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勝海舟の発案で1854年に建造された鳳凰丸/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

江戸幕府の海軍はなぜ不完全燃焼で終わった?幕臣・中島三郎助と勝海舟の無念

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もくもくと煙をあげて来航するペリー艦隊。
そして度肝を抜かれる日本人――。

もはや大河ドラマなどフィクション作品でお馴染みとなった光景でしょう。

ペリー来航/wikipediaより引用

ただ、日本中の誰もが
「ギョエーッ! 黒いバケモンだぁ!」
と驚いていたかというとそうでもありません。

「あ、黒船。やっぱりいつか来るよなあ……わかってたけどさ〜」
という割と冷めた反応もありまして。

なんせ沿岸部には、19世紀の初頭から捕鯨船はじめ外国船が姿を見せておりました。

ドラマ『西郷どん』でも島津斉彬が「予測していた!」となかなか芝居がかった演出をされておりましたが、その先代である島津斉興の時代からわかっていたことです。
海岸線が長く、外国船を目にする機会の多かった水戸藩でもあらかじめ認知しておりました。

そして、そうした情報は幕府にも当然のことながら届いており、彼らの中にも、
「うちも早くああいうの作らないといけないけど、いくらかかるんだろ」
と考えていた者がおりました。

幕末作品にありがちな幕府無能というのは、まぁ、過小評価のフィクションでして。

実は江戸幕府の時代でも、船艦建造と海軍創設はなされていたわけです。

ただ、印象が薄い。
それはナゼだったのか?

今回は、江戸幕府の海軍について見てみたいと思います。

 

探索好きの与力・中島三郎助

ペリー来航の嘉永6年(1853年)。
彼らが浦賀で待機しておりますと、浦賀の与力である中島三郎助と香山栄左衛門らは乗船しました。

これまでの作品であれば、ドキドキ慌てふためき、船の中で縮こまっている幕臣の姿が描かれるかもしれません。

が、現実は真逆。
中島と香山の優雅な仕草と溢れる教養に、ペリーも驚きます。

ただし、二人の印象は、対称的でした。
香山は丁寧な物腰で、優しく、物静かな紳士で、ウイスキーが大好き。

一方の中島は、どこまでも詮索好きで、厚かましく、止められようがアチコチ探索し、銃器類の構造を見て、測定までし始めました。

「なんだあの男は、いくらなんでも厚かましいなあ」

なぜ中島はそんなに空気も読まずにキョロキョロしていたかというと、もちろん偵察のためです。
そう考えると、気持ちよく酔っ払ってしまった香山より、仕事をしたということかもしれません。

とはいえ、おそらくペリー艦隊側も、まさか日本人が自分たちの手で蒸気船を作るとは考えていなかったと思われます。

その“まさか”に、日本人は挑むのです。

 

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今度は自分たちで黒船を作ろう!

時代は海軍だ――そう先を読んでいた者は、前述のように幕臣におりました。

阿部正弘がペリーに対する意見を求めたところ、蘭学に通じた勝海舟が海軍創設を提案。
優れたその意見は、即座に採用されます。

勝海舟/wikipediaより引用

と、その前に少し歴史を振り返ってみますと……。

慶長14年(1609年)、徳川幕府は諸大名の500石以上積みの船を没収し、建造を禁止。
寛永12年(1635年)の「武家諸法度」では、500石積み以上の船の停止を規定しました。

要は、大名による海軍力保有を禁止していたわけで。
阿部正弘は、この禁令を撤回したのです。

そして、浦賀では早速、船の建造がスタート!
1853年に取り掛かるやいなや、なんと8ヶ月後の1854年に完成というスピードで「鳳凰丸」ができあがりました。

なんでもかんでも日本人論に結びつけるのは避けたいところですが、生来の器用さ、頭の良さがうかがえますね。
あるいは江戸時代の成熟した職人技術が可能にしたのかもしれません。

勝海舟の発案で1854年に建造された鳳凰丸/wikipediaより引用

勝海舟らからは「なんちゃって西洋船サ」と断言されてしまったこの船。
実は勝のハッタリ低評価とも言えるものです。

中身は相当シッカリしたもので、一年も経たずに自力で船を作ってしまう幕府の底力を感じますね。

次に作られたのが「ヘダ号」です。
これは津波にあって乗船「ディアナ号」が壊れてしまい、帰国できなくなったプチャーチンらを帰国させるために建造さたもの。
イギリスの文献を参考にしつつ、悪戦苦闘しながら作られた「ヘダ号」は、プチャーチンらを帰国させることができたのでした。

黒船来航であたふたしていた印象が強い幕府ですが、実は来航早々自分たちで船まで造れるようになったんですね。
たいしたものではないですか?

英米よりずっと紳士でプーチン以上の親日家プチャーチンを知っているか?!

 

幕府海軍、始動

もちろん手放しでは喜べません。

「鳳凰丸」も「エダ号」もあくまで輸送船ではないか、とも言えるわけでして。
戦う船を作り、それを操縦する人を養成するためには、海軍がやっぱり必要となるわけです。

いきなり海軍を作るぞ、とはそうそうなりえません。

そこで幕府は、オランダに相談してみました。
ここで、岩瀬忠震にアドバイスをした親切なオランダ人・ファビウス船将が出てきます。

日米修好通商条約の真実と岩瀬忠震~ハリスを圧倒した凄腕の交渉人が幕臣にいた!?

「いいですね! オランダから人員を派遣しましょう」

学ぶとなれば留学か、招聘か。
迷った末に、幕府は後者を選びました。

親切なオランダの助けを借り、当初は浦賀で訓練をすることも検討されました。
が、江戸に近すぎるといった点も考慮され、長崎に決定。

長崎に海軍伝習所を設立! 幕府だって海軍こさえておりましたのや

さらには【築地海軍操練所】もできあがります。
咸臨丸での航海は、幕府海軍の成果確認の意味もあったわけですね。

職制も変更されました。
新設の役職にはこんなものがあります。

・軍艦奉行
・軍艦頭取
・軍艦組

幕府のみならず、諸藩でも蒸気船開発、購入の動きが進んでゆきます。

 

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「海軍がまるごと残っているでしょ!」

さて、問題はここからです。

結局、幕府の海軍ってどうなったの?

勝海舟が海軍伝習所作って、咸臨丸で海を渡って……というところまでは「ああ、なんとなく思い出せる」という方も多いかもしれません。

「長崎海軍伝習所で坂本竜馬たちが学んだと思っていたら、いつの間にか榎本武揚が函館で負けていたぜ!」
ぐらいの認識ではないでしょうか?

陸上の政治闘争が過熱し、特に京都に集中。
海の存在感が希薄になり、戊辰戦争でも際立った活躍は見えない。

要は、特に意味の無いカード扱いだったんですよね。

これは海軍が無能というよりも、幕府がむざむざ絶好のカードを捨てた感があります。

鳥羽伏見から徳川慶喜が逃げ帰ってきた時、勝海舟は
「何をしているんですか! 海軍がまるごと残っているでしょ!」
と全力で突っ込んだわけです。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用

慶喜が本気でドンパチする気ならば、海軍はかなり利用できたはずなのです。
読み流してしまいがちですが、幕府関係者は結構な頻度で軍艦を使って移動しています。

浦賀の軍港化、製鉄所の建造も進んでいたのです。

 

こんなにあった軍艦の利用

移動のみならず、幕府海軍はちゃんと役に立った部分もあるのです。

・軍艦による外国人居留地「横浜」のパトロール
・小笠原諸島の開拓への利用
・将軍家茂の上洛

特にインパクトが大きく、大変だったのが文久2年(1862年)の将軍・徳川家茂上洛です。
攘夷にこだわる朝廷に対し、軍艦による移動をアピールすることは実に大きなメリットがありました。

とはいえ、万が一、沈没して将軍が海の藻屑と化してしまったら……目も当てられません。
更には、伝統的な陸路を変更することは並大抵のことではありません。

この時期の幕府といえば政治的に右往左往しておりまして。
その一方で、こうした断固たる革新も行っていたわけです。

政治劇ばかりではなくて、こういう部分もちゃんと注目しないと、幕末はなかなか見えて来なさそうです。

家茂の上洛で指揮を執った勝海舟は、面と向かって将軍に海軍の有用性を説きます。
そこで家茂も柔軟な発想を見せ、勝の発案を取り入れると確約、彼を感動させました。

歴史に“もしも”はありえませんが、家茂が将軍のままならば、海軍を切り札に抗戦した可能性も感じなくはありません。

しかし、彼はその後21才にして亡くなってしまうのでした。

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使われなかった切り札

幕府海軍は決して弱かったわけでも、使い物にならなかったわけではありません。

ただ、実際に活躍はできなかった。
なぜか?

政治的な失敗です。

もしも幕府海軍が本気で「長州征討」を行っていたら、その後も活躍の場があったはずです。

しかし、将軍家茂の死や薩摩側・西郷隆盛のサボタージュといった各種要素により、この「長州征討」は失敗。
幕府の権威は失墜しました

さらには鳥羽伏見の戦いのあと、徳川慶喜は海軍を江戸への逃走にだけ使用(乗り逃げ状態)。
戦力として放棄してしまったのも大きいです。

前述のように、勝海舟は怒り「なんで海軍を使わないのか!」と進言したほど。

諦めきれない榎本武揚らが北海道まで艦隊を率いて向かったものの、その頃には新政府軍も海軍を増強しており、結局、敗北してしまいます。

榎本武揚/wikipediaより引用

結論としましては……。

幕府海軍事態はそこまで弱くない。
むしろ優秀だったのに、政治的に敗北してしまい使われなかった。

 

黒船来航から15年後、日本の海で起こったこと

別に幕府の肩を持つわけではありませんが……。

それでもやっぱり現状の低すぎる評価は物悲しいものがあります。

冷静に考えてみると凄いことではありませんか?
黒船来航からわずか15年間で、日本人同士が海軍を率いて戦えるようになったのです。

船を作り、輸入し、操縦し、戦う。そこまで来ていたわけです。

ここで疑問が湧いて来るのが、これ。

【もしも倒幕がなければ、日本は近代化できなかったのか?】

明治維新といいますと、薩長の開明的な政治・外交があったから日本は近代化へ進んだ――翻って、徳川幕府のままなら旧態依然の封建制度に甘んじていただろう――という捉え方をされがちです。

流れを見ていると、決してそうではないでしょう。
もしも幕府が存続していたら、勝海舟がそうしたように軍備を整え、来るべき世界の動きに対応していた気がしてなりません。

そうした柔軟さは十分に備えておりました。

幕末からの文明開化と申しますと、様々な業績が紹介されますが、技術力、海軍力の伸びも凄かった!
ということはもっと認識しても良さそうな気がします。

幕府海軍最後の戦いには、榎本武揚らと共に中島三郎助も参戦。
降伏勧告を無視して戦い続け、息子二人と一緒に壮絶な戦死を遂げています。

ペリー来航時に相手から嫌がられるほど質問を続けた中島は幕臣として、技術者として、武士として。
幕府海軍の始まりから終焉まで見届けたことになります。

彼の胸中に去来したものは、一体何だったのでしょう。

中島の辞世は、以下の通りです。
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」

無念の思いが伝わってきます。

中島三郎助/wikipediaより引用

文:小檜山青




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【参考】
『幕末の海軍』神谷大介
浦賀市/中島三郎助まつり
中島三郎助父子最後之地(函館市)

 



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