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秋月悌次郎/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

秋月悌次郎(ていじろう)幕末の動乱を生き抜いた会津屈指の秀才 その生涯77年

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小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、熊本の学校で印象的な漢文教師に出会いました。

穏やかな老賢者とでも言うべきたたずまいの人物。
不思議なことに、彼が発するたった一言の言葉で、血気に逸る生徒たちも気持ちを静めることができるのです。

剛毅、誠実、高潔――。
古き良き日本の魂を持つこの教師を、ハーンは聖なる老人、神のようだと回想しています。

かつて会津藩の俊英として様々な困難と向き合ってきた人物でした。
若き日の彼は、藩内でも屈指の秀才として知られていました。

名は秋月悌次郎
信念を貫いた人物でした。

 

日新館の秀才

秋月悌次郎胤永(あきづきていじろうかずひさ)は文政7年(1824)に誕生。
会津藩士・丸山四郎右衛門胤道(かずみち)の二男にあたります。

丸山家は、保科正之の代のころからの家臣です。

正之に従い、山形を経て、会津に移住した由緒ある家柄。家督を継ぐ長男以外は別の姓を名乗っています。
そのため、悌次郎と弟は「秋月」姓なのです。ただし、他家の養子となったわけではありません。

会津藩士の子弟は6才から9才にかけて、
「什 (じゅう)
と呼ばれる少年グループに所属します。おそらくや悌次郎も入ったことでしょう。

「ならぬことはならぬ」
この言葉で知られる「什の掟」は、この少年グループのルールでした。

会津藩士の子弟として、彼は10才で藩校日新館への入学を果たします。

日新館は会津藩の藩校。
漢文から弓馬刀槍の武術まで、様々な分野を学びます。
水練(水泳)用のプールだけでなく、当時、日本でも二カ所しかなかった天文台等も備えるという、充実した施設でした。

日新館天文台跡/photo by Mukasora wikipediaより引用

漢文を習い、メキメキと力をつける悌次郎。

儒教の経典をおさめる素読所を優秀な成績で修了した者は、講釈所に進学できます。
更に、そこで優秀な成績をおさめれば、江戸留学のチャンスが与えられます。

悌次郎はこのエリートコースを着実に、しかも他人より早く歩みました。
会津日新館の秀才から、全国屈指の秀才にまで。
その階段を駆け上がったのです。

 

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昌平坂学問所のトップ

天保13年(1842年)。
悌次郎は19才で江戸に遊学します。
それから5年後、23才で昌平坂学問所(昌平黌)書生寮に入学しました。

「秋月くんっていつ寝ているの? いつ見ても勉強しているよね!」
周囲にそう驚かれるほど、ともかく勉強、勉強という取り組みぶり。

昌平坂学問所は、現在の東京大学の源流でもあり、当時トップクラスの教育機関です。
そこで脇目もふらずに学問に励み、31才で舎長にまで上り詰めました。

当時の教育機関ナンバーワンですから、これはすなわち日本一の秀才ということですね。

悌次郎はそこで舎長を三年間つとめます。
ラフカディオ・ハーンが感服した学識も、この日新館時代と昌平黌で身につけたものでしょう。

また、会津藩から出て他藩の人々と交流したことも、彼の財産となりました。
会津藩に戻った悌次郎は、藩命により西国諸国を見て回ることになります。ここで得た知遇も、後の人生に影響を及ぼすことになるのです。

 

薩摩藩との同盟に尽力

もし、このまま平穏に歳月が流れていたら……悌次郎は、きっと会津藩出身の秀才として名を残しただけであったことでしょう。

しかし時代は大きく動き、会津藩も厳しい情勢に巻き込まれてゆきます。

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保はまさに火中の栗を拾うような役職「京都守護職」就任を命じられ、上洛します。

悌次郎は藩の公用方として京都へ向かいました。
公家や他藩との交渉役です。
かつて江戸で他藩の人々とも交流した悌次郎にふさわしい役目でした。

京都の政局において、当初、会津藩は薩摩藩と同盟していました。
この際に交渉に当たったのが悌次郎と、薩摩藩士の高崎佐太郎(高崎正風)です。

高崎正風/wikipediaより引用

この時期、西郷隆盛は流刑中であり大久保一蔵大久保利通)は薩英戦争のため国元にいました。
高崎は島津久光の意を汲んだ行動をとっており、のちに西郷・大久保らの武力による倒幕路線と対立することになります。

手を組んだ会津藩と薩摩藩は、文久3年(1863)、長州藩相手に「八月十八日の政変」で勝利を得ます。

この政変で、両藩は過激な長州藩士、および彼らに味方していた公卿を京都から追放することに成功。
同時に、薩摩と会津は、長州藩士の憎しみを買い、暗殺の標的にされたとも伝わります。

もしもこの状況が続いたらなば、会津藩のその後は違っていたかもしれません。

 

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左遷、そして戊辰戦争

しかし翌元治元年(1864)、悌次郎を推挙していた京都詰家老の横山主税常徳が、病で帰郷し、そのまま亡くなってしまいました。

横山は、悌次郎だけでなく広沢富次郎安任といった有能な者たちを、家格を気にせずに抜擢した賢明な人物です。
この横山が亡くなると、藩内では悌次郎に対する風当たりがキツくなっていきます。

会津藩には「紐制・襟制」というものがありました。
身分によって身につける羽織紐や襟の色を分ける制度です。2013年大河ドラマ『八重の桜』でも、紐の色が人物によって分けられていました。

つまり、ぱっと見ただけでこの人物はどの身分かわかるわけです。

身分が色ではっきりと見えるようになると、
「なんだ、あの色の紐のくせに、俺よりもでかい顔をしているじゃないか」
と、階級意識を煽ることにもつながります。

家格以上に活躍する悌次郎も、そんな階級意識を刺激してしまう存在であったのでしょう。
横山の死後、左遷して東蝦夷に送られてしまいます。なんとも惜しいことです。

しかし当時は動乱の時代です。
慶應2年(1866年)、悌次郎は再び京都に呼び戻され、公用方、のちに軍事奉行添役に就任します。

 

「流石は会津、学問に優れちょる」

時既に遅く、会津藩が政治的な巻き返しを成し遂げることは不可能でした。

その翌慶應3年(1867年)、松平容保は京都守護職を解任されるのです。
さらに慶應4年(1868年)、会津藩は恭順を願い出るものの、これを退けられ、泥沼の戊辰戦争へ引きずり込まれてしまいます。

同年9月22日、会津若松城下、甲賀町にて。
一ヶ月にも及んだ地獄の籠城戦が終わり、会津藩は降伏し開城することになりました。

ボロボロになった会津若松城・戊辰戦争後に撮影/Wikipediaより引用

このとき悌次郎は他の家老たちとともに、容保・喜徳父子の背後で控えていました。

目の前にはかつて会津と同盟を結んでいた薩摩藩士たちがいます。
それが、なぜ、こんなことになってしまったのか。

悌次郎は悔しさをこらえ、降伏の式に挑みます(会津藩降伏図)。

容保と重臣たちが降伏嘆願書を手渡すと、軍監の中村半次郎はそれを読み驚きました。

「ほんのこて見事な文章じゃ。流石は会津、学問に優れちょる」
中村は会津藩の学問レベルに感心したのです。

式が終わると、その間、容保や重臣たちが座していた緋色の毛氈が小さく切り刻まれ、藩士たちに配られました。

「泣血氈(きゅうけつせん)」

そう呼ばれた赤い小さなかけらは、再起を誓う決意を込め大事に保管されたのでした。

 

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北越潜行の詩

開城後、会津藩士たちは猪苗代で謹慎処分を受けました。
悌次郎もその中にいました。

彼はあるとき、そっと謹慎所を抜け出すと、当時会津坂下にいた越後口の西軍参謀・奥平謙輔のもとを訪れます。
奥平は前原一誠の親友で、彼と前原は会津藩士に心を寄せ、寛大な処置を願っていました。

奥平謙輔/wikipediaより引用

奥平は以前から悌次郎とは旧知の仲で、深い交流がありました。
彼は猪苗代に悌次郎がいることを知って、会津藩士の健闘ぶりを讃える手紙を送っていたのです。

手紙を受け取り、悌次郎は希望の光を見いだしました。

いま、会津は壊滅的な打撃を受けてしまっています。
しかし、これから若者に未来を託すことで、道が開けるかもしれません。

悌次郎は容保・喜徳父子への寛大な処置を願うとともに、優秀な少年を選抜し、奥平に預けることに決めました。
そのうちの一人が山川健次郎です。

山川健次郎/Wikipediaより引用

彼は国費留学生に選抜され、イェール大学で物理学の学位を取得、東大総長にまで上り詰めることになります。
もう一人の小川亮は、陸軍大佐にまで出世したものの、夭折してしまいました。

少年たちはまさしく未来への希望でした。

奥崎と出会った帰り道、悌次郎は「北越潜行の詩」を詠みました。

漢文に優れ、生涯漢詩を詠み続けた彼の作品でも、最も有名なものです。
会津藩士の苦悩を詠んだ詩として、高い評価を得ています。

平成25年(2013)、この詩を刻んだ碑が、会津坂下町束松峠に建てられました。

会津若松城三ノ丸にも、碑があります(参考リンク)。

 

剛毅朴訥の教育者

猪苗代での謹慎ののち、悌次郎は会津藩の首謀者として終身禁固刑を命じられました。

彼は罪人として監獄を転々とされられます。
そして明治5年(1872年)、特赦となり釈放された悌次郎は、久々に会津の地を踏みました。

その後、新政府の左院少議生に任じられ東京でつとめを果たすものの、三年後に辞職。
明治13年(1880年)からは教育者として、残りの人生を過ごすことになります。

教諭を歴任して後進の育成にあたり、明治23年(1890年)に熊本第五高等中学校の教授となりました。

ラフカディオ・ハーンの同僚となったのは、ここでのことです。

穏やかな人柄でありながら、剛毅朴訥の精神を持つ悌次郎は、名物教師として生徒からも教師からも敬愛されました。

小泉八雲ことラフカディオ・ハーン/wikipediaより引用

五高の名物行事に、遠足というものがありました。
現在の遠足はバスや電車といった交通機関を使うものですが、当時は文字通り遠くまで足で歩く行事です。

帰路、険しい山道をくだっていると、激しい雨が降り始めました。

すると悌次郎は枯れ草を坂道に撒き始めました。

生徒が一体何をしているのですか、とたずねると
「こうして草を撒いておくと、あとから来る人が滑らなくなるからな」
と答える悌次郎。
生徒たちはその優しい心根に感動を覚えたのでした。

明治28年(1895年)、72才の悌次郎は熊本五高を辞し、故郷会津に戻りました。
それから明治33年(1900年)に77才で没するまで、家塾で若者たちに学問を教え続けます。

幕末という動乱の時代を生きたのち、教育者として生き抜いた悌次郎。
その高潔で朴訥とした生き方は、すがすがしい風のような爽やかさを感じるのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『信念を貫き通した会津藩士秋月悌次郎』秋月悌次郎顕彰会

 




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