たとえ本人に凡人ならぬ能力が備わっていたとしても、凄まじいプレッシャーで悲劇的な運命を辿ってしまう人もいます。
しかし武家の場合は、そんな甘っちょろいことも言ってられないわけで……。
正平二年(1347年)11月26日に住吉合戦に挑んだ楠木正行(まさつら)も、おそらくはそんな気分だったでしょう。
楠木正成の長男です。
有名な「桜井の別れ」では父を案じつつも「俺の代わりに最後まで戦え」との命に従って名残を惜しみながら引き返したあの人ですね。
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500の寡兵で幕府軍6000に立ち向かった楠木正行
楠木正行は生年がはっきりしていないので何歳くらいだったのかはわかりません。
少なくとも「別れ」から住吉合戦までは10年ほどありますので、心身ともに父によく似た武士になっていたことでしょう。
この間には新田義貞など他のめぼしい武将もいなくなってしまっていたため、南朝方としても正行の存在は心強かったようです。
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現在の大阪府にある住吉や天王寺方面などで足利軍を打ち破り、名実共に中心的な存在になっていきます。
しかし、幕府軍としてもそうやられっぱなしでいるわけにはいきません。
そこで後々室町幕府の重鎮となる山名時氏と細川顕氏(あきうじ)という人物に6,000の兵を与えて、「正行を何とかしてこい!」と命じました。
大軍となると統率が取れずに自滅するのがテンプレですが、このときは別格。
上記の通り正行にコテンパンにやられた後でしたので、士気という名の殺る気は充分でした。
もともと数で不利なことがわかりきっている正行は、この知らせを聞いて「もし天王寺にでも篭られたら、寺社に弓を引くことになりかねない。善は急げだ!」(超訳)と考え、500ほどの小勢で幕府軍を迎え撃つべく出発します。
さらに100名ずつの隊を五つ作り、各個撃破を狙いました。
島津の退き口を彷彿とさせる
当然、幕府軍もこの動きは掴んでいて、数の有利を生かし包囲戦へ持ち込もうとします。
が、正行のほうが早く判断を下しました。
先程分けたばかりの100人×5隊をもう一度500人×1隊に編制し直して、一点集中攻撃をすることで包囲を突破しようとしたのです。
文章にすると簡単に見えますが、これは一筋縄どころの話ではありません。
多少敵陣を押して凹みのような部分を作ったところで、左右から囲まれたり再度陣形を作り直されたらお終いだからです。
モタモタしていると、さらに包囲を狭められて全滅するおそれすらあります。
もっとも、そこまで追い詰めると人間とんでもない力が出るもので、「窮鼠猫を噛む」そのままの現象が起きることが多かったようです。
わかりやすい例を挙げると、関ヶ原の戦いで島津義弘が東軍を正面から突破して国へ逃げ切った「島津の退き口」あたりでしょうか。
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兵法書『孫子』にも「敵を囲むときは一ヶ所退路を開けておかないと、かえってこちらが痛い目を見る」(超訳)といったことが書かれているくらいですから、はるか昔から変わらぬ人間の心理なのでしょう。
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