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【秋月悌次郎】
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北越潜行の詩
開城後、会津藩士たちは猪苗代で謹慎処分を受けました。
悌次郎もその中にいました。
彼はあるとき、そっと謹慎所を抜け出すと、当時会津坂下にいた越後口の西軍参謀・奥平謙輔のもとを訪れます。
奥平は前原一誠の親友で、彼と前原は会津藩士に心を寄せ、寛大な処置を願っていました。
奥平は以前から悌次郎とは旧知の仲で、深い交流がありました。
彼は猪苗代に悌次郎がいることを知って、会津藩士の健闘ぶりを讃える手紙を送っていたのです。
手紙を受け取り、悌次郎は希望の光を見いだしました。
いま、会津は壊滅的な打撃を受けてしまっています。
しかし、これから若者に未来を託すことで、道が開けるかもしれません。
悌次郎は容保・喜徳父子への寛大な処置を願うとともに、優秀な少年を選抜し、奥平に預けることに決めました。
そのうちの一人が山川健次郎です。
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彼は国費留学生に選抜され、イェール大学で物理学の学位を取得、東大総長にまで上り詰めることになります。
もう一人の小川亮は、陸軍大佐にまで出世したものの、夭折してしまいました。
少年たちはまさしく未来への希望でした。
奥崎と出会った帰り道、悌次郎は「北越潜行の詩」を詠みました。
漢文に優れ、生涯漢詩を詠み続けた彼の作品でも、最も有名なものです。
会津藩士の苦悩を詠んだ詩として、高い評価を得ています。
平成25年(2013年)、この詩を刻んだ碑が、会津坂下町束松峠に建てられました。
会津若松城三ノ丸にも、碑があります(参考リンク)。
剛毅朴訥の教育者
猪苗代での謹慎ののち、悌次郎は会津藩の首謀者として終身禁固刑を命じられました。
彼は罪人として監獄を転々とされられます。
そして明治5年(1872年)、特赦となり釈放された悌次郎は、久々に会津の地を踏みました。
その後、新政府の左院少議生に任じられ東京でつとめを果たすものの、三年後に辞職。
明治13年(1880年)からは教育者として、残りの人生を過ごすことになります。
教諭を歴任して後進の育成にあたり、明治23年(1890年)に熊本第五高等中学校の教授となりました。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の同僚となったのは、ここでのことです。
穏やかな人柄でありながら、剛毅朴訥の精神を持つ悌次郎は、名物教師として生徒からも教師からも敬愛されました。
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五高の名物行事に、遠足というものがありました。
現在の遠足はバスや電車といった交通機関を使うものですが、当時は文字通り遠くまで足で歩く行事です。
帰路、険しい山道をくだっていると、激しい雨が降り始めました。
すると悌次郎は枯れ草を坂道に撒き始めました。
生徒が一体何をしているのですか、とたずねると
「こうして草を撒いておくと、あとから来る人が滑らなくなるからな」
と答える悌次郎。
生徒たちはその優しい心根に感動を覚えたのでした。
★
明治28年(1895年)、72才の悌次郎は熊本五高を辞し、故郷の会津に戻りました。
それから明治33年(1900年)に77才で没するまで、家塾で若者たちに学問を教え続けます。
幕末という動乱の時代を生きたのち、教育者として生き抜いた悌次郎。
その高潔で朴訥とした生き方は、すがすがしい風のような爽やかさを感じるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『信念を貫き通した会津藩士秋月悌次郎』(→日新館)
他