彼らを悼む「魁塚」が作られました。
この塚の土を持ち帰り、夜泣きが酷い子供の枕元に置くと、改善するという噂が流れたのです。

またこのころ、悪性の風邪が流行し、人々は相楽の怨念のせいだと言い「相楽風邪」と呼びました。
相楽の首を斬った者は、その数日後に急死したとも噂されていました。
信州の人々は、相楽は不遇の死を遂げた、そのため怨念を残したと信じていたのです。

孫・木村亀太郎の尽力により、相楽の名誉が回復されたのは、昭和3年(1928年)。
その死から実に60年後のことでした。

 

幕末という格差社会

幕末というのは、身分を超えて様々な人が活躍できた――そんな風に言われることがあります。

相楽同様、豪農の子として生まれた土方歳三は新選組副長に。
高杉晋作に心酔した豪商の白石正一郎は、奇兵隊幹部に。
土佐の漁師の子に過ぎなかった中濱万次郎(ジョン万次郎)は、幕臣に。

そして草莽の志士・相楽総三は、赤報隊を率いることになっているわけですが……。

共通点は、彼らが皆、切り捨てられているというところです。

土方歳三ら新選組は、江戸開場前夜、恭順派代表の勝海舟からこう思われてしまいます。

「あいつらが江戸をウロウロしていたら、抗戦派も調子づくし、恭順する気なんてねえと思われちまう。とっとと追い出さねえと」

そこで勝はうまいこと近藤勇ら新選組幹部を言いくるめます。
「おめえさんたち、これからは【甲陽鎮撫隊】になってくれ。幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえてくれよ」

こうして彼らは甲州勝沼に向かい、そして大敗。
その裏で、勝の命を受けて駿府に赴いた山岡鉄舟は、西郷とこんな会話を繰り広げておりました。

「元新選組が率いう甲陽鎮撫隊が、甲州勝沼で西軍と戦闘を繰い広げとうと聞きもした。これでは恭順しじぁとは思えんです」
「あれは脱走兵による勝手な行動で、幕府は関知していません」
ズバッと切り捨てられ、甲陽鎮撫隊は敗北。
新選組隊士たちは散り散りになり、それぞれの立場で戦うことになります。

白石は、奇兵隊援助のために私財を投げ打つワケですが、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、維新の立役者ながらも明治以降は省みられることもないまま、ひっそりと死を迎えました。
奇兵隊の隊士たちも、明治維新後は「脱隊騒動」という悲惨な粛清を受けています。

中浜は、再会したアメリカ人の友人が、「国のために尽くしたのに、なぜ彼はこんなに貧しい生活を送っているのか」と嘆かれたほど。
そして相楽は、この通りです……。

晩年は不遇だった万次郎/wikipediaより引用

【関連記事】ジョン万次郎

幕末というのは、確かに出世のチャンスにあふれていました。
西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文や井上馨のような、下級藩士でも実力次第では国のトップにまでのしあがっているわけです。

ただし、それはあくまで武士であり、藩士であれば、のお話。
武士でないのに活躍した人物は、大抵が酷い切り捨てにあっています。

幕末維新の優れた人々は、先進的で身分の差にこだわらなかった――確かにそういう一面もありましたが、武士には武士としての誇りがあり、それ以外を一段下とみなして冷遇した、そういう冷たい部分もあるのです。

相楽総三の人生には、そんな冷たさが凝縮されているように思えるのです。

彼らは幕末という格差社会において、非情にも切り捨てられたスケープゴートでした。

文:小檜山青




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【参考文献】
国史大辞典
幕末維新人物事典』泉秀樹
幕末史』半藤一利

 




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