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土方歳三/wikipediaより引用

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土方歳三35年の生涯をスッキリ解説! 多摩のバラガキが鬼の副長となり五稜郭に散るまで

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幕末悲劇のヒーローにして女性人気No.1の土方歳三――。

彼の所属していた「新選組」が、果たしてどれだけ幕末の歴史を動かしたか?
となると、長州藩の「松下村塾」や薩摩藩の「精忠組」より、はるかに役割は小さいと言えます。

所詮は負け組、所詮は捨て石、所詮は鉄砲玉。
結果だけ見ればそうなってしまいます。

しかし。
だからといって、新選組を、土方歳三を、時代の徒花的集団とは言いたくない、そんな熱量があるのも事実です。
人気だけで見れば、間違いなくトップクラスでしょう。

理由はわかります。
多摩で薬の行商をしていたお兄ちゃんが、鬼の副長と呼ばれるほど冷徹な戦士と化し、最期は幕臣として戦い抜いて、そして散ったのです。
これをドラマチックと言わずして何といいましょう。

そしてあの写真です。
ただ美男子というだけではない、あの佇まい。

たった一枚なれど、土方歳三という名前を燦然と輝かせたのも、あの洋装姿が人の心を奪ってやまないからでしょう。

リラックスしているようで、馴染んでいるようで、やや緊張気味に握った拳。
緊張感と、洗練された雰囲気が混ざり合い、彼にしか出せない魅力にあふれています。

そんな土方歳三の、多摩から五稜郭までの生涯を振り返ってみたいと思います。

 

多摩のバラガキ

土方歳三は天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)にて生誕。
生家は「石田散薬」という家伝薬を副業とする旧家で、「お大尽」と呼ばれる裕福な家でした。

父は土方隼人義醇で、母は恵津。
10人きょうだいの末子にあたります。
6人きょうだいとされることもありますが、夭折したきょうだいが4人いたため、そのような数え方になっています。

父は、土方が誕生する3ヶ月前に結核で死去しております。
母も、6才の時に結核で亡くなりました。
長兄の為次郎は失明しており、土方は、跡取りだった次兄・喜六と、その妻・なかによって育てられます。

幼少期に父母を失った少年というと、薄幸なイメージを抱くかもしれません。

が、土方は元気いっぱいに育ち、付いたアダ名が「バラガキ」。

触ると傷がつく荊のように乱暴なガキという意味です。幼い頃から大胆不敵で、度胸あふれる少年でした。

多摩で暮らしていた頃の土方は、風呂上がりには褌一丁のまま、太い大黒柱相手に相撲の張り手をしていたとか。
気分が乗ると、一時間でも続けていたとか。
彼なりの鍛錬でしょう。武道への憧れがあったようです。

同時に頭も切れました。

近所で葬式があった際、弔問客の履物を間違えずに出した、という話が伝わっています。
武道ばかりではなく、手習いはそれなりにしっかりと学びました。

のちに俳諧を嗜んだ彼の素養は、このころから芽が出ていたのかもしれません。

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イケメンアパレル店員から、行商へ

お大尽といっても、兄弟が多い末っ子ならば働かねばならないのが当時の社会です。

11才の時、上野の「いとう呉服店」へ奉公。
しかし、些細なことで番頭と喧嘩になり、40キロメートルもある道をテクテクと歩いて、家に戻ってしまいました。

家のものがいくら説得しても、店には戻らなかったのだそうで、強情さがうかがえます。

17才の時には大伝馬町に奉公。
イケメンでモテモテだった土方は、今度は、職場で女性がらみのトラブルを起こしてクビになったとも……。地元で伝わる話です。

こうした奉公経験のためか、土方は鋏や物差しを使うのがとても上手だったそうです。

家でフラフラしているわけにもいかない土方は、家伝の秘薬「石田散薬」の行商販売を開始することにしました。

この「石田散薬」は、昭和23年(1948年)の薬事法改正まで250年間にわたり販売されていたそうで。
販売中止から20年ほどは、服用する人もいたとか。

販売だけではなく、土方は原材料刈り取り指導もしました。
リーダーシップに富み、彼が作業をすると早く終わると評判だったそうです。

江戸が黒船来航で揺れている中。
青年期の土方は草を刈り、薬を売り歩き、俳諧を楽しむ。

頭は切れるけれども、平凡な青年として生きていました。

 

実践剣術・天然理心流

安政6年(1859年)、土方に転機が訪れます。

25才にして、天然理心流に入門したのです。
年齢的には遅い入門。この修行を通して、盟友である近藤勇や沖田総司らとも出会いました。

入門は遅いながら、以前から佐藤彦五郎の道場に出入りするなどして、剣術そのものは17才くらいから馴染んでいたようです。

上達も早く、資質もありました。
特に実践的な戦闘となると滅法強い。
往来の気の強さ、判断力が加味されて、無類の強さとなるわけです。

「ふーん、それでトシさんは強くなるんだね」
と、軽く流してしまいそうになりますが、ここで疑問が湧いてきませんか。

なぜ天然理心流は、幕末でもブッチギリで強かったのか?

天然理心流は、寛政年間(1789年〜1801年)頃に創設された比較的新しい流派です。
日野・八王子地域の千人同心を中心に広まりました。

八王子千人同心の任務は治安維持。いわば特殊部隊です。
凶悪な犯人を捕縛する人たちの間に広まったのですから、実践的な捕縛・殺人術であるのは当然のことです。

スポーツ的に発展していった流派とは違い、本気で相手を殺す技も多数含まれていました。

 

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関東では悪党が暴れ回っていた

さて、そんな実践的な剣術がなぜ関東の農民にまで広まっていたか、と言いますと、時代背景的なものがあります。

太平の世とされた江戸時代
中盤以降は治安が急激に悪化します。

そして土方ら幕末に活躍する者が生まれた天保年間あたりは、秩序の崩壊が始まっていました。

特に酷かったのが、関東地方です。
「悪党」と呼ばれる、江戸時代版モヒカン軍団のような連中がうろつくようになっていたのです。

一揆の参加者が暴徒と化した者たちのことでして。
江戸時代、一揆参加者には暗黙のルールがありました。

・野良着等、地味な農民らしい普段着を着ること
・武器の携帯は禁止
・暴力行為は禁止

「悪党」は、こうしたルールを破っていました。
・服装はド派手
・武器を携帯している
・暴力行為上等! ヒャッハー!

とまぁ、手に負えない連中なわけです。
早い話が、リアル『北斗の拳』状態であり、関東の治安悪化は幕末の「天狗党の乱」、「世直し一揆」で極まります。

さて、話を戻しまして。

豪農たちは、もはや公権力に頼っていては自衛できないと考えます。
そこで彼らは、まだ10代の跡取りたちを天然理心流に入門させました。

こうして関東には、リアル殺人剣をマスターする若者たちが溢れることになるのです。

そんな若者の一人に、日野宿の名主・佐藤彦五郎がいました。

佐藤彦五郎/wikipediaより引用

彼はある日、とんでもない事件に遭遇します。
嘉永2年(1849年)、「染っ火事」と呼ばれた火災の最中に、祖母が賊に斬殺されてしまったのです。

このマッドな世界において、もはや強くなければ生き残れない—そう痛感した佐藤は、天然理心流道場の門を叩きました。
さらには自宅を改造し、天然理心流の道場とします。

土方は、この道場に出入りしておりました。

幕末関東というリアル『北斗の拳』を生き延びるため、腕を磨いた新選組幹部たち。
そんな彼らからすれば、スポーツのような道場剣術を学んだ武士など、弱くて当然でした。

幕末期になると、多摩の農民は剣術だけではなく、ゲベール銃による「農兵銃隊」まで組織していました。
要は、それだけ殺伐としていたのですね。

郷中教育を習得した究極の戦士である薩摩藩士と、多摩の農民出身の剣士たちがトップクラスの強さ。
関東、どんだけ地獄だったんよ!と思ってしまう話ですね。

 

将軍様のために上洛したが

超実践剣術の天然理心流道場には、スポーツ剣術では物足りなさを感じている、威勢のいい青年たちが集うようになりました。

豪農出身でも相楽総三のような、尊皇攘夷思想を学んでそちらに傾倒する者もいましたが、土方や近藤は違いました。
当時の憂国青年同様、国のために戦い、異国の脅威を打ち払いたいという思いはあったものの、あくまで彼らは
【将軍家のために尽くしたい】
と願っていたのです。

そんな彼らの運命を左右するニュースが、文久3年(1863年)に飛び込んできました。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい!」

取締役は山岡鉄太郎(鉄舟)。

【関連記事】山岡鉄舟

京都に向かう道すがら、近藤一派はトラブルに遭遇します。
宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でついうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

あてつけに野宿すると焚き火をし出すわ、大変な騒ぎに。
近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

そして京都では、さらなる大きなトラブルに直面します。
浪士を率いていた清河八郎が、こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となるのだ!」

近藤らは、ポカーンです。
そんなの話が違うじゃないか、というわけです。

清河八郎/wikipediaより引用

清河はアヤシイ詐欺師まがいの扱いをされることが多い人物ですが、彼も彼なりに思想があり、交友関係をみていくとこの行動はそこまでおかしくもないかも、とは思います。
人望もあるらしく、山岡鉄舟らとも親しくしています。

しかし、近藤らからすればそんなのは知ったことではありません。

浪士たちは江戸に戻りますが、納得できない一派が京都に残留しました。
近藤一派と、芹沢鴨一派です。

 

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「新選組」結成

八木家に留まった一派ですが、幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。
そこで彼らが頼ったのが、半年ほど前に発足した組織「京都守護職」の松平容保でした。

松平容保/wikipediaより引用

江戸時代の京都守護は慣例的に井伊家が担当していました。
が、井伊直弼暗殺以来、その余力も消滅。そこで白羽の矢が立ったのが、律儀で徳川家に忠誠心が篤い会津藩であったのです。

容保は悩みに悩み、その気持ちを歌に詠んでいます。

行くも憂し 行かぬもつらし 如何にせん 君と親とを 思ふこころを

上洛してからも、容保は苦悩の日々が続いていました。

はじめ、容保は「言路洞開」を模索しました。
「いくら考えが違っても、同じ武士なのだから」
話し合えば凶悪な尊皇攘夷派とて、何とかなるはずだと信じていたのです。

しかし、当時の浪人はそんな生やさしいものではありませんでした。
脅迫、暗殺、襲撃、死体損壊……相次ぐ凶悪事件に、京都守護職は厳しい対応が迫られることになります。

そんな沈鬱な青年藩主・松平容保に対して、浪人一派はお抱えにして欲しいと直訴。
と、これが意外にも承諾されるのです。

リアル『北斗の拳』を生き抜いてきた浪士たちの参戦によって、京都守護職の戦闘力は格段にアップしました。
が、それがよかったかどうかは難しいところではあります。

かくして、八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。




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「松平肥前守御預新選組」
"新たに選ばれた組だから”新選組って――誇らしげに名乗った彼らですが、京都の町民からは嫌われました。

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