松平春嶽(松平慶永)

松平春嶽(慶永)/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末のドタバタで調停調停に追われた松平春嶽(松平慶永)の生涯63年

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大政奉還後の混乱

春嶽が失意の中、福井に戻った後、京都ではさらなる動きがありました。

大政奉還」です。

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これを受け、横井小楠は急ぎ上洛し、新政権の補佐として参加すべきだと、春嶽に建白しました。

春嶽も同感でした。

土佐藩士の坂本竜馬も、福井に入りました。

坂本は文久3年(1863年)に、一度福井に来ていたことがあり、今回が二度目。

由利公正と意気投合し、旅館「たばこや」で今後の日本について話し合いました。

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坂本は、既に天下の形勢は決まっていると告げます。

ただ、新政府は人材が不足していて、福井藩の財政再建に携わった由利の手腕を発揮して欲しいと、頼んで来たのです。

実際、明治維新のあと、由利は坂本の推挙により、財政を担うことになります。

意気投合した二人が別れた際、由利は坂本の肖像写真を本人から貰いました。その後、由利はその写真を落としてしまい、何か不吉な予感がしたそうです。

写真を落とした二日後、由利は坂本の訃報を知ることになるのでした。

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春嶽は土佐藩をどこまで信じられるかは半信半疑でしたが、上洛することにします。

そして、さらに混沌とした状況の京都で苦難を味わうことになります。

王政復古後の小御所会議では、慶喜に厳しい処分がくだされました。

これは慶喜にとって誤算です。彼の胸の内では、大政奉還しても朝廷に政治力はなく、結局は自分の再登板があるはずだとにらんでいたのです。

しかし、大久保利通岩倉具視らが主導した強硬派は、その甘い望みは打ち砕いてしまったのでした。

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この処分に納得できないのは、会津・桑名藩の面々です。

薩摩の謀略だと激怒した彼らは、天皇をたぶらかす奸臣薩摩を取り除け!といきり立つのです。

春嶽は、こうした火薬庫状態の情勢を何とか宥めようとしました。

が、一方で、その状況に強い不満を抱いている者がいました。

何としても倒幕戦争を起こしたい、西郷隆盛です。

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なかなか戦端が開かれないことに苛立った西郷は、挑発することにします。

薩摩藩士・益満休之助や、草莽の志士相楽総三らを江戸に送り込み、テロ事件を起こさせたのでした。

「薩摩御用盗」と呼ばれた彼らの狼藉は、とても見逃せるものではありません。

江戸警護を担当していた庄内藩率いる新徴組は、薩摩藩邸を焼き討ち。春嶽の調停も虚しく、日本全土に戦火が広がってゆくことになるのです。

新政府側についた春嶽は、慶喜に絶対服従を勧めながら、徳川家救解に尽力することになります。

そんな中で、由利公正は、「五箇条の御誓文」の草案を作成しています。

それにしても春嶽は、調停に回ってばかりのように見えませんか?

当時の人も、そう思っていたようで、こんな狂歌が詠まれました。

「春嶽と 按摩のような 名をつけて 上をもんだり 下をもんだり」

【ま~た春嶽が調停しているよ、いろいろな人をなだめて大変だねえ】と皮肉られたわけです。

しかも春嶽および福井藩のこうした態度は、どちらにも調子がいい奴だ、と倒幕派からも佐幕派からも「お前は一体どっちの味方なんだよ?」と胡乱(うろん・怪しまれること)な目で見られていました。

会津藩からは、京都守護職を押しつけた上に、戊辰戦争でも会津藩の厳しい処分を主張したため、かなり厳しい目で見られることになります。

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明治維新のあとも調停役として振り回される

維新後の春嶽は、政府入りしておりました。

明治2年(1869年)に民部卿・大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍読となりました。

春嶽は、学制改革に取り組むことになります。

しかし明治維新のあと、皆さんにも『またかよ』と思われるかもしれませんが、春嶽は調停に乗り出さねばなりません。

彼が宥めようとしたのは、大学における

【国学vs儒学】

【行政官vs教官】

の調停でした。

しかしこの調停は不調で、疲れ切った春嶽は明治3年(1870年)、一切の官職を辞することになります。

以後、春嶽は政界へと戻ることはありませんでした。

引退して文筆生活に入った春嶽は、

『逸事史補』
『幕儀参考』

等を執筆。

伊達宗城らとともに『徳川礼典録』の編纂にも取り組みました。

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そして明治23年(1890年)に死去。

享年63でした。

 

旧福井藩士の前にたちふさがった、藩閥の壁

春嶽とともに藩政改革に尽くした彼のブレーンたちはどうなったのでしょう。

彼らは、明治新政府から弾き出されてしまいました。

藩閥という壁が立ち塞がったのです。

弾き出された程度であればまだマシで、横井小楠は明治2年(1869年)、攘夷派によって暗殺されております。

明治維新は、ありとあらゆる身分の人が、実力に応じて活躍できる時代になった、と言われております。

本当にそうであったかは、慎重に考えた方がよいでしょう。身分や家格を無視して実力本位で登用していたのであれば、阿部正弘時代の幕府の方がマシかもしれません。

明治新政府でものを言うのは、やはり藩閥です。

薩摩や長州出身であれば、実務能力に疑問符がつくような者でも、要職につくことができました。

これは政府だけではなく富岡製糸場の女工のような場合でもそうで、長州出身の女工はいきなり好待遇で雇用されるようなことが起こっていたのです。

反対に佐幕藩出身者は、差別の対象となりました。

明治とは、山川健次郎のような会津藩出身者でも出世できた時代と言われたりしますが、そんなことはありません。

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山川の場合は国から留学費用を打ち切られ、親切なアメリカ人に学費を出してもらえて、なんとか学業を終えています。

明治新政府が寛大であったというよりも、彼は彼自身の運と実力と熱意によって大成したのです。

明治政府が寛大であったかどうかは、別問題です。

実際、福井藩は人材の宝庫であったにも関わらず、藩閥から弾き出されました。

幕末から明治にかけての福井藩は印象が薄いのですが、それは実力がなかった以上に、藩閥として弾かれたことが大きいのでしょう。

もったいないことです。

もしも橋本左内が「安政の大獄」で処刑されなかったとしても、藩閥の明治新政府で活躍できたかどうかは怪しいものです。

春嶽自身も、彼のブレーンたちも、実力はあるにも関わらず、複雑怪奇な幕末の政治情勢に振り回され、実力を十二分に発揮できなかった印象があります。

こうした藩閥の壁は、女性の前にも立ちはだかりました。春嶽の娘であり、いわば姫君であったある絲(いと)は、生活苦のために芸者になり、アメリカ人のル・ジャンドルに嫁ぐことになったのでした。

日頃の試合では無類の強さを見せるのに、肝心のオリンピックで勝てない選手のような、勝負弱さとでも申しましょうか。

そうはいっても井伊直弼堀田正睦と同じく、松平春嶽が当時トップクラスの政治家であり、人格的にも優れていたことは、確かなこと。

“春嶽さん”と慕われるのも頷けるのです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
三上一夫『幕末維新と松平春嶽』(→amazon
『国史大辞典』

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