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土方歳三/wikipediaより引用

新選組 ゴールデンカムイ特集 幕末・維新

土方歳三35年の生涯をスッキリ解説! 多摩のバラガキが鬼の副長となり五稜郭に散るまで

更新日:

幕末悲劇のヒーローにして女性人気No.1の土方歳三――。

彼の所属していた「新選組」が、果たしてどれだけ幕末の歴史を動かしたか?
となると、長州藩の「松下村塾」や薩摩藩の「精忠組」より、はるかに役割は小さいと言えます。

所詮は負け組、所詮は捨て石、所詮は鉄砲玉。
結果だけ見ればそうなってしまいます。

しかし。
だからといって、新選組を、土方歳三を、時代の徒花的集団とは言いたくない、そんな熱量があるのも事実です。
人気だけで見れば、間違いなくトップクラスでしょう。

理由はわかります。
多摩で薬の行商をしていたお兄ちゃんが、鬼の副長と呼ばれるほど冷徹な戦士と化し、最期は幕臣として戦い抜いて、そして散ったのです。
これをドラマチックと言わずして何といいましょう。

そしてあの写真です。
ただ美男子というだけではない、あの佇まい。

たった一枚なれど、土方歳三という名前を燦然と輝かせたのも、あの洋装姿が人の心を奪ってやまないからでしょう。

リラックスしているようで、馴染んでいるようで、やや緊張気味に握った拳。
緊張感と、洗練された雰囲気が混ざり合い、彼にしか出せない魅力にあふれています。

そんな土方歳三の、多摩から五稜郭までの生涯を振り返ってみたいと思います。

 

多摩のバラガキ

土方歳三は天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)にて生誕。
生家は「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、「お大尽」と呼ばれる裕福な家でした。

父は土方隼人義醇で、母は恵津。
10人きょうだいの末子にあたります。
6人きょうだいとされることもありますが、夭折したきょうだいが4人いたため、そのような数え方になっています。

父は、土方が誕生する3ヶ月前に結核で死去しております。
母も、6才の時に結核で亡くなりました。
長兄の為次郎は失明しており、土方は、跡取りだった次兄・喜六と、その妻・なかによって育てられます。

幼少期に父母を失った少年というと、薄幸なイメージを抱くかもしれません。

が、土方は元気いっぱいに育ち、付いたアダ名が「バラガキ」。

触ると傷がつく荊のように乱暴なガキという意味です。幼い頃から大胆不敵で、度胸あふれる少年でした。

多摩で暮らしていた頃の土方は、風呂上がりには褌一丁のまま、太い大黒柱相手に相撲の張り手をしていたとか。
気分が乗ると、一時間でも続けていたとか。
彼なりの鍛錬でしょう。武道への憧れがあったようです。

同時に頭も切れました。

近所で葬式があった際、弔問客の履物を間違えずに出した、という話が伝わっています。
武道ばかりではなく、手習いはそれなりにしっかりと学びました。

のちに俳諧を嗜んだ彼の素養は、このころから芽が出ていたのかもしれません。

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イケメンアパレル店員から、行商へ

お大尽といっても、兄弟が多い末っ子ならば働かねばならないのが当時の社会です。

11才の時、上野の「いとう呉服店」へ奉公。
しかし、些細なことで番頭と喧嘩になり、40キロメートルもある道をテクテクと歩いて、家に戻ってしまいました。

家のものがいくら説得しても、店には戻らなかったのだそうで、強情さがうかがえます。

17才の時には大伝馬町に奉公。
イケメンでモテモテだった土方は、今度は、職場で女性がらみのトラブルを起こしてクビになったとも……。地元で伝わる話です。

こうした奉公経験のためか、土方は鋏や物差しを使うのがとても上手だったそうです。

家でフラフラしているわけにもいかない土方は、家伝の秘薬「石田散薬」の行商販売を開始することにしました。

この「石田散薬」は、昭和23年(1948年)の薬事法改正まで250年間にわたり販売されていたそうで。
販売中止から20年ほどは、服用する人もいたとか。

販売だけではなく、土方は原材料刈り取り指導もしました。
リーダーシップに富み、彼が作業をすると早く終わると評判だったそうです。

江戸が黒船来航で揺れている中。
青年期の土方は草を刈り、薬を売り歩き、俳諧を楽しむ。

頭は切れるけれども、平凡な青年として生きていました。

 

実践剣術・天然理心流

安政6年(1859年)、土方に転機が訪れます。

25才にして、天然理心流に入門したのです。
年齢的には遅い入門。この修行を通して、盟友である近藤勇や沖田総司らとも出会いました。

入門は遅いながら、以前から佐藤彦五郎の道場に出入りするなどして、剣術そのものは17才くらいから馴染んでいたようです。

上達も早く、資質もありました。
特に実践的な戦闘となると滅法強い。
往来の気の強さ、判断力が加味されて、無類の強さとなるわけです。

「ふーん、それでトシさんは強くなるんだね」
と、軽く流してしまいそうになりますが、ここで疑問が湧いてきませんか。

なぜ天然理心流は、幕末でもブッチギリで強かったのか?

天然理心流は、寛政年間(1789年〜1801年)頃に創設された比較的新しい流派です。
日野・八王子地域の千人同心を中心に広まりました。

八王子千人同心の任務は治安維持。いわば特殊部隊です。
凶悪な犯人を捕縛する人たちの間に広まったのですから、実践的な捕縛・殺人術であるのは当然のことです。

スポーツ的に発展していった流派とは違い、本気で相手を殺す技も多数含まれていました。

 

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関東では悪党が暴れ回っていた

さて、そんな実践的な剣術がなぜ関東の農民にまで広まっていたか、と言いますと、時代背景的なものがあります。

太平の世とされた江戸時代。
中盤以降は治安が急激に悪化します。

そして土方ら幕末に活躍する者が生まれた天保年間あたりは、秩序の崩壊が始まっていました。

特に酷かったのが、関東地方です。
「悪党」と呼ばれる、江戸時代版モヒカン軍団のような連中がうろつくようになっていたのです。

一揆の参加者が暴徒と化した者たちのことでして。
江戸時代、一揆参加者には暗黙のルールがありました。

・野良着等、地味な農民らしい普段着を着ること
・武器の携帯は禁止
・暴力行為は禁止

「悪党」は、こうしたルールを破っていました。
・服装はド派手
・武器を携帯している
・暴力行為上等! ヒャッハー!

とまぁ、手に負えない連中なわけです。
早い話が、リアル『北斗の拳』状態であり、関東の治安悪化は幕末の「天狗党の乱」、「世直し一揆」で極まります。

さて、話を戻しまして。

豪農たちは、もはや公権力に頼っていては自衛できないと考えます。
そこで彼らは、まだ10代の跡取りたちを天然理心流に入門させました。

こうして関東には、リアル殺人剣をマスターする若者たちが溢れることになるのです。

そんな若者の一人に、日野宿の名主・佐藤彦五郎がいました。

佐藤彦五郎/wikipediaより引用

彼はある日、とんでもない事件に遭遇します。
嘉永2年(1849年)、「染っ火事」と呼ばれた火災の最中に、祖母が賊に斬殺されてしまったのです。

このマッドな世界において、もはや強くなければ生き残れない—そう痛感した佐藤は、天然理心流道場の門を叩きました。
さらには自宅を改造し、天然理心流の道場とします。

土方は、この道場に出入りしておりました。

幕末関東というリアル『北斗の拳』を生き延びるため、腕を磨いた新選組幹部たち。
そんな彼らからすれば、スポーツのような道場剣術を学んだ武士など、弱くて当然でした。

幕末期になると、多摩の農民は剣術だけではなく、ゲベール銃による「農兵銃隊」まで組織していました。
要は、それだけ殺伐としていたのですね。

郷中教育を習得した究極の戦士である薩摩藩士と、多摩の農民出身の剣士たちがトップクラスの強さ。
関東、どんだけ地獄だったんよ!と思ってしまう話ですね。

 

将軍様のために上洛したが

超実践剣術の天然理心流道場には、スポーツ剣術では物足りなさを感じている、威勢のいい青年たちが集うようになりました。

豪農出身でも相楽総三のような、尊皇攘夷思想を学んでそちらに傾倒する者もいましたが、土方や近藤は違いました。
当時の憂国青年同様、国のために戦い、異国の脅威を打ち払いたいという思いはあったものの、あくまで彼らは
【将軍家のために尽くしたい】
と願っていたのです。

そんな彼らの運命を左右するニュースが、文久3年(1863年)に飛び込んできました。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい!」

取締役は山岡鉄太郎(鉄舟)。

【関連記事】山岡鉄舟

京都に向かう道すがら、近藤一派はトラブルに遭遇します。
宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でついうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

あてつけに野宿すると焚き火をし出すわ、大変な騒ぎに。
近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

そして京都では、さらなる大きなトラブルに直面します。
浪士を率いていた清河八郎が、こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となるのだ!」

近藤らは、ポカーンです。
そんなの話が違うじゃないか、というわけです。

清河八郎/wikipediaより引用

清河はアヤシイ詐欺師まがいの扱いをされることが多い人物ですが、彼も彼なりに思想があり、交友関係をみていくとこの行動はそこまでおかしくもないかも、とは思います。
人望もあるらしく、山岡鉄舟らとも親しくしています。

しかし、近藤らからすればそんなのは知ったことではありません。

浪士たちは江戸に戻りますが、納得できない一派が京都に残留しました。
近藤一派と、芹沢鴨一派です。

 

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「新選組」結成

八木家に留まった一派ですが、幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。
そこで彼らが頼ったのが、半年ほど前に発足した組織「京都守護職」の松平容保でした。

松平容保/wikipediaより引用

江戸時代の京都守護は慣例的に井伊家が担当していました。
が、井伊直弼暗殺以来、その余力も消滅。そこで白羽の矢が立ったのが、律儀で徳川家に忠誠心が篤い会津藩であったのです。

容保は悩みに悩み、その気持ちを歌に詠んでいます。

行くも憂し 行かぬもつらし 如何にせん 君と親とを 思ふこころを

上洛してからも、容保は苦悩の日々が続いていました。

はじめ、容保は「言路洞開」を模索しました。
「いくら考えが違っても、同じ武士なのだから」
話し合えば凶悪な尊皇攘夷派とて、何とかなるはずだと信じていたのです。

しかし、当時の浪人はそんな生やさしいものではありませんでした。
脅迫、暗殺、襲撃、死体損壊……相次ぐ凶悪事件に、京都守護職は厳しい対応が迫られることになります。

そんな沈鬱な青年藩主・松平容保に対して、浪人一派はお抱えにして欲しいと直訴。
と、これが意外にも承諾されるのです。

リアル『北斗の拳』を生き抜いてきた浪士たちの参戦によって、京都守護職の戦闘力は格段にアップしました。
が、それがよかったかどうかは難しいところではあります。

かくして、八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。

「松平肥前守御預新選組」
"新たに選ばれた組だから”新選組って――誇らしげに名乗った彼らですが、京都の町民からは嫌われました。

 

「嫌やわあ、汚らしい浪人やわあ」

みすぼらしい服装、無骨な関東訛りで胡散臭い男たち。

「壬生に住んでいる狼どもや」
ということで、京都の人々は「壬生狼」と呼び、新選組を嫌っていました。

凶暴であるとか、理由はいろいろ言われていますが、洗練されていてスマートでないと、京都の人から認められないワケです。
新選組と会津藩士は、この時点で京の民のお眼鏡にかないませんでした。

あまりにみすぼらしいということで、隊は制服を作ります。
浅葱色に白い山形模様の、あの羽織です。

江戸時代、浅葱色は羽織には使用しないもので、しかもかなりダサい色でした。死に装束に使う色でもありました。
生地はペラペラで薄く、冬期間は寒く実用的でもありません。

着用されたのは元治元年(1864年)頃までで、廃れてしまったそうです。土方自身も「ダサすぎる」と気に入っていなかったそうで。イメージカラーも、浅葱色から黒に変更されています。
フィクションでは、新選組といえば浅葱色ですけどね。

 

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鬼の副長

新選組は、
【敵よりも味方を粛清した数の方が多い】
とまで言われている組織です。

粛清の始まりは、酒癖の悪いトラブルメーカーである芹沢鴨に率いられた水戸藩士一派でした。
文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢は殺害されました。

現在、暗殺現場である八木家では、楽しいガイドさんとおいしい和菓子つきで、案内してくれます。
バッチリ刀痕も残っておりまして。
生々しい現場も、現在では観光スポットです。京都旅行の際は、是非お立ち寄りください(参照サイト)。

芹沢一派がいたころの新選組は、行く先々で危険な喧嘩も起こす、気の荒い集団でした。

行く当てのない若い、しかもリアル『北斗の拳』ワールドでも生き抜ける青年集団です。
暴力に走っても仕方ありません。
酒も飲めば、女遊びだってします。

壬生近辺に在住の人から、
「あの道を通って、近藤や土方らが、遊郭に向かって行ったんやて」
と聞いたことがあります。ご先祖から語り継がれた話だそうで。

島原大門/photo by 上田隼人  wikipediaより引用

そうなってくると、ルールを決めねばなりません。
それが以下のような「局中法度」でした。

一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為は禁止)
一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は禁止)
一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をすることは禁止)
一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係することは禁止)
一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いは禁止)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者は、切腹を申し渡す)

背いたらバンバン切腹させられるわけで、粛清者は当然増えました。

さらには長州藩や薩摩藩、尊皇攘夷の倒幕派がスパイを送り込んでくることもあり、ルールの適用は厳格になってゆきました。

厳しい組織運営の中、土方は変貌してゆきます。
多摩で俳諧を趣味としていたイケメンの元アパレル店員は、いつしかこう呼ばれるようになりました。

「鬼の副長」と。

 

池田屋事件

なんだか無茶苦茶強い新選組。
以前から尊皇攘夷派は危険視しており、その名が決定的に有名となるのが元治元年(1864年)の「池田屋事件」です。

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この事件で、彼らの驚異的な戦闘力があらわになりました。

圧倒的劣勢で敵地に踏み込み、会津藩士が駆けつける前にあらかた征圧したその実力、京都を震撼させるのです。

池田屋跡

派手な事件だけに後世話が大変盛られてしまっており、

・長州藩による京都守護職暗殺および天皇誘拐計画
・土方歳三による古高俊太郎の五寸釘による拷問
・階段落ち
・喀血する沖田総司(気分が悪く戦線離脱したことは事実)
・近藤と同時に踏み込む土方

あたりは史実かどうか検証の必要性があります。

土方は、当初池田屋に踏み込んでおらず、戦闘への参加は遅れています。
しかし、高まる土方人気のせいで脚色するフィクションがあるためか、誤解されていることもあります。

「八月十八日の政変」と「禁門の変」の間にあった事件ということも重要です。

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「池田屋事件」の後に起こった「禁門の変」でも、新選組は活躍します。

このとき「どんどん焼け」という大火災が発生しておりますが、京都の人々は、会津藩と新選組が嫌いで長州贔屓のあまり、
「あの連中が、長州のお侍さんをいぶり出すために、火をつけて回ったんや!」
と信じていたそうです。
状況的に火災の原因を把握することはできません。

このあたりが、新選組の活躍頂点ともいえる時代でした。

 

続発する裏切りと粛清

池田屋事件と禁門の変で名前の売れた新選組。
入隊者も増加し、慶応元年(1865年)には屯所を西本願寺へと移転することになりました。

寺としては大反対です。
血腥い新選組が近所にきてはたまりません。

が、土方らは移転を強行。
この年、西本願寺付近への移転に反対していた山南敬助が脱走し、切腹させられるという事件も起こりました。
山南は土方の厳しい態度についていけなかったのかもしれません。

時勢がめまぐるしく動く中、新選組は粛清を繰り返し、政治的には見るべきことがない動きをしています。

彼らの物語は面白いけれども、やはり歴史を動かす類いのものではないのです。

ただ、興味深いことは確かです。
新選組にとって最大の裏切り者粛清事件は、慶応3年(1867年)の伊東甲子太郎一派を倒した「油小路の変」です。

伊東甲子太郎肖像画/photo by Mizukusa kasumigaura wikipediaより引用

新選組は組織としては勝利したかもしれません。
ただ、彼らを預かる会津藩も、その上にある幕府も、政治的に追い詰められつつありました。

260年間続いた盤石の江戸幕府にも、その支配力には翳りが見えておりました。

長州征討に失敗すると、孝明天皇が崩御し、「一会桑政権」が挫折、参与会議まで崩壊……と、次々に政治的失態と敗退を重ねるようになるのです。

一方で、薩摩藩は長州藩を支持し、同盟を締結(薩長同盟)。
刻々と政治情勢は、後の維新側に有利な状況へと変貌してゆきました。

伊東甲子太郎一派のような者たちは、組織内では敗北者です。
しかし、大勢では勝利者でした。

彼らの中には、のちに赤報隊に参加する者も出てきます。
西郷隆盛指示によるテロ活動に従事したのですね。

しかし、彼らは赤報隊のリーダーである相楽総三とは別行動を取ったため、処刑対象者とはなりませんでした。

 

鳥羽伏見での敗北

慶応3年(1867年)から、本格的に追い詰められてゆく江戸幕府。
慶応4年(1868年)があけて早々、「鳥羽伏見の戦い」で、新選組を含めた幕府軍は大敗北します。

「槍や刀の時代は終わった」
という感慨がフィクションではよく言われますが、新選組がまったくそのことを痛感してなかったとも思えません。

幕府軍も様式調練を取り入れており、新選組も例外ではありません。
この時代、屋内近接戦闘や捕縛が主体であれば、刀で十分に対応できるはずです。

実際にピストルは「ないよりはマシという程度でさほど役に立たない」と、来日外国人は認識していました。
屋内戦闘と捕縛に特化した新選組が、戦争に向いているのかという疑問も湧いてきます。

東軍(幕府)と西軍(新政府)の兵力や装備の差よりも、徳川慶喜が逃げ腰でまったくやる気がない、士気低下という問題の方が大きかったのではないでしょうか。

実のところ、新政府軍も財布が苦しく、戦費調達にかなり苦労しています。
海軍力においては、幕府が有利でした。

「まるごと残っている、無傷の海軍を使えば!
ということは、当時の勝海舟も指摘しています。

慶喜がここまでやる気がなければ、という恨み辛みは、幕府関係者の中で長くくすぶることになるのですが……。

とまぁ、敗因はいろいろあるにせよ、新選組と会津藩は、そんな戦場でも最後まで奮闘しました。

京都守護職とその配下として修羅場をくぐってきた戦士である彼らは、腰砕けとならずに戦い続けたのです。
彼らは弾丸や砲弾もものともせず斬り込みました。

結果、試衛館からの古参隊士である井上源三郎は戦死。
副長助勤・山崎蒸は被弾し、江戸に向かう軍艦内で戦傷死し、水葬されました。

退却した土方らが聞いた知らせは、驚くべきものでした。

徳川慶喜と、松平容保が戦艦で逃亡したというのです。
総大将の無様な逃走に、土方らは愕然としたことでしょう。

新選組らが激闘を繰り広げた場所(伏見口の戦い激戦地跡石碑)/photo by Wadakon234 wikipediaより引用

 

忠義と強さゆえに、邪魔者扱いされて

大坂から撤退した徳川慶喜を見送った新選組は、軍艦「冨士山丸」で、江戸に戻ります。
しかし、彼らは歓迎されざる存在でした。

幕臣は抗戦と恭順で別れ、慶喜には戦意がまるでありません。

恭順を決めた慶喜は、会津藩と桑名藩の江戸登城を禁止。
一方で和宮にすがりつき、助命を嘆願します。

和宮親子内親王/wikipediaより引用

【関連記事】江戸城の無血開城に尽力した和宮たち

要は、
【幕府のために戦いたい!】
という者たちは梯子を外されたわけです。

慶喜から恭順したいと依頼された幕臣の勝海舟は、ありとあらゆる手段を尽くして、慶喜助命の道を探っていました。

そんな勝にとって、新選組は邪魔者でしかありません。
新選組は粗暴で、治安維持を名目にして財産を着服している、土佐や長州の恨みをかっていると、厳しい目で見ていました。

新選組の処遇をどうすべきか。
考えた勝海舟は、近藤勇ら新選組幹部を言いくるめます。

「おめえさんたち、これからは【甲陽鎮撫隊】になってくれ。幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえてくれよ」

近藤勇はこれで自分は幕臣、大名にも匹敵すると舞い上がり、土方は思う存分戦えると、腕を鳴らします。

甲州勝沼に向かう先々で、彼らは豪快に散在しました。これから待ち受ける運命を知らず、舞い上がっていたのです。
故郷にも立ち寄り、錦を飾りました。

しかし、甲州勝沼に向かった「甲陽鎮撫隊」は、大敗を喫し壊滅的な打撃を受けます。

甲州勝沼の戦い/wikipediaより引用

こうした裏で、勝の命を受けて駿府に赴いた山岡鉄舟は、西郷隆盛との会談でこう言っています。

「元新選組が率いう甲陽鎮撫隊が、甲州勝沼で西軍と戦闘を繰い広げとうと聞きもした。これでは恭順しじぁとは思えんです」
「あれは脱走兵による勝手な行動で、幕府は関知していません」

見事なまでに、彼らは切り捨てられておりました。

こうなると、いくら近藤や土方が踏ん張ったところで、新選組は崩壊していくほかありません。

敗戦から5日後、古参隊士である永倉新八、原田左之助らが袂を分かち、靖共隊を組織。
彼らは同志であった近藤が、自分たちを見下すようになったと不満を募らせておりました。

それでも、土方は近藤を見捨てはしませんでした。
反対に、近藤が土方から離れていってしまいます。

近藤勇/Wikipediaより引用

 

流山での別れ

「こうなったら会津に向かおう。そこで、戦うしかねえ」

意気盛んな土方は、隊士を募集して転戦すべく闘志を燃やします。

彼らは下総国流山に本陣を置きました。
一方で、西軍は板橋に本陣を配置。

4月3日、近藤勇は新政府軍に捕縛されます。
自ら出頭したという説もあります。
気力が尽きてしまったのか、流山を戦場にしたくなかったのか。

新政府軍には、御陵衛士残党がいました。
近藤は、大久保大和という変名を使っていたものの見破られ、切腹すら許されないまま斬首刑。享年33。

その首は、三条河原に晒されて行方がわからなくなってしまいました。

近藤勇、三条河原での晒し首の様子/wikipediaより引用

土方は、勝海舟に面会して近藤の助命嘆願を願っていました。が、叶うわけもありません。

そこで江戸からの帰り道、抗戦を願う東軍と合流。
そこにいたのが幕臣の大鳥圭介でした。

大鳥圭介/wikipediaより引用

 

北へと転戦

近藤のみならず、土方がかつて戦った戦友たちが散っていきました。

肺結核の療養中であった沖田総司が、療養先で死去。享年24(諸説あり)。
上野戦争で、彰義隊に加わっていた原田左之助が戦死。享年29。

新選組も、幕府も、崩壊していく中、それでも土方は戦い続けます。
それどころか、指揮官としての才能を遺憾なく発揮するようになったのですから皮肉と言いましょうか。

「鬼の副長」と呼ばれ、冷酷さを強調されてきた土方は、この頃から慈愛に満ちた器の大きさを見せるようになりました。

函館まで土方と運命をともにした中島登は、こう振り返っております。
「年が長ずるに従い、温和で、皆は赤子が母を慕うように彼のことを慕った」

そのカリスマ的な采配ぶりは、部下を魅了し、奮い立たせておりました。

「退く者は斬る!」
土方のものとして有名な台詞は、宇都宮戦争での言葉とされています。

宇都宮城下を炎に包みながらも、東軍は勝利をおさめます。
しかしそれも一時的なことで、わずか数日後には西軍に敗走させられました。

そのあと、土方は北へ転戦を続け、会津藩の入り口である母成峠へ向かいます。
ここも圧倒的な兵力を持つ西軍に突破され、土方も会津へと向かうほかありません。

会津藩の滝沢本陣には、藩主である松平容保と、まだ子供のような少年たちがいました。

白虎隊です。

 

「新選組の土方歳三様だべ!」

主力部隊が出払い、予備軍である白虎隊が出陣することになっておりました。

彼らの年齢は、現在の高校一年生から二年生程度。
16才から17才の少年で編成されたばかりか、年齢をサバ読みして参加した、さらに幼い者も含まれていました。

「新選組の土方歳三様だべ!」
まだあどけなさを残した少年たちは、土方の姿を見ると喜んで話しかけて来ました。
土方は、この少年たちによく声を掛けていたと伝わります。

また会津での土方は、東山温泉で傷を治し、天寧寺では近藤勇の墓を作ったとも(庄助の宿 瀧の湯)。

天寧寺内の近藤勇の墓/photo by Rikita wikipediaより引用

会津藩が降伏間近になると、幕臣たちはさらに北へと向かおうとします。
しかし、斎藤一は首を横に振りました。
「俺は会津に恩義がある。ここで戦い抜くつもりです」

彼もまた、土方と袂を分かちました。
明治以降も生き抜いた斉藤は、最期の時に会津に埋葬するよう言い残しました。

彼の遺族が寄付した写真は、会津若松市内の福島県立博物館に保管されています。
斎藤の魂は、今も会津に留まっているのかもしれません。

発表当時幕末ファンをざわつかせた、イケメンな肖像写真/wikipediaより引用

 

北の大地に散る

それでも土方は、戦うことを止めませんでした。

仙台に向かうと、仙台藩はすぐに降伏。
土方はさらに北へ、蝦夷地を目指します。

目指した土地は、函館でした――。

明治元年(1868年)、東軍は五稜郭を占領。

しかし物足りなかったのか、土方は松前城も急襲します。

松前城と大手門/函館市中央図書館蔵

海からの攻撃には備えが十分な松前城も、内陸方面は貧弱であり、土方はあっさりとこれを陥落させています。

勝利を得て、ますます意気盛んになる土方。
明治2年(1869年)3月には、宮古湾で果敢なアボルダージュ=接舷攻撃を行い、敵をも感服させています。

幕府の回天丸vs新政府の甲鉄艦(東艦)/wikipediaより引用

土方は、形成不利になっても戦い続けました。
意地とかプライド等といったものは超越したような戦いっぷりで、その意志力は人知を超えたレベルだったのかもしれません。

そして、5月11日。
五稜郭外で流れ弾に当たり、敢えなく戦死。
享年35でした。

かつて呉服屋に勤め、鋏をうまく使った青年。
あまり上手とはいえない俳諧を嗜んでいた青年。

土方歳三は、わずか数年間で一介の青年から「鬼の副長」となり、不屈の将となり、忠義の限りを尽くして、北の大地に散りました。

たとえ身は蝦夷の島根に朽つるとも 魂は東(あずま)の君やまもらむ
【意訳】たとえこの身が、蝦夷地の果てに散ったとしても、魂は東にいる将軍を守るだろう

武士以上に武士道をまっとうした、多摩のバラガキでした。

 

トシさんよ、永遠に

土方歳三は、35年の人生を終えたということになっています。

これはあくまで、歴史の中の話。
フィクションでは今なお幕末屈指の人気者です。

司馬遼太郎『燃えよ剣』や大河ドラマ『新選組!』はじめ、数多の作品で人気俳優が彼を演じてきました。
栗塚旭さん、山本耕史さん……年代ごとに、土方といえばコレ、という像がありますよね。

女性の人気も高く、新選組をモチーフ尾とした乙女ゲームやアニメも多数存在します。

松下村塾、精忠組、亀山社中をさしおいて、なぜ新選組ばかりが乙女ゲームになるのか、というのはなかなか不思議な話です。

 

まだまだ土方は戦うべきだ、という作品が多いのも特徴でして。
明治期の北海道、はては異世界で、土方歳三が戦い続ける作品が存在します。

手塚治虫氏作『シュマリ』
・平野耕太氏作『ドリフターズ』(4巻表紙)
・野田サトル氏作『ゴールデンカムイ』(3巻表紙)

1:12あたりから土方の紹介

トシさんは死ぬのが早すぎた、惜しすぎた、もっともっと戦って欲しかった――そんな気持ちも込められているのでしょう。
最期まで権力に抗い、戦い続けた熱い魂が、反骨精神人々を魅了しているのかもしれません。

彼の命は北海道の大地に散って、もうおよそ150年経過しています。

しかしその魂はまだ生き続けて、今日もどこかで戦い続けているのでしょう。




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文:小檜山青

【参考文献】
子孫が語る土方歳三(新人物往来社2005年刊行)』土方愛
「新選組」土方歳三を歩く (歩く旅シリーズ 歴史・文学)
国史大辞典

 




桂小五郎
またの名を木戸孝允


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