大河ドラマ『青天を衝け』で、なかなか衝撃的なシーンがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。
主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。
焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。
ガイジン、おまえら気に入らないんじゃ! 出てけ! 言うこと聞かない? だったら燃やしてやんよ!
通常の感覚なら、こんな姿勢は褒められたものではないでしょう。
あれはドラマの中だけの話なのか?
というと、実は史実においても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。
かたや資本主義の父と呼ばれ。
かたや日本初の総理大臣であり。
お札の顔にまでなった二人ですから、にわかには信じ難い話ですが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。
では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか?
1840年3月16日(天保11年2月13日)は渋沢栄一が生まれた日。
ドラマでも渋沢と伊藤が意気投合していた、怖い理由の真実を見て参りましょう。
坂下門外の変
『青天を衝け』は、他の幕末作品ではあまり取り上げられないマイナー事件に注目することがあります。
10話では【坂下門外の変】が描かれ、公式サイト「今週の栄一」ではこう記されていました。
大橋訥庵や河野顕三に出会い、草莽(そうもう)の志士になることを決意する
さらに以下のインタビュー記事では
◆大河ドラマ「青天を衝け」裏話:眼帯の志士・河野顕三は史実でも眼が悪かったのか 俳優・福山翔大に聞く(木俣冬)(→link)
河野顕三という志士が、あたかも好青年かのように書かれていました。
また、満島真之介さん演じる尾高長七郎がみつけて本にした河野さんの稿本『春雲楼遺構』のあとがき(満島真之介の公式ツイッターにアップされている)に書いてあったことが参考になりました。
長七郎と河野は親友だったことは事実でそのあとがきに、どれだけ長七郎が河野の考え方に共感していたかわかります。
長七郎は河野が亡くなったあとお墓参りにいって、残っていた稿本を見つけて、印刷して本にしたんです。
あとがきには栄一にも河野がいかにすばらしい人物だったか世の中に伝えるために出版を手伝ってもらったと書いてあります。
河野は、渋沢栄一のイトコ・尾高長七郎と親しく、共に【坂下門外の変】の謀議に参加していたことが確かです。

そうした状況を踏まえつつ、坂下門外の変について、5W1Hをまとめてみますと、こうなります。
いつ:文久2年1月15日(1862年2月13日)
どこで:江戸城坂下門外
だれが:平山兵介(水戸藩激派)、黒沢五郎(水戸藩激派)、小田彦三郎(水戸藩激派)、川本杜太郎、高畑房次郎、河野顕三
何を:老中の安藤信正を暗殺
なぜ:後述します
どのように:杜撰なテロによる襲撃
平山や黒沢など、幕末史ではあまり注目されませんが、彼らが所属している【水戸藩激派】は非常に危険な存在です。
後に筑波山で蜂起し、上洛を目指す天狗党の中核にもなっており、幕府としては到底放置できない危険な思想集団でした。
ゆえに水戸藩に対し、処罰を求めていたのですが、彼らは反省どころか逆恨み。
逆に、諸外国に対して開港し、朝廷との公武合体をすすめる幕府を恨み、老中・安藤信正の命を狙うことにしたのです。
もはや「やられる前にやれ」という姿勢でムチャクチャであり、安藤信正は、長州藩の件でも恨みを買っていました。
長州藩過激派は水戸藩激派に憧れる
そのころ長州藩の松下村塾生たちは、水戸に憧れを抱いていました。
「心即理、知行合一」を実践する志が高い人たちだ!
と、こう書けば熱血青春日記のようではありますが、中身は要するにテロです。
そうした水戸学がどれだけ危険か?というのは以下の記事をご参照ください。
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水戸学とは何なのか?斉昭のパフォーマンスが幕末に投じた思想的影響のヤバさ
続きを見る
吉田松陰はこう言いました。
「諸君、狂いたまえ!」
毒を薄めて広められていますが、このフレーズもまた「尊王攘夷テロを実現に移そう」という暴力の煽動です。

吉田松陰/wikipediaより引用
そんな長州藩士からすると【桜田門外の変】を実行した水戸藩士は憧れの的です。
かくして「テロで自分探し」をする計画の一端として、安藤信正の謀殺が持ち上がったのですが、長州藩の桂小五郎は「計画が雑すぎる」としてストップをかけました。
しかし、結局、実行されてしまったのは、直前に黒幕の大橋訥庵が逮捕されてしまい「もういっそやっちまえ!」と血気盛んな連中が流されてしまったからです。
当然、そんな成り行き任せで成功するわけなく、あっさりと護衛に返り討ち。
安藤信正も命に別条はなかったのですが,後日、失脚の憂き目に遭ってしまいました。

安藤信正/Wikipediaより引用
このとき、遅刻して参加できなかった川辺佐治衛門という水戸人がいました。
川辺は長州藩邸に駆け込み、自害。
死ぬ間際、桂小五郎に安藤信正殺害理由を記した「斬奸状」(※悪人を殺害する際に理由を記した書状)を託します。
そして偶然、この書状を読んでしまった人物がいます。
血気盛んな長州藩士・伊藤俊輔――後の伊藤博文でした。
廃帝の噂がテロにつながる
伊藤俊輔は「斬奸状」のとある部分に着目します。
そこには“安藤信正が国学者に廃帝の先例を調べさせた”という記述がありました。
これが良くなかった。
帝を廃位させるつもりか!と、頭に血がのぼったのか。
あるいは国学者であれば幕臣と違ってガードが甘いと思ったのか。
伊藤は、こうした国学者たちも【暗殺リスト】に載せ、行動に移してしまったのです。
塙次郎(忠宝):文久2年12月22日、江戸三番町自宅にて暗殺
宇野東桜(八郎):文久3年1月13日、江戸新橋にて暗殺
鈴木重胤:文久3年8月15日、江戸小梅自宅にて暗殺、死後冤罪と判明し、正五位追贈
中村敬宇(正直):未遂
殺すと思ったら殺す――それが陽明学や水戸学に傾倒した幕末志士たちの心意気なのですから恐ろしい。
といっても伊藤がすべて暗殺したわけではありません。
山尾庸造と共に、塙(とその場に居合わせた加藤一周)を殺害し、宇野東桜については高杉晋作が命じています。

高杉晋作/wikipediaより引用
宇野は長州藩上屋敷・有尾館に連行され、刀を取り上げられた上で殺されたのです。
明治42年(1909年)に中原邦平が記した『伊藤公実録』によれば、伊藤は殺害をこう振り返っています。
「(宇野は)吾輩が殺したという訳でもないが、皆がグズグズしているから、ひとつやってやろうと思って、短刀を彼の喉に突き突けようとした。
ところが遠藤多一が短刀を手にした吾輩の手をとって、すぐに突っ込んでしまった。
そうすると白井小助めが刀を抜いて、横腹をズブリと刺して殺したのだ」
「遠藤多一が吾輩の手を……」と言い訳していますが、つまりは伊藤の手で殺しているということですよね。
宇野の遺骸は薦に包まれ、伊藤ら3~4名で屋敷の近くに捨てられました。
確たる証拠もない暗殺だった
捕縛、暗殺、遺体遺棄。
この事件で暗澹とした気持ちにさせられるのが、そもそも「廃帝の記述」がテキトーだったと思われるところです。
同じ罪状で殺害された鈴木重胤は、冤罪であったため、正五位を追贈されています。
文久3年(1863年)8月――中村敬于正直の家に、天狗党の薄井龍之と小林捨松が踏み込みました。
このとき母親が我が子を庇い、こう言い返します。
「その罪には証拠はおありか?」
「……いや……」
「もし証拠が確かならば、この母がこの息子を成敗します! ただの風説ならば今一度お調べください!」
「それもそうかも……」
襲撃者はハタと立ち止まり、中村家を後にします。
しかし、薄井が暗殺を命じた藤田小四郎にこの一件を報告すると、藤田は笑ってこう返したのです。
「天誅をくだすのに理非を問われ迷うとは情けない。それでは志士ではないぞ」
要は、証拠なんて知らんがな。さっさとやれよ、というところでしょう。
『青天を衝け』では大きな志を抱いているかのように描かれた藤田小四郎。

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像/wikipediaより引用
実際は、軽いノリで暗殺をしていて、気が重くなるばかりです。
殺害された学者たちがあまりに不憫ではありませんか。
暗殺に無反省、むしろ自慢げ
それでも実行犯たちが真面目に反省すれば、まだ救いはあるでしょう。
例えば人斬り半次郎の悪名で知られる桐野利秋は、心優しいところもありました。
会津戦争では、秀吉に屈した島津家の苦悩と会津藩を重ねて号泣。
自身が赤松小三郎を暗殺した際には、精神に変調をきたしました。
「赤松小三郎がきた! 赤松がきた、畳の下に、赤松の墓がある!」
そう叫ぶようになったのです。

人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用
田中河内介暗殺実行犯の中にも、精神が崩壊してしまった人物はいました。
では伊藤は?
暗殺のことをまるで冒険とでも思っていたのでしょう。
後年、自慢げに吹聴し、そのことを聞かされたという証言が残されています。
伊藤にとって兄貴分にあたる高杉晋作の交友録『観光録』末尾の書き付けには
「宇野八郎・塙二郎斬姦」
という不気味な文字が残されています。
現代ならば、スマホのメモ帳やグーグルカレンダーに
「殺害した人間の名前」
を登録しておくような感覚でしょうか。
彼らにとっては英国公使館焼き討ちも学者殺害事件も
“俺らマジパネェ武勇伝”
扱いでしかありません。
伊藤の塙次郎暗殺を知る人は知っていて、例えば講談師初代・伊藤痴遊が思い切って尋ねてみると、

伊藤痴遊/wikipediaより引用
こんな答えが返ってきました。
「そんな古いことは、どうでもよいではないか」
そう、否定はしていないのです。
殺害していなければ「違う」と言うはずで、前述の中原邦平著『伊藤公実録』にもこうあります。
「本人曰く、公も殺害現場にいたことは確かである」
中原は公爵毛利家に仕えています。
つまり長州藩の公式記録でも暗殺を仄めかしていると言えるのです。
そして大正10年(1921年)、塙次郎六十年祭でまた新証言が出てきました。
「塙次郎暗殺犯は、伊藤博文……」
今後の発言者こそ、誰あろう渋沢栄一でした

渋沢栄一/wikipediaより引用
もう周知の事実だから、言ってもよかろう。伊藤博文だって死後十年以上経っていることだし。
そんな心境だったのかもしれませんが、これもあまりに下劣といえばそうです。
塙次郎の父は、盲人でありながら国学を究めた塙保己一です。この深谷出身である同郷の偉人を、渋沢は敬愛していたと伝えられます。塙保己一の顕彰とともに、彼の偉業と己を重ね合わせています。
そのくせ、その息子をわけもなく殺した伊藤と親しく付き合い、酒色を共にする。なかなかの厚顔無恥。おそるべき偽善ではありませんか。
伊藤と渋沢、テロが結ぶ友情
公然の秘密であれば、渋沢が知っていたところで何の不思議もないとはいえます。
傍証からも両者のテロによる関係が見えてきます。
渋沢栄一は見るからに温厚そうな見た目をしてはおりますが、幕末においては水戸学を信奉する志士として活動していました。
前述の通り【坂下門外の変】を起こした犯人と親しく交際。
藤田東湖の子であり、天狗党を率いた藤田小四郎とは互いを「畏友(尊敬する友)」と呼び合うほど親しくしていました。

藤田東湖/wikipediaより引用
そんな水戸天狗党と長州藩過激派には、深い繋がりがありました。
塙次郎らの暗殺事件は、両者が盛り上がって起こした事件といえます。
他にも次のような関係性が指摘できます。
水戸と長州は、まさにスペシャルな同志。
京都時代に渋沢と伊藤が顔を合わせていた可能性もありますし、互いのことを知っていても不思議ではありません。
【天狗党の乱】が起こると、徳川慶喜に仕えていた渋沢栄一のもとに、薄井龍之の嘆願が届きました。
しかし渋沢は天狗党の形勢不利とみたのか、その嘆願を握りつぶしました。
それがよほど気まずかったのか。
そもそも、渋沢は杜撰なテロ計画で追われる身となり、一橋家に転がり込んだようなもの。
隠したつもりでも、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』において主役を務める小栗忠順は見抜いていたのです。
「へぇ、この間までは倒幕だなんだ言っておいて、今度は公方様に仕えるのかい」
そう皮肉られているのでした。
幕府が滅びたあとは隠棲して生きるつもりであった小栗からすれば、生き延びるためには服でも着替えるように方針変換する渋沢は、認め難いものがあってもおかしくはありません。

小栗忠順/wikipediaより引用
明治の世になったとき「倒幕は当然のことだった」と振り返る渋沢。
伊藤博文と意気投合していたとしても何ら不思議はないでしょう。
なんせ二人には、尊王攘夷テロという青春の思い出があり「ズバ抜けた女好き」という共通点もあります。
それが仲良く好青年として、爽やかに、『青天を衝け』では活躍していた――とは、なかなか怖い状況です。
2027年『逆賊の幕臣』では、小栗忠順はそんな渋沢に冷たい目を向けることでしょう。期待して待とうではありませんか。
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【参考文献】
一坂太郎『暗殺の幕末維新史』(→amazon)
芳賀登『幕末志士の世界』(→amazon)
伊藤之雄『伊藤博文』(→amazon)
他





