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松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

松平慶永(松平春嶽)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!

更新日:

大河ドラマ『西郷どん』で、橋本左内が政局を語る上で、西郷隆盛にこう断言していました。

「幕府は無能」

確かにそんなイメージはあります。
のたのたと決断できず、外国にいいようにされる幕府。
一方で、若々しい維新を目指す志士たちは、有能であった――。

と、これについては一度、冷静に考えてみたいところです。

実は倒幕側から言われているほど、当時の幕府が無能であったとは思えません。
政治家としてはあまりよい印象を持たれていない井伊直弼や、堀田正睦も、藩主時代の実績は素晴らしいものがあり、いわゆる名君でした。

それほどの実績や光るものがなければ、多難な政局においては頭角を現すことすらできなかったわけです。
全国の名君選手権を突破して、中央政治に乗り込んできたようなものです。

幕末において名を残す殿様や幕臣は、ほとんどが優秀です。
ましてや以下の「幕末の四賢侯」ともなれば、スーパー名君と呼んでよいほどです。

・福井藩第14代藩主 松平慶永(春嶽)
・土佐藩第15代藩主 山内豊信(容堂)
・薩摩藩第11代藩主 島津斉彬
・宇和島藩第8代藩主 伊達宗城

では一体、彼らがどれほど優れているのか?
今回は、その一人である、松平春嶽(本稿はこの名で統一)について取り上げたいと思います。

 

民からは春嶽さんと慕われて

以前、福井県の出身の方から
「うちの祖母は、“春嶽さん”って呼んでいました」
と聞いたことがあります。

民から見てもそう親しみをこめて呼びたくなるほど、彼は立派な殿様だったのでしょう。

ただ……幕末のフィクション作品から考えますと、
【途中でフェードアウトするビッグネーム】
【倒幕派から見ると佐幕派に見えて、佐幕派から見ると裏切り者に見える】
という、なかなか扱いが難しい、つかみどころのない人物でもあります。

幕末ファンなら名前は知っているでしょう。

しかし、どういう軌跡だったのか、維新の後は何をしていたか?
となると、実はよくわからない……という人も多いのではないでしょうか。

その通り、なかなか難しい立場にいた人物なのです。

 

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聡明な少年藩主

松平春嶽は文政11年(1828年)田安徳川家三代目当主・斉匡の八男として生まれました。
第13代将軍・徳川家慶の従弟にあたりまして。江戸での生誕になります。

春嶽は、幕府からの命を受け、福井藩第15代藩主・松平斉善の養子に入りました。

錦之丞と呼ばれた幼いころから、その聡明ぶりを発揮。
読書好きで、勉学に励むことを常としていたのです。
勉強熱心なあまり、大量の紙を消費するため、父親は彼を「羊」と呼んだほどでした。

そして天保9年(1838年)、春嶽は福井藩6代目藩主となりました。

江戸にいたころから春嶽は、藩の苦しい財政を理解していました。
というか幕末は、藩の規模を問わず、ほぼ、どこの藩でも財政的に苦しい状況です。

福井藩でも、度重なる飢饉のため民衆の打ち壊しや一揆が相次いでおり、御用金をとりやめていたほど。
藩財政は、幕府や商人からの借金でまかなうような状況であり、実質、破綻しているようなものでした。
一時の薩摩よりはマシ、というぐらいでしょうか。

【関連記事】財政赤字でカツカツだった薩摩藩

この状況を受け、春嶽は、自ら率先して倹約に取り組むことを決意しました。

藩主就任の翌年に、藩主手許金を1000両から500両に減額。
その一環として、食事は常に一汁一菜以下と定めます。

まだ10代はじめの育ち盛りであるにも関わらず、副食物は漬け物や汁物一品のみで済ませる――そんな若き藩主の姿を見て、側近である中根雪江ら家臣たちは、心の底から感激しました。

必ずや、この若き英主をしっかりと育てあげねばならない。
そう決意した家臣たちのよる教育が、政務と平行して続けられました。

春嶽は耳に痛い諫言もよく聞く、立派な藩主として成長していったのです。

 

若き名君の入国

春嶽16才の年、いよいよ江戸から福井に入国しました。

入国前、春嶽は水戸藩邸をたずね、28才年上の徳川斉昭に藩主としての心得を尋ねます。
その熱心な姿に感動したのか。
斉昭は、九箇条の心得を春嶽に伝えます。

こうして準備万端、福井にやってきた春嶽。
若き藩主の入国に、家臣や領民も期待が高まったことでしょう。

入国した春嶽は、領内を熱心に視察して回ります。
ある村で、彼は70を過ぎた老婆にこう尋ねました。

「そなたは日頃、食事は何を口にしているのか」
「菜雑炊と稗団子でございます」

家臣と共に、いざその稗団子を口にしてみると、あまりの不味さにとても喉を通るようなものではありません。
領民の苦難に直に触れ、春嶽は何としても改革に取り組まねばならないと、強く心に誓います。

領内視察では、領民の生活以外にも見て回ったものがあります。

海岸線の防備です。

異国船の脅威が近づく中、どうすれば防衛できるのか。
それも、取り組むべき課題でした。

江戸後期のお殿様は大変です。
破綻した財政の立て直しだけではなく、海防や西洋からの文物・技術流入にも対応しなければならないのですから。

若き春嶽の前にも、課題は山積みでした。

 

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断固たる藩政改革

若き藩主・春嶽は、断固たる藩政改革に取り組みます。

まずは先代から藩政にあたっていた家老・松平主馬を辞任させ、山県三郎兵衛に交替。
側近・中根雪江の意見に従ったものでした。

これを皮切りに行ったのは、保守派から革新派への人事入れ替えでした。

改革を阻む旧き者たちを退かせると同時に、鈴木主税、村田氏寿、三岡八郎(のちの由利公正)ら気鋭の人材を発掘し、取り立てる。
米沢藩の名君・上杉鷹山を彷彿させる手腕です。

上杉鷹山/Wikipediaより引用

鷹山と重なる行動は、自ら率先した厳しい倹約にも現れました。

弘化4年(1847年)、供回りを限界にまで減らしてコストを削減し、木綿の質素な着物で歩く春嶽。
その姿は話題となり、贅沢を戒める殿様も増えたのだとか。

実際の中身を見ていきますと、これが単なるコストカットだけじゃないところに彼の真髄が見られます。

◆兵備増強&兵制刷新:西洋式砲術や兵制を取り入れ、野戦砲、洋式銃の製造に着手
◆種痘法導入&種痘館設立:19世紀初頭にイギリスで確立された種痘は、幕末には日本に伝わっており、進歩的な人々はその普及に尽力していました。春嶽は医師・笠原白翁の進言を受け、種痘法の導入を決定しました
殖産興業策の振興&藩専売制の廃止:藩による専売制度とは、生産者から藩が生産物を一括して買い上げるものでした。藩と大手商人にとってはうまみのある制度ですが、生産者にとっては買い叩かれるばかりで損ばかりする仕組みでした。そのため江戸時代中期以降、各地の藩で廃止。福井藩でも一揆の一因となっていました。春嶽はこの弊害を取り除くため、廃止したのです
◆藩校「明道館」創設&教学刷新:福井県立藤島高等学校の前身。詳細は後述

確かに素晴らしい、名君の名にふさわしい業績の数々です。

【参考】歴Navi ふくい 笠原白翁

 

横井小楠、橋本左内ら俊才を登用

ここで春嶽の言葉を引用させていただきます。

「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」
(私に才能はなく、優れたアイデアもないのです。ただ、皆の意見を聞き、よいと思ったことに従ったまでのことです)

随分と謙遜のように見えますが、実際、彼は人の意見をよく聞きました。
それだけに周囲では、恐れず意見を述べる優れた人材が出現します。

例えば、熊本藩出身の儒学者・横井小楠は、春嶽のブレーンとして活躍することになります。

横井小楠/wikipediaより引用

春嶽の取り組んだ藩政改革の目玉に、藩校「明道館」の創設があります。

水戸藩の「弘道館」を手本としつつ開校にこぎ着けながら、創設に尽力した鈴木主税が、安政3年(1856年)に逝去。
春嶽と家臣は悩み、話し合った末、若き俊才・橋本左内を起用することにしました。

当時の橋本は、まだ10代半ばです。思い切った春嶽の人材登用センスが光ります。

蘭学に通暁した橋本は「明道館」のカリキュラム制定に大きな影響力を発揮しました。
全国各地において、藩校創設は宝暦期(18世紀半ば)から盛んになっており、「明道館」は創設が遅い部類に入ります。

それがかえって幸いし、当時最先端となる蘭学を取り入れることができたのです。
享和3年(1803年)に創設され、全国的にも有名であった会津藩校「日新館」では、蘭学を学ぶことすら出来なかったことと比較すると、その先進性がわかります。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

【関連記事】会津藩校・日新館ってどんなトコ?

 

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黒船来航、幕政へ

嘉永6年(1853年)。
ついにXデーがやって来ました。ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来港したのです。

ついに訪れてしまった、この運命の日。
老中・阿部正弘は、それまでのしきたりを無視して、身分を問わずに広く意見を求めました。
一部の藩を除いて、全国各地の藩主から意見が阿部の元に届けられたのです。

しかしその大半は、こんな感じでした。

「なるべく引き伸ばして、時間稼ぎしたらいかがでしょう」
「こうなったら、ある程度妥協しないといけないんじゃないですかねえ」

そりゃそれが出来たら苦労はせんわ、という感じで、おそらく即座にボツ。
一方で、勝海舟のような、現実的で広い知識に基づいた意見も出てきまして、実際に採用される人もいたわけです。

勝海舟/wikipediaより引用

では、福井藩の松平春嶽はどうでしょうか。

今までの流れからしてこれが意外かもしれませんが【強硬な攘夷論であり、開国はもってのほか!】という主張でした。

ところが、それで終わらないのが、春嶽の春嶽たる所以でしょう。
横井小楠を含めた家臣らと話し合い、自らも『海国図志』で学ぶうちに「開国貿易論」へと転換してゆくのです。

 

一橋派の挫折

この未曾有の国難をどう乗り切るか。
春嶽と彼のブレーンたちは、優秀な人材をまとめあげ、国を良い方向へと導こう、という意見に収束しました。

彼らがまとめた国の組織は、こうなります。

将軍:一橋慶喜
国内事務宰相:松平春嶽・島津斉彬・徳川斉昭
外国事務宰相:鍋島閑叟
その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

こうなると
「まずは一橋慶喜を将軍にしよう!」
というところから始まるわけで。
島津斉彬や西郷隆盛も関連した【将軍継嗣問題】が起こるのは、こうした動きが背景にあったわけですね。

かくして一橋慶喜を将軍として擁立すべく動き始めた一橋派。
その一手として、薩摩藩主・島津斉彬は養女・篤姫徳川家定の御台所として輿入れさせます。
篤姫を通して、大奥対策を行うこととしたのです。

一方、彼らを警戒して快く思わなかった人物がいます。
急死した阿部正弘の後任者である大老・井伊直弼です。

彼には彼なりの言い分があります。
「一致団結して国難に立ち向かうべき局面なのに、自分たちに有利になるよう勝手に政治的な工作して、一体何を考えているのか。水戸斉昭の息子なんか将軍にしたら、揉めるだけ揉めてロクなことにならんぞ」

井伊直弼/wikipediaより引用

【関連記事】井伊直弼46年の生涯をスッキリ解説!

将軍継嗣問題は一般的に【一橋派VS南紀派】とされます。
それはそれで間違っていませんが、その内実は、
【一橋派VS一橋だけはありない派】
とみなした方がよいかもしれません。

一橋慶喜本人は頭脳明晰で、徳川慶福(のちの家茂)よりも年長でありました。
国難に向かうなら、やはり慶喜を立てた方が合理的でもあります。

しかし問題は別のところにありまして。
彼の父である徳川斉昭が、ありとあらゆる方面で敵を作るトラブルメーカーだったのです。
※実はこの父親の困った性格は、慶喜にも受け継がれておりまして。のちに春嶽もさんざん悩まされることになります

斉昭は、春嶽や島津斉彬のように柔軟性を発揮するわけでもなく、強硬な攘夷を主張。
井伊直弼や堀田正睦と真っ向から対立しておりました。

一橋慶喜を将軍にしたら、セットで父親の斉昭がついて来ます。
そんなことになったらまとまるはずの幕政が分裂したまま、無謀な攘夷をやる羽目になるかもしれない。
それでかえって国体を傷つけたらどうするの? 責任取れるの? と、井伊直弼も考えたのですね。

徳川斉昭/wikipediaより引用

要するに一橋派は人選ミスだったわけで……。

井伊は「一橋派」を徹底的に弾圧し、徳川慶福を継嗣として指名しました。
春嶽はじめ一橋派は抵抗したものの、このときには既に斉彬も阿部も亡くなっており、敗退してしまったのです。

ちなみに、ご存知の通りこの数年後には慶喜が徳川15代将軍になります。
春嶽と一橋派に属していた斉彬の弟・島津久光は、慶喜の問題ある性格に散々悩まされます。
致命的な人選ミスをしていた――と春嶽が考えたかどうかは不明です……。

 

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敗退に納得いかない徳川斉昭が動き

こうした動きと前後して、一橋派の徳川斉昭が大変なことをやらかしました。

井伊直弼は、堀田正睦らを京都に派遣、日米修好通商条約の勅許を得ようとしていました。
ここで幕政から閉め出された恨みとして、堀田に何とかリベンジしたい斉昭は、自らの姻戚関係を利用して、朝廷工作を行うのです。

結果、堀田は勅許を得られないまま、江戸に戻る羽目に。
井伊が勅許なしで強引に条約調印したのは、こうした斉昭による妨害も一因であったのです。

さらに斉昭は、公卿を動かして「戊午の密勅」まで水戸藩に降させてしまいました。
【倒幕の要求】すら含む大変危険なシロモノで、これを知った井伊の怒りは頂点に達します。

井伊からすれば、皆で力を合わせるべき難局です。
それを一橋派がグチャグチャにしているように思えても仕方のないところ。

怒りに燃える井伊は「安政の大獄」で一橋派を弾圧。
斉昭・斉彬とともに一橋派であった春嶽も謹慎処分を受けました。

大名であった春嶽は処刑されなかったものの、彼を支えてきた若き天才・橋本左内は、斬首となるのです(享年26)。

その報復を受けて、井伊自身も凶刃に斃れてしまいました(「桜田門外の変」)。

桜田門外の変を描いた 月岡芳年の錦絵/wikipediaより引用

【関連記事】
橋本左内
安政の大獄
桜田門外の変

 

謹慎からの返り咲き

一橋派の藩主のうち、斉昭と斉彬は急死。
最年少の春嶽だけが生き残りました。

春嶽は、支藩である糸魚川藩主松平直廉(茂昭)に家督を譲り、自身は江戸・霊岸邸での蟄居を余儀なくされます。

彼の生活は、大変厳しいものとなり、社会からも隔絶されました。
文通・面接は一切禁止。
外出は、健康を保つため許可された散歩のみです。

やがて処分が緩和されると、横井小楠と国事について語ることができました。

そんな謹慎処分を終えるきっかけとなったのが、文久2年(1862年)、島津久光の京都出兵です。

島津久光/wikipediaより引用

一橋派の一角を担った島津斉昭の異母弟であり、薩摩藩主の父である久光は、上洛により政治的な圧力を仕掛けました。
久光は、勅使を派遣して幕政改革を迫ってきたのです。

この要求により、春嶽の処分も解かれました。
実に5年ぶりに、彼は幕政に復帰することとなったのです。かつての一橋派の完全復活です。

この幕政改革により、一橋慶喜が将軍後見職、春嶽は政事総裁職に任命。
かつて抱いていた政治構想が復活したわけです。

春嶽は早速、横井小楠をブレーンとして幕政改革に取り組みます。

・海軍力増強(責任者は勝海舟)
参勤交代制度の緩和
・諸藩の意見を幕政に取り入れ、反映させる

勝の登用には春嶽も関わっていたのですね。
こうした取り組みは一定の成果を見せますが、同時に新たな問題が持ち上がってきました。

京都の攘夷派です。

 

春嶽と慶喜は会津藩に酷いことをしたよね……

このころ、京都は恐ろしいことになっていました。
水戸斉昭が朝廷を政治に引きずり込んで以来、「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れていたのです。

長州藩や土佐藩といった諸国から、ともかく何が何でも攘夷を断行すべきだという過激派が集結。
一触即発の事態に陥っておりました。

彼らは来日外国人だけではなく、開国して富国強兵を目指す幕府にも敵意を向けています。
このとんでもない状態の京都を何とかすべく、島津久光は幕政改革の一環として「京都守護職」の設置を求めます。

京都守護は、井伊直孝(徳川四天王・井伊直政の跡継ぎ)以来、本来は井伊家が担当しておりました。
しかし、井伊直弼が暗殺された彦根藩には、そんなことをできるだけの力はありません。

そこで春嶽と慶喜は、こう考えました。
「会津藩の松平容保は生真面目だし、あの藩は幕府の言うことならば断れないだろう」

松平容保/wikipediaより引用

春嶽らは、容保を呼び出しました。
病弱な容保はこのときも臥せっており、家老を代わりに登城させました。
そして用件を聞いた容保は、ますます病が悪化したことでしょう。

会津藩は、蝦夷・樺太、江戸湾、房総の警備に駆り出されており、財政難に苦しんでいました。
そもそも海のない東北の藩では、財政改革にしても限られており、金に余裕などあるわけがありません。

しかも、会津藩士は全体的に生真面目で、純朴でした。
才略に長けた公卿や、西南諸藩の武士とやりあうことなど、不得手としていたのです。

それは、京都住民からの反応からも見て取れます。

幕末の京都で、会津藩士は人気がありませんでした。
粗野で扱いづらい――ということではなく、彼らがあまりにも生真面目で、パーッと遊ぶこともなかったため、
「金を落とすわけでもあらへん、つまらん田舎者やわ」
と思われてしまったのです。

そもそも、会津と京都は遠い。移動するだけでも大変なことです。
こんな役目を絶対に引き受けてはいけないと、容保もわかっていました。

容保は顔面蒼白になって断ります。

しかし、春嶽と慶喜はしつこく、手練手管を尽くして説得にかかります。
生真面目が取り柄の容保としては、外堀を埋められるようにして追い詰められていきます。

さらに、とどめの一撃として会津藩の「家訓(かきん)」を持ち出されたのです。

「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
(徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない)

この家訓を制定したのは、江戸期の名君として名高い保科正之でした。
日陰の身にあった自分を取り立てた徳川家光への、忠義の心があらわれています。

保科正之/wikipediaより引用

この家訓を持ち出されては、容保はもうどうしようもありません。

国元から家老の田中土佐と西郷頼母が駆けつけ、
「火中の栗を拾うようなものでごぜえます!」
と諫言しましたが、もはや手遅れ。

こうして、会津藩は幕末の政局において、地獄への道を歩む羽目になるのです。

【関連記事】松平容保とは? 会津藩祖・保科正之の教訓に縛られた悲劇の血筋

 

「政令帰一論」の挫折

松平容保だけではなく、春嶽自身も上洛しました。
ただし、攘夷派にマークされ暗殺される危険性があったため、横井小楠はやむなく江戸に置いてきました。

春嶽が足を踏み入れた京都は、もはやカオスと化していました。

公武合体策は、井伊直弼が既に計画していたもので、徳川家茂和宮孝明天皇の異母妹)の結婚という形で、ある程度成功をおさめていました。
何よりも孝明天皇自身が、義弟となった徳川家茂、京都守護職・松平容保を信頼しており、公武合体策に賛成していたのです。

ところが、いったん倒幕に傾いた過激な尊王攘夷派と公卿にとって、「公武合体」は受け入れられないことでした。

攘夷せよ!の一点で迫ってくる過激派。
公武一体どころか、国の指揮系統が「幕府」と「朝廷(その実態は過激派尊王攘夷派)」に分裂してしまったのです。

このへんの動きが、幕末をややこしくしている一因でありまして。
しばし、御説明させていたただきます。

朝廷から幕府への委任を得るか?
あるいは幕府が政権を手放すか?
政令が出されるのは、一カ所でなければならないと、春嶽は主張します(「政令帰一論」)。

が、この主張は受け入れられません。

深い挫折感を味わった春嶽は、上洛してきた家茂に向かってこう直言します。

「私の不徳の為すところではありますが、もはやこの情勢は道理の通る状態ではありません。私は辞職します。将軍も、退位すべきかと思います」

こんな発言をしたらただで済むわけもなく、春嶽は老中・水野忠精から「逼塞(ひっそく)」処分を言い渡されることとなるのでした。

文久3年(1863年)、過激派の暗躍に危機感を抱いた孝明天皇とその側近が薩摩藩・会津藩に呼びかけ、長州藩および過激派公卿は京都から追い払われます(「八月十八日の政変」)。

孝明天皇/wikipediaより引用

この事件の少し前、福井藩にも動きがありました。
横井小楠らは、藩をあげて上洛すべきだと考えていたのです。

しかし尊王攘夷派が妨害したこと、春嶽が横井の急進性について行けないことが重なり、この上洛は実行に移されません。

それまで協力してきた春嶽と横井は、意見が相違するようになっていったのです。
もしも島津久光のように、反対派もものともせずに福井藩が上洛していたら、幕末の情勢は変わっていたかもしれません。

しかし、現実にはそうはならなかったのでした。

 

「参預会議」の崩壊

危険極まりない長州藩過激派を追い払われた京都では、有力藩主およびそれに準じたメンバーによる、合議政治が行われることになりました(「参預会議」)。
参預は以下の通りです。

徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)
・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)
・伊達宗城(宇和島藩前藩主)
・松平容保(会津藩主、京都守護職)
・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)
・長岡護美(追任、熊本藩執政。藩主斉護の子)
・黒田慶賛(追任、福岡藩世子)

ビッグネームがずらりと並び、当時の主たるメンバーが一堂に会したような印象ですよね。
ところが、この会議が機能しません。

慶喜は露骨に幕府権力を強化しようとしますし、参預の中にも自分の発言力を強化しようと躍起になる者もおりまして。
一致団結してよりよい政治を目指そうとするどころか、自分の権限を強化しようと牽制し合う、パワーゲームの場と化したのです。

参預会議が決定的に破綻したのは、中川宮邸(久邇宮朝彦親王)での会議でした。

議題は「横浜鎖港問題」です。
これは、攘夷を行いたい孝明天皇の意に沿うために議題にのぼったものでして。
参預諸侯は、そんなことは不可能だとして開港継続を支持していました。

しかし、慶喜は諸侯牽制のためだけに、不可能であると理解しながらも、閉鎖を支持したのです。

この日の会議でしこたま酒を飲んだ慶喜は、宮をにらみ付け、春嶽、久光、宗城を指さしながらこう言いました。

「この三人は天下の大馬鹿者、天下の大悪人ですぞ。将軍後見職である私と一緒にしないでいただきたい」

徳川慶喜/wikipediaより引用

慶喜の態度に、久光の中で慶喜への強い嫌悪感が刻まれました。
そして参預会議は決裂、ものの数ヶ月で崩壊したのです。

幕府にとって懸案であった長州藩の征討も、不発に終わります。
高杉晋作の奮闘といった要素もありましたが、それ以上に大きいのは征討の主担当である薩摩藩・西郷隆盛が水面下でサボタージュをしていたからでした。

徳川家茂はこの討伐で揉めている最中に急死。

このころ福井藩ではイギリス式の兵学を導入し、南北戦争が終わって武器の余っていたアメリカから、買い付けを行うようになりました。

 

「幕府反正の望みは絶え果てたり」

慶応2年(1866年)、家茂の跡を継いでついに慶喜が将軍となりました。
一橋派の宿願が、8年後に叶ったとも言えるわけですが、あのころとは政治状況がまったく変わっています。

兄・斉彬の遺志を継いで徳川慶喜を支持していた島津久光は、彼に対してすっかり幻滅。
おまけに、公武合体策を積極的に支持していた孝明天皇が急に崩御してしまいます。

薩摩藩の小松帯刀らは、長州藩に接近。
朝敵としての認定を取り消すべく、活動しています。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

潮目は劇的に変わりつつありました。

そして慶応3年(1867年)、慶喜と4人のメンバーによる会議「四侯会議」が開かれます。
短期間で崩壊した「参預会議」から、メンバーを少なくしただけという印象ですが、四侯とは以下の通りです。

・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)
・伊達宗城(宇和島藩前藩主)
・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)

今度は、斉彬が久光に代わっての、いわゆる「幕末の四賢侯」ですね。

「参預会議」で慶喜に幻滅していた久光は、彼に対して不信感を抱いていました。
案の定、慶喜と久光は対立し、春嶽はそれを宥めるだけで精一杯。
慶喜は得意の弁舌で久光をやり込め、イニシアチブを取りました。

久光は、もはや幕府はこれまでである、と見限りました。そして、武力倒幕に舵を切ることになります。
春嶽は、もはやこれまでと悟りました。

「幕府反正の望みは絶え果てたり」
彼は福井へ戻ることにしたのです。

※反正……以前の正しい状態に戻すこと

 

大政奉還後の混乱

春嶽が失意の中、福井に戻った後、京都ではさらなる動きがありました。

「大政奉還」です。

これを受け、横井小楠は急ぎ上洛し、新政権の補佐として参加すべきだと、春嶽に建白しました。
春嶽も同感でした。

土佐藩士の坂本竜馬も、福井に入りました。
坂本は文久3年(1863年)に、一度福井に来ていたことがあり、今回が二度目。
由利と意気投合し、旅館「たばこや」で今後の日本について話し合いました。

坂本は、既に天下の形勢は決まっていると告げます。
ただ、新政府は人材が不足していて、福井藩の財政再建に携わった由利の手腕を発揮して欲しいと、頼んで来たのです。

実際、明治維新のあと、由利は坂本の推挙により、財政を担うことになります。

意気投合した二人が別れた際、由利は坂本の肖像写真を本人から貰いました。
その後、由利はその写真を落としてしまい、何か不吉な予感がしたそうです。

写真を落とした二日後、由利は坂本の訃報を知ることになるのでした。

由利公正/wikipediaより引用

春嶽は土佐藩をどこまで信じられるかは半信半疑でしたが、上洛することにします。
そして、さらに混沌とした状況の京都で苦難を味わうことになります。

王政復古後の小御所会議では、慶喜に厳しい処分がくだされました。
これは慶喜にとって誤算です。
彼の胸の内では、大政奉還しても朝廷に政治力はなく、結局は自分の再登板があるはずだとにらんでいたのです。

しかし、大久保利通岩倉具視らが主導した強硬派は、その甘い望みは打ち砕いてしまったのでした。

この処分に納得できないのは、会津・桑名藩の面々です。
薩摩の謀略だと激怒した彼らは、天皇をたぶらかす奸臣薩摩を取り除け!といきり立つのです。

春嶽は、こうした火薬庫状態の情勢を何とか宥めようとしました。

が、一方で、その状況に強い不満を抱いている者がいました。
何としても倒幕戦争を起こしたい、西郷隆盛です。

なかなか戦端が開かれないことに苛立った西郷は、挑発することにします。
薩摩藩士・益満休之助や、草莽の志士・相楽総三らを江戸に送り込み、テロ事件を起こさせたのでした。

「薩摩御用盗」と呼ばれた彼らの狼藉は、とても見逃せるものではありません。
江戸警護を担当していた庄内藩率いる新徴組は、薩摩藩邸を焼き討ち。
春嶽の調停も虚しく、日本全土に戦火が広がってゆくことになるのです。

新政府側についた春嶽は、慶喜に絶対服従を勧めながら、徳川家救解に尽力することになります。
そんな中で、由利公正は、「五箇条の御誓文」の草案を作成しています。

それにしても春嶽は、調停に回ってばかりのように見えませんか?
当時の人も、そう思っていたようで、こんな狂歌が詠まれました。

「春嶽と 按摩のような 名をつけて 上をもんだり 下をもんだり」
【ま~た春嶽が調停しているよ、いろいろな人をなだめて大変だねえ】と皮肉られたわけです。

しかも春嶽および福井藩のこうした態度は、どちらにも調子がいい奴だ、と倒幕派からも佐幕派からも「お前は一体どっちの味方なんだよ?」と胡乱(うろん・怪しまれること)な目で見られていました。

会津藩からは、京都守護職を押しつけた上に、戊辰戦争でも会津藩の厳しい処分を主張したため、かなり厳しい目で見られることになります。

 

明治維新のあとも調停役として振り回される

維新後の春嶽は、政府入りしておりました。

明治2年(1869年)に民部卿・大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍読となりました。
春嶽は、学制改革に取り組むことになります。

しかし明治維新のあと、皆さんにも『またかよ』と思われるかもしれませんが、春嶽は調停に乗り出さねばなりません。

彼が宥めようとしたのは、大学における
【国学VS儒学】
【行政官VS教官】
の調停でした。

しかしこの調停は不調で、疲れ切った春嶽は明治3年(1870年)、一切の官職を辞することになります。
以後、春嶽は政界へと戻ることはありませんでした。

引退して文筆生活に入った春嶽は、
『逸事史補』
『幕儀参考』
等を執筆。
伊達宗城らとともに『徳川礼典録』の編纂にも取り組みました。

そして明治23年(1890年)に死去。享年63でした。

 

旧福井藩士の前にたちふさがった、藩閥の壁

春嶽とともに藩政改革に尽くした彼のブレーンたちはどうなったのでしょう。

彼らは、明治新政府から弾き出されてしまいました。
藩閥という壁が立ち塞がったのです。

弾き出された程度であればまだマシで、横井小楠は明治2年(1869年)、攘夷派によって暗殺されております。

明治維新は、ありとあらゆる身分の人が、実力に応じて活躍できる時代になった、と言われております。
本当にそうであったかは、慎重に考えた方がよいでしょう。
身分や家格を無視して実力本位で登用していたのであれば、阿部正弘時代の幕府の方がマシかもしれません。

明治新政府でものを言うのは、やはり藩閥です。
薩摩や長州出身であれば、実務能力に疑問符がつくような者でも、要職につくことができました。

これは政府だけではなく富岡製糸場の女工のような場合でもそうで、長州出身の女工はいきなり好待遇で雇用されるようなことが起こっていたのです。
反対に佐幕藩出身者は、差別の対象となりました。

明治とは、山川健次郎のような会津藩出身者でも出世できた時代と言われたりしますが、そんなことはありません。
山川の場合は国から留学費用を打ち切られ、親切なアメリカ人に学費を出してもらえて、なんとか学業を終えています。

明治新政府が寛大であったというよりも、彼は彼自身の運と実力と熱意によって大成したのです。
明治政府が寛大であったかどうかは、別問題です。

実際、福井藩は人材の宝庫であったにも関わらず、藩閥から弾き出されました。

幕末から明治にかけての福井藩は印象が薄いのですが、それは実力がなかった以上に、藩閥として弾かれたことが大きいのでしょう。
もったいないことです。
もしも橋本左内が「安政の大獄」で処刑されなかったとしても、藩閥の明治新政府で活躍できたかどうかは怪しいものです。

春嶽自身も、彼のブレーンたちも、実力はあるにも関わらず、複雑怪奇な幕末の政治情勢に振り回され、実力を十二分に発揮できなかった印象があります。

日頃の試合では無類の強さを見せるのに、肝心のオリンピックで勝てない選手のような、勝負弱さとでも申しましょうか。

そうはいっても井伊直弼、堀田正睦と同じく、松平春嶽が当時トップクラスの政治家であり、人格的にも優れていたことは、確かなこと。
“春嶽さん”と慕われるのも頷けるのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『幕末維新と松平春嶽』三上一夫
国史大辞典

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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