松平春嶽(松平慶永)

松平春嶽(慶永)/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末のドタバタで調停調停に追われた松平春嶽(松平慶永)生涯63年まとめ

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春嶽と慶喜は会津藩に酷いことをしたよね……

このころ、京都は恐ろしいことになっていました。

水戸斉昭が朝廷を政治に引きずり込んで以来、【尊皇攘夷】の嵐が吹き荒れていたのです。

長州藩や土佐藩といった諸国から、ともかく何が何でも攘夷を断行すべきだという過激派が集結。一触即発の事態に陥っておりました。

彼らは来日外国人だけではなく、開国して富国強兵を目指す幕府にも敵意を向けています。

このとんでもない状態の京都を何とかすべく、島津久光は幕政改革の一環として「京都守護職」の設置を求めます。

京都守護は、井伊直孝(徳川四天王・井伊直政の跡継ぎ)以来、本来は井伊家が担当しておりました。

しかし、井伊直弼が暗殺された彦根藩には、そんなことをできるだけの力はありません。

そこで春嶽と慶喜は、こう考えました。

「会津藩の松平容保は生真面目だし、あの藩は幕府の言うことならば断れないだろう」

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春嶽らは、容保を呼び出しました。

病弱な容保はこのときも臥せっており、家老を代わりに登城させました。そして用件を聞いた容保は、ますます病が悪化したことでしょう。

会津藩は、蝦夷・樺太、江戸湾、房総の警備に駆り出されており、財政難に苦しんでいました。

そもそも海のない東北の藩では、財政改革にしても限られており、金に余裕などあるわけがありません。

しかも、会津藩士は全体的に生真面目で、純朴でした。才略に長けた公卿や、西南諸藩の武士とやりあうことなど、不得手としていたのです。

それは、京都住民からの反応からも見て取れます。

幕末の京都で、会津藩士は人気がありませんでした。

粗野で扱いづらい――ということではなく、彼らがあまりにも生真面目で、パーッと遊ぶこともなかったため、

「金を落とすわけでもあらへん、つまらん田舎者やわ」

と思われてしまったのです。

そもそも、会津と京都は遠い。移動するだけでも大変なことです。こんな役目を絶対に引き受けてはいけないと、容保もわかっていました。

容保は顔面蒼白になって断ります。

しかし、春嶽と慶喜はしつこく、手練手管を尽くして説得にかかります。

生真面目が取り柄の容保としては、外堀を埋められるようにして追い詰められていきます。

さらに、とどめの一撃として会津藩の「家訓(かきん)」を持ち出されたのです。

「君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」

徳川将軍家に対しては、一心に忠義に励むこと。他藩と同程度の忠義ではいけない。もし徳川将軍家に対して逆らうような藩主がいれば、そのような者は、我が子孫ではない。そのような者に従ってはならない

この家訓を制定したのは、江戸期の名君として名高い保科正之でした。

日陰の身にあった自分を取り立てた徳川家光への、忠義の心があらわれています。

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この家訓を持ち出されては、容保はもうどうしようもありません。

国元から家老の田中土佐と西郷頼母が駆けつけ、「火中の栗を拾うようなものでごぜえます!」と諫言しましたが、もはや手遅れ。

こうして、会津藩は幕末の政局において、地獄への道を歩む羽目になるのです。

この書き方では、あまりに松平春嶽側にあんまりだとは思われることでしょう。会津藩寄りの言い分であることは確かです。

2013年大河ドラマ『八重の桜』では、春嶽役は村上弘明さんでした。ポスターで笑みを浮かべる彼は、聡明でありながらどこか不穏な雰囲気があったのです。

会津側からすれば、春嶽はそう見えてしまうという現れでした。

 


「政令帰一論」の挫折

松平容保だけではなく、春嶽自身も上洛しました。

ただし、攘夷派にマークされ暗殺される危険性があったため、横井小楠はやむなく江戸に置いてきました。

春嶽が足を踏み入れた京都は、もはやカオスと化していました。

公武合体策は、井伊直弼が既に計画していたもので、徳川家茂和宮孝明天皇の異母妹)の結婚という形で、ある程度成功をおさめていました。

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何よりも孝明天皇自身が、義弟となった徳川家茂、京都守護職・松平容保を信頼しており、公武合体策に賛成していたのです。

ところが、いったん倒幕に傾いた過激な尊王攘夷派と公卿にとって、「公武合体」は受け入れられないことでした。

攘夷せよ!の一点で迫ってくる過激派。

公武一体どころか、国の指揮系統が「幕府」と「朝廷(その実態は過激派尊王攘夷派)」に分裂してしまったのです。

このへんの動きが、幕末をややこしくしている一因でありまして。しばし、御説明させていたただきます。

朝廷から幕府への委任を得るか?

あるいは幕府が政権を手放すか?

政令が出されるのは、一カ所でなければならないと、春嶽は主張します(「政令帰一論」)。

が、この主張は受け入れられません。

深い挫折感を味わった春嶽は、上洛してきた家茂に向かってこう直言します。

「私の不徳の為すところではありますが、もはやこの情勢は道理の通る状態ではありません。私は辞職します。将軍も、退位すべきかと思います」

こんな発言をしたらただで済むわけもなく、春嶽は老中・水野忠精から「逼塞(ひっそく)」処分を言い渡されることとなるのでした。

文久3年(1863年)、過激派の暗躍に危機感を抱いた孝明天皇とその側近が薩摩藩・会津藩に呼びかけ、長州藩および過激派公卿は京都から追い払われます(「八月十八日の政変」)。

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この事件の少し前、福井藩にも動きがありました。

横井小楠らは、藩をあげて上洛すべきだと考えていたのです。

しかし尊王攘夷派が妨害したこと、春嶽が横井の急進性について行けないことが重なり、この上洛は実行に移されません。

それまで協力してきた春嶽と横井は、意見が相違するようになっていったのです。

もしも島津久光のように、反対派もものともせずに福井藩が上洛していたら、幕末の情勢は変わっていたかもしれません。

しかし、現実にはそうはならなかったのでした。

 


「参預会議」の崩壊

危険極まりない長州藩過激派を追い払われた京都では、有力藩主およびそれに準じたメンバーによる、合議政治が行われることになりました(「参預会議」)。

参預は以下の通りです。

徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)

・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)

・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)

伊達宗城(宇和島藩前藩主)

・松平容保(会津藩主、京都守護職)

・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)

・長岡護美(追任、熊本藩執政。藩主斉護の子)

・黒田慶賛(追任、福岡藩世子)

ビッグネームがずらりと並び、当時の主たるメンバーが一堂に会したような印象ですよね。

ところが、この会議が機能しません。

慶喜は露骨に幕府権力を強化しようとしますし、参預の中にも自分の発言力を強化しようと躍起になる者もおりまして。

一致団結してよりよい政治を目指そうとするどころか、自分の権限を強化しようと牽制し合う、パワーゲームの場と化したのです。

参預会議が決定的に破綻したのは、中川宮邸(久邇宮朝彦親王)での会議でした。

議題は「横浜鎖港問題」です。

これは、攘夷を行いたい孝明天皇の意に沿うために議題にのぼったもので、参預諸侯は、そんなことは不可能だとして開港継続を支持していました。

しかし、慶喜は諸侯牽制のためだけに、不可能であると理解しながらも、閉鎖を支持したのです。

この日の会議でしこたま酒を飲んだ慶喜は、宮をにらみ付け、春嶽、久光、宗城を指さしながらこう言いました。

「この三人は天下の大馬鹿者、天下の大悪人ですぞ。将軍後見職である私と一緒にしないでいただきたい」

徳川慶喜/wikipediaより引用

慶喜の態度に、久光の中で慶喜への強い嫌悪感が刻まれました。

そして参預会議は決裂、ものの数ヶ月で崩壊したのです。

幕府にとって懸案であった長州藩の征討も、不発に終わります。

高杉晋作の奮闘といった要素もありましたが、それ以上に大きいのは征討の主担当である薩摩藩・西郷隆盛が水面下でサボタージュをしていたからでした。

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徳川家茂はこの討伐で揉めている最中に急死。

このころ福井藩ではイギリス式の兵学を導入し、南北戦争が終わって武器の余っていたアメリカから、買い付けを行うようになりました。

 

「幕府反正の望みは絶え果てたり」

慶応2年(1866年)、家茂の跡を継いでついに慶喜が将軍となりました。

一橋派の宿願が、8年後に叶ったとも言えるわけですが、あのころとは政治状況がまったく変わっています。

兄・斉彬の遺志を継いで徳川慶喜を支持していた島津久光は、彼に対してすっかり幻滅。

おまけに、公武合体策を積極的に支持していた孝明天皇が急に崩御してしまいます。

薩摩藩の小松帯刀らは、長州藩に接近。

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松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

潮目は劇的に変わりつつありました。

そして慶応3年(1867年)、慶喜と4人のメンバーによる会議「四侯会議」が開かれます。

短期間で崩壊した「参預会議」から、メンバーを少なくしただけという印象ですが、四侯とは以下の通りです。

【四侯会議のメンバー】

・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)
・伊達宗城(宇和島藩前藩主)
・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)

今度は、斉彬が久光に代わっての、いわゆる「幕末の四賢侯」ですね。

「参預会議」で慶喜に幻滅していた久光は、彼に対して不信感を抱いていました。

案の定、慶喜と久光は対立し、春嶽はそれを宥めるだけで精一杯。慶喜は得意の弁舌で久光をやり込め、イニシアチブを取りました。

久光は、もはや幕府はこれまでである、と見限りました。そして、武力倒幕に舵を切ることになります。

春嶽は、もはやこれまでと悟りました。

「幕府反正(以前の正しい状態に戻すこと)の望みは絶え果てたり」

彼は福井へ戻ることにしたのです。

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