正平三年(1348年)1月5日、四条畷の戦いで楠木正行(まさつら)と楠木正時の兄弟が敗れ、刺し違えて自刃しました。
読み方は「しじょうなわてのたたかい」と言い、現在の大阪府四條畷市になります。
「誰それ?」といいたくなるような名前の上に初っ端からふりがなだらけで読みづらくて申し訳ありません。
彼らは楠木正成の息子で、父親が亡くなった後もその遺志を継いで戦い続けていたのです。
他にもう一人、楠木正儀(まさのり)という弟がいるのですが、四条畷のときは年齢的に無理だったのか、それとも別行動をしていたのか、一人だけ生き残ります。
正成親子については元の身分の低さも相まって、正しい生年がわかっていないのではっきりしませんが、おそらくはこのどちらかでしょう。
もし三人でまとまって全員討ち死にしたら、血筋が絶えてしまいますし。
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三木一草
事の発端は、鎌倉幕府を倒した後でした。
後醍醐天皇と公家達が
「武士はもういらん!これからは朝廷が政治やるから!」
と強引な舵取りをしようとしたことです。
※以下は建武の新政の関連記事となります
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて
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実際に幕府を倒したのは武士ですから、蔑ろにされれば頭に来るに決まっています。
が、上記の人々はこの点を全く理解していませんでした。
そうこうしているうちにドンパチが起き、「朝廷なんてクソくらえだ!」とする武士の多くが足利尊氏をリーダーに担ぎ上げ、尊氏を征夷大将軍として新たな幕府を作ろうと動き始めます。
足利尊氏はどんな経緯で征夷大将軍となった?ドタバタの連続だった54年の生涯
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これに対して、朝廷には正成を始めとした「三木一草」といわれる4名の武士達が味方しました。
・結城親光(ゆうき)
・名和長年(伯耆守のほうき)
・楠木正成(くすのき)
・千種忠顕(ちくさ)
「き」がつく人が三人、「くさ」がつく人が一人だったので、植物になぞらえてこう呼んだのだとか。
ゴロが悪いとか言っちゃダメです。
この四人は代々の武家というわけではなく比較的新しく勃興してきた勢力で、後醍醐天皇によって取り立てられたため武士でありながら朝廷側についたのです。
正成の意見はトコトン通らず
しかし人数的にも権勢的にも足利側のほうが上でした。
なんせ朝廷側は武士という存在そのものををナメきっているので、正成がいくら「こうすれば勝てます」と進言しても「尊氏はまぐれで勝ってるだけだから、そんな策を使わなくても次はこっちが勝つだろう」なんてこれまた軍事的センスのかけらもない理由ではねつけてしまっていたのです。
どうして自分が知らないことをそんなに断言できるのか……根拠のない自信ってコワイ。
これではいくら正成たちが頑張っても、戦う前から勝敗は見えています。
現代人、あるいは戦国武将であればこの辺でケツをまくるところですが、前述の通り三木一草は後醍醐天皇のおかげで日の目を見ることができたので、そういう選択肢を選べませんでした。
この辺の「忠義第一!」なところは江戸時代の武士に似てるかもしれませんね。
価値観の違いが入れ替わっているようで中々興味深いです。
桜井の別れ
どう見ても勝ち目のない戦いの中で、三木一草は次々と斃れます。
しかしタダではやられまいと、息子達に後を託して逝きました。
それが楠木正行(まさつら)・楠木正時・楠木正儀(まさのり)というわけです。
特に長男・正行と正成については【桜井の別れ】という逸話が有名ですね。
ただし、この話は創作の可能性も高いようです。
話の中で正行は11歳ということになっていますが、このとき正成が42歳くらいだったといわれているので、当時の結婚年齢等からすると不自然なんですね。
長男の正行が11歳だと、次男と三男は何歳だったんだよ? ってことになっちゃいますし。
正成の死が延元元年=建武三年(1336年)ですから、このとき正行が11歳だと戦死したのが23歳になり、いかにも「若くして華々しく散った忠臣」として美談にできるので年齢をいじくったのではないでしょうか。
閑話休題。
ともかく、こうした理不尽な理由で苦境に立たされたにもかかわらず、正成の息子達も朝廷(南朝)に尽くしました。
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