もくもくと煙をあげて来航するペリー艦隊。
度肝を抜かれる日本人――。
もはや大河ドラマなどフィクション作品でお馴染みとなった光景でしょう。
いわゆる【ペリー来航】です。
この黒船の到来に対して、実は、日本中の誰もが「黒いバケモンだ!」と驚いていたわけでもありません。
ましてや幕閣上層部にいた阿部正弘は「だから事前に備えておこうと言ったじゃないですか!」という反応だったでしょう。
実は19世紀の初頭から、日本の沿岸部には捕鯨船はじめ外国船が姿を見せていました。
そうした船が日本沖で遭難してしまうと、牢屋に入れられるわ、まずい食事を出されるわ……ということで「あの国の対応はおかしい!」とアメリカが苛立ち、ついには艦隊派遣を決めたのです。
オランダはこれ以前から、遡れば田沼意次の頃から開国を打診していました。
何度断られても諦めきれないオランダは、アメリカのこの情報を掴み、詳細な情報を江戸幕府に届けていたのです。
それが来航一年前のことでしたが、幕閣で焦ったのは阿部正弘だけでした。あまりの事態に、他の幕臣は見て見ぬふりをしたようなものです。
阿部が焦ったにせよ、どうしようもなかったことは、福岡藩主・黒田長博の反応から推察できます。
アメリカ艦隊来航の可能性を阿部から聞かされた黒田は、「何をどうしたって追い払うことなどできない」と絶望的な答えを返すしかできません。
海岸線が長い領地を持つ藩主も、そうした事情を把握。
そして、いざ【ペリー来航】を迎えると、もはや押さえ込むことは不可能であり、幕府の海軍創設が幕を開けます。
幕末フィクションにありがちな「幕府が無為無策、無能」というのは、フィクションゆえの過小評価か、あるいはプロパガンダ要素もありました。
実は江戸幕府の時代でも、船艦建造と海軍創設は進められていた。
それどころか、新政府すら手を焼くほど精強で、後の【日本海海戦】勝利へも繋がったとされるほどです。
2027年『逆賊の幕臣』でも重要な要素となる【幕府海軍】とはいかなるものだったのか。

中島三郎助/wikipediaより引用
今回は、明治2年(1869年)5月16日が命日となる中島三郎助に注目しながら、江戸幕府の海軍について振り返ってみたいと思います。
探索好きの与力・中島三郎助
ペリー来航の嘉永6年(1853年)。
彼らが浦賀で待機していると、浦賀の与力である中島三郎助と香山栄左衛門らは、そこへ乗船してゆきました。
定番の幕末作品であればドキドキ……と、慌てふためき、船の中で縮こまっている幕臣の姿が描かれるかもしれません。
しかし、現実は真逆でした。
中島と香山の優雅な仕草と溢れる教養に、ペリーも驚きます。

マシュー・ペリー/wikipediaより引用
ただし、二人の印象は対称的です。
香山は丁寧な物腰で、優しく、物静かな紳士で、ウイスキーが大好き。
一方の中島は、どこまでも詮索好きで厚かましく、止められようがアチコチ探索し、銃器類の構造を見て、測定まで始めてしまう。
「なんなんだあの男は、いくらなんでも厚かましい」
なぜ中島はそんなに空気も読まずキョロキョロしていたのか?というと、もちろん偵察のためです。
そう考えると、気持ちよく酔っ払ってしまった香山より、仕事をしたということかもしれません。
とはいえ、ペリー艦隊側も、まさか日本人が自分たちの手で蒸気船を作るとまでは考えていなかったと思われます。
その“まさか”に、幕臣たちは挑むのです。
今度は自分たちで黒船を作ろう!
時代は海軍だ――。
そう先を読んでいた者は、前述のように幕臣にいました。
阿部正弘がペリーに対する意見を求めたところ、蘭学に通じた勝海舟が海軍の創設を提案。
優れたその意見は、即座に採用されます。
このように勝海舟こそ幕府海軍の創設立役者のように思われますが、注意も必要です。
勝海舟の提言の際、阿部正弘は他にも広く意見を求める【言路洞開(げんろとうかい)】路線をとっております。
勝の提言はその中でも光るものはありましたし、世に出る機会となったことは確かですが、過大評価されている可能性も否めません。
『逆賊の幕臣』で主人公の小栗忠順は、この勝海舟とライバル関係にあると喧伝されております。
幕府の海軍創設にしてもそう。阿部正弘の死後、大老・井伊直弼に抜擢された小栗の方が功績は重要かと思われるのです。
他の幕臣にしても同様で、明治維新をくぐりぬけて生存した勝の言い分がより大きく通りやすいことをふまえ、先に進みましょう。

勝海舟/wikipediaより引用
それまでの江戸幕府は、どんな造船政策をとっていたか?
・慶長14年(1609年)に徳川幕府は諸大名の500石以上積みの船を没収し、建造を禁止
・寛永12年(1635年)の【武家諸法度】では、500石積み以上の船の停止を規定
要は、大名による海軍力保有を禁止していたわけで、阿部正弘は、この禁令を撤回したのです。
そして、浦賀では早速、船の建造がスタート!
1853年に取り掛かるやいなや、なんと8ヶ月後の1854年に完成というスピードで「鳳凰丸」ができあがりました。
その中心人物として建造を進めていたのが中島三郎助です。
なんでもかんでも日本人スゴイ論に結びつけるのは避けたいところですが、生来の器用さ、頭の良さがうかがえますね。
あるいは江戸時代の成熟した職人技術が可能にしたのかもしれません。
勝海舟らからは「なんちゃって西洋船サ」と断言されてしまったこの船。
実は勝のハッタリ低評価とも言えるものです。
中身は相当シッカリしたもので、一年も経たずに自力で船を作ってしまう幕府の底力を感じさせます。
次に作られたのが「ヘダ号」でした。
津波にあった「ディアナ号」が壊れてしまい、帰国できなくなったプチャーチンらを帰国させるために建造さたものです。
イギリスの文献を参考にしつつ、悪戦苦闘しながら作られた「ヘダ号」は、プチャーチンらを帰国させることができました。

プチャーチン/wikipediaより引用
黒船来航でアタフタしていた印象の強い幕府は、実のところ来航早々自分たちで船を造れるようになったんですね。
たいしたものではないですか?
幕府海軍、始動
もちろん手放しでは喜べません。
「鳳凰丸」も「エダ号」も所詮は輸送船ではないか、とも言えるわけで。
戦う船を作り、それを操縦する人を養成するためには、海軍がやっぱり必要となるわけです。
むろん、いきなり「海軍を作るぞ!」と簡単には進みません。
幕府はまず、オランダに相談しました。
ここで、岩瀬忠震にアドバイスをした親切なオランダ人・ファビウス船将が出てきます。

岩瀬忠震/wikipediaより引用
「いいですね! オランダから人員を派遣しましょう」
学ぶとなれば留学か、招聘か。
迷った末に、幕府は後者を選びました。
なお、前者の留学も却下されたわけではなく、幕臣から選抜された優秀な者たちが向かうことになります。その留学生に含まれていた榎本武揚こそ、後に【幕府海軍】最強の海将となるのでした。
親切なオランダの助けを借り、当初は浦賀で訓練をすることも検討されます。
しかし、江戸に近すぎるといった点も考慮され、長崎に決定。

長崎海軍伝習所/wikipediaより引用
さらには【築地海軍操練所】もできあがります。
【万延元年遣米使節】での咸臨丸での航海は、幕府海軍の成果確認の意味もあったとされます。勝海舟は盛んにこのことを己の功績として語っておりますが、これまた要注意でして。
咸臨丸に同船していた福沢諭吉からすれば「また勝がホラを吹いている」と苦笑したくなるものとなりかねません。
なにせ勝は船酔いが酷く、ろくに船室から出てきません。
アメリカ帰りのジョン万次郎の奮闘により、沈没を免れたというのが真相でしょう。
そもそもこの咸臨丸にせよ、実際のところは使節としては予備です。ポーハタン号に乗り込んでいた小栗忠順の方がはるかに重要な役割を果たしているのです。
職制も変更されました。
新設の役職にはこんなものがあります。
・軍艦奉行
・軍艦頭取
・軍艦組
幕府のみならず、諸藩でも蒸気船開発、購入の動きが進んでゆきます。
このあと、アメリカから帰国した小栗忠順がこの造船をさらに推し進めることになります。
アメリカで手にしたネジに製鉄技術の精髄を見出した小栗は、フルスロットルで日本の近代化に着手。
オランダは付き合いが長いとはいえ、欧米列強の中ではどうしても小国となってしまうため、他国の協力も必須と考えました。
ロシアとイギリスは、当時【グレートゲーム】と称される世界規模の派遣争いを繰り広げていて、手を組むにはあまりに危険です。
そこで小栗忠順と栗本鋤雲ら幕閣は、消去法でフランスと手を組むこととします。
彼らの助力を得て、江戸に近い横須賀に【横須賀製鉄所(造船所)】ができあがり、スチームハンマーが動き出すのでした。
「海軍がまるごと残っているでしょ!」
問題はここからです。
結局、幕府の海軍ってどうなったのか?
勝海舟が海軍伝習所を作って、中島三郎助はその一期生になり、咸臨丸で海を渡って……というところまでは「あぁ、なんとなく思い出せる」という方も多いかもしれません。

咸臨丸/wikipediaより引用
「長崎海軍伝習所で坂本竜馬たちが学んだと思っていたら、いつの間にか榎本武揚が函館で負けていたぜ!」
これぐらいの認識ではないでしょうか?
陸上の政治闘争が過熱し、特に京都に集中。
海の存在感が希薄になり、戊辰戦争でも際立った活躍は見えない。
要は、特に意味の無いカード扱いだったんですよね。
これは海軍が無能というよりも、幕府がむざむざ絶好のカードを捨てた感があります。
鳥羽伏見の敗戦から逃げ帰ってきた徳川慶喜に対し、勝海舟は
「何をしているんですか! 海軍がまるごと残っているでしょ!」
と全力で突っ込んだわけです。
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慶喜が本気で戦う気があれば、海軍はかなり利用できたはずでした。
幕府関係者は軍艦を活用しております。後述しますが、なんせ将軍の家茂も軍艦で移動しているほどです。危険ならそんなことはさせられるはずもない。
つまり幕府の敗因は、戦わずして逃亡した徳川慶喜のせいと言えるでしょう。
実のところ【江戸城無血開城】の際も、榎本武揚率いる艦隊は問題でした。
高橋泥舟が榎本を説得し、彼も納得したように見えたのです。しかしその次の日、榎本は艦隊ともども江戸を去ってしまいました。榎本が全く納得できないほど、幕府海軍は無傷であったのです。
そして、こうした歴史を今後広く浸透させる作品が『逆賊の幕臣』となるはず。
主人公である小栗忠順、彼と共に歩む栗本鋤雲は、全力で日本近代化を進めていました。
海軍のみならず、陸軍も作り上げ、来る日に備えていたのです。
留学した榎本武揚も、極めて優秀な人物となりました。西洋の軍事や科学を学び、日本へ戻ってきた。彼こそ日本最強の海将でした。
こんなにあった軍艦の利用
移動のみならず、幕府海軍はちゃんと役に立った部分もあります。
・軍艦による外国人居留地「横浜」のパトロール
・小笠原諸島の開拓への利用
・将軍家茂の上洛
特にインパクトが大きく、大変だったのが文久2年(1862年)の将軍・徳川家茂上洛です。

徳川家茂/wikipediaより引用
攘夷にこだわる朝廷に対し、軍艦による移動をアピールすることは実に大きなメリットがありました。
とはいえ、万が一、沈没して将軍が海の藻屑と化してしまったら……目も当てられません。
更には、伝統的な陸路を変更することは並大抵のことではありません。
この時期の幕府といえば政治的に右往左往。
その一方で、こうした断固たる革新も行っていたわけです。
政治劇ばかりではなくて、こういう部分もちゃんと注目しないと、幕末はなかなか見えて来ないのかもしれません。
家茂の上洛で指揮を執った勝海舟は、面と向かって将軍に海軍の有用性を説きます。
そこで家茂も柔軟な発想を見せ、勝の発案を取り入れると確約、彼を感動させました。
歴史に“もしも”はありえませんが、家茂が将軍のままならば、海軍を切り札にした有利な戦闘の可能性を感じなくはありません。
しかし、彼はその後21才にして亡くなってしまうのでした。
使われなかった切り札
幕府海軍は決して弱かったわけでも、使い物にならなかったわけではありません。
ただ、実際に活躍はできなかった。
なぜか?
政治的な失敗です。
【長州征討】でも幕府は海軍が使えたら、長州に勝ち目はありません。
しかし、イギリスは水面下で長州を支援し、フランスと手を組んだ幕府を崩壊させようと目論んでいました。
このイギリスが主導し「海上戦闘で我が国の船が巻き込まれたら危険だ」と言い張ったために、幕府は海軍力を封じられているのです。
福沢諭吉は後に「外国の支援を得てでも長州を潰していれば倒幕はなかった」と回想しています。
確かにそうなのでしょう。支援もそうですが、あのとき強引にでも海軍を動員していたら、歴史は変わっていたかもしれません。
【鳥羽・伏見の戦い】のあと、徳川慶喜は海軍を江戸への逃走にだけ使用しています。これは幕府権威と士気を決定的に低下させました。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用
前述のように、勝海舟は怒り「なんで海軍を使わないのか!」と進言しました。
小栗忠順はさらに陸軍も駆使して、西軍迎撃策も練っています。
しかし、こうした策とて、慶喜が縮こまってしまったらどうしようもない。トップが劉禅であれば、諸葛亮が何人いようと無駄なのです。
諦めきれない榎本武揚らが北海道まで艦隊を率いて向かい、それを新政府軍が追います。
それでも勝てず、ついにはアメリカの軍艦・ストーンウォール号を提供されて、やっと【箱館戦争】に勝利をおさめることができました。
ちなみにこのストーンウォールは幕府が発注していたものです。
それが納品の前、西洋諸国の公使同士が会議を行い「自国民を巻き込む内戦が長引いては危険だ」とイギリスがアメリカを説得しました。そしてアメリカが折れ、新政府側に提供することになったのです。
明治維新とは、日本人だけでなく、西洋諸国の思惑ありきで成立したクーデターでした。
榎本はその能力の高さを見出され、薩摩の黒田清隆が助命嘆願したのです。
結論としましては……
幕府の海軍は連戦連勝、近代の基礎となる――
むしろ優秀だったのに、政治的に敗北してしまい使われなかった、というのが適切なところでしょう。
これは私の個人的な意見ではありません。【日露戦争】のあと、東郷平八郎が【日本海海戦】の勝利は小栗忠順のおかげだと感謝しているのです。
黒船来航から15年後、日本の海で起こったこと
冷静に考えてみますと、幕府はあまりに過小評価されていると思えてきます。
黒船来航からわずか15年間で、日本人同士が海軍を率いて戦えるようになったのです。
船を作り、輸入し、操縦し、戦う。そこまで来ていた。
ここで疑問が湧いて来るのが、このことです。
「もしも倒幕がなければ、日本は近代化できなかったのか?」
明治維新といいますと、薩長の開明的な政治・外交があったから日本は近代化へ進んだ――翻って、徳川幕府のままなら旧態依然の封建制度に甘んじていただろう――という捉え方をされがちです。
しかし流れを見ていると、決してそうではないでしょう。
もしも幕府が存続していたら、勝海舟がそうしたように軍備を整え、来るべき世界の動きに対応していた可能性は十分にあります。
そうした柔軟さも人材も十分に備えておりました。
現に大隈重信は「明治の近代化は、ほとんど彼の構想を模倣したに過ぎない」として小栗忠順を振り返っています。
2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主役に抜擢されたこの小栗忠順こそ、明晰な頭脳の持ち主として知られながら、冤罪で新政府軍に処刑された幕臣です。

小栗忠順/wikipediaより引用
幕末を経ての文明開化というと様々な業績が紹介されますが、技術力、海軍力の伸びも凄かった! ということは、もっと周知されても良さそうな気がします。
★
幕府海軍最後の戦いに、中島三郎助は榎本武揚らと共に参戦。
降伏勧告を無視して戦い続け、息子二人と一緒に壮絶な戦死を遂げています。
ペリー来航時に相手から嫌がられるほど質問を続けた中島は幕臣として、技術者として、武士として、幕府海軍の始まりから終焉まで見届けたことになります。
彼の胸中に去来したものは、一体何だったのか。
中島の辞世は、以下の通りです。
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」
無念の思いが伝わってきます。
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【参考】
神谷大介『幕末の海軍: 明治維新への航跡』(→amazon)
浦賀市/中島三郎助まつり(→link)
中島三郎助父子最後之地(函館市)(→link)
岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争 (新書y)』(→amazon)
NHKスペシャル取材班『新・幕末史』(→amazon)










