吉田松陰/wikipediaより引用

幕末・維新

吉田松陰30年の生涯をスッキリ解説!長州・萩の天才が処刑された真の理由

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藩主・敬親もホトホト困り果てながら

当時、藩では通行許可証、つまりパスポートのような「過書」という書類を発行しておりまして。
これを持ち歩かずに旅行をするのは、脱藩行為とみなされても仕方ないものでした。

江戸の松陰は、この「過書」発行を依頼するのですが……。
「発行を待っちょったら、宮部君との約束に間に合わんじゃないか!」
と、「過書」を持たずに旅行に出立します。

「宮部君、すまんが発行があるけぇちいと延期できんじゃろうか」
「宮部君、すまんが先に出立してくれ」
という選択肢があるにもかかわらず出発してしまう。

このあたり非常に不可解なのですが、私なりに考えてみますと……。

「“過書”という手続きは、所詮藩なり幕府の都合じゃ。自分は見聞を深めて、日本をよりようするために旅に出るんじゃ。日本>>>>>藩or幕府じゃ!」
なんてあたりかなあ、と思ったりします。
まぁ、松陰という人物は、常識で考えてしまうとワケがわからなくなってしまうのですが。

ともかく、動機はどうあれ、あまりにカジュアルに脱藩してしまった松陰。
藩主の敬親も、これにはホトホト困ったようです。

毛利敬親/Wikipediaより引用

部下の言うことに対して何でも「そうせい、そうせい」とGOサインを出すがゆえに「そうせい侯」なんてアダ名もある敬親ですが、松陰への甘さを見ていると、幼い頃から成長を見守ってきたという思いがあるのかもしれません。

現代でも、ジュニア時代から応援してきたアスリートや、子役から見てきた俳優を見て、
「おっ、泣き虫だったこの選手が、こんなに立派になっちゃって」
なんて思ったりしますよね。そういう気持ちがあるのかもしれません。

なにせ長州藩における藩主と松下村塾出身藩士の関係は、なかなか独特というか、甘さを感じます。
薩摩藩の島津久光が、精忠組出身者をコントロール下に置こうとしたものとは対称的。
どちらがよいのか、悪いものか、一概には言えませんが。

敬親としても、いくらなんでも松陰だけお目こぼしするわけにもいけません。
家禄を没収し、父親の監視下における「育(はぐくみ)」という処分を受けました。
しかも10年間は遊歴してもいいよ、見聞を広めておいで、と許可を与えてくれたのです。海よりも深い優しさじゃないですか。

ちなみに「松陰」とは号なのですが、彼にはもうひとつ号があります。
それは、
「二十一回猛士」
です。

どういう意味かというと、
「二十一回猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)を行う」
というものです。

その記念すべき初猛挙が、この脱藩。
やはり常人には計り知れない人物ですね。

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黒船来航と、さらなる「猛挙」

嘉永6年(1854年)、黒船が来航します。
当時、江戸遊学中だった松陰は、当然ながらショックを受けます。

ペリー来航/wikipediaより引用

そして浪人という立場ながら、
『将及私言』
『急務状議』
という意見書を藩に提出したのです。
中身は、幕府批判。攘夷しろ(=外国船を武力で打ち払え)という内容でした。

取り次ぎを願った者の配慮で、匿名で差しだされましたが、すぐに松陰の仕業だと判明。
「浪人の分際でけしからん奴じゃ!」

藩内から批判された松陰は、江戸の藩邸に出入り禁止とされてしまいます。
これが二度目の「猛挙」です。

松陰が一生懸命なのはよくわかります。
しかし、このあたりの話は、すでに幕府で何度も揉まれて終わったもの。
トップクラスの閣僚で議論を重ね、国際情勢やオランダ人の助言を分析、無謀な攘夷こそが国を危険に導くという結論だったのです。

萩から出てきた若年の松陰と、閣僚や西洋の知識がある幕僚の集団では、差があるのは当然といえましょう。

 

ポータハン号に「どうか連れて行きなさんせ!」

一方そのころ、松陰の師匠である佐久間象山はある計画を練っていました。

佐久間象山/wikipediaより引用

これからの時代、西洋について学ばねばならない。
そのためには留学生を派遣したが、許可が下りない。
そうだ、弟子の吉田松陰を密航させよう――というものです。

松陰は江戸を発つと、長崎に停泊中のロシア艦を目指しました。
しかし時既に遅く、出立したあと。

仕方なく宮部鼎蔵と共にペリーを暗殺計画を練ったものの断念。
それが可能であったかはさておき、もしも成功したら日米関係は最悪の方向に進んだ可能性があります。

そして安政元年(1854年)。
松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、小舟に乗ってポーハタン号へと近づきました。

「あんたたちの国で学びたい、どうか連れて行きなさんせ!」

熱意を込めて語るものの、アメリカ側に断られてしまいます。
しかし、松陰ら二人の熱意と知識欲に対し、彼らも大いに感銘を受けたのでした。

望みを断たれて戻った松陰らは、北町奉行で取り調べを受け、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。
これが、三度目の「猛挙」。

このとき、松陰はこう詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂
【意訳】こねえなんをすりゃあ、こねえな結果になると知ってはいるのだが、ぼくの大和魂は止められんのじゃ

 

野山獄から「松下村塾」へ

松陰は、連坐して捕縛された佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。

安政元年(1855年)11月からの獄中生活では、読書と思索に没頭。
入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織されました。

このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が生まれたのです。
講義を通して獄内の風紀は向上し、藩側としてはこのことに驚きました。約一年に及ぶ獄囚生活は、決して無駄にはなりませんでした。

藩は松陰の才能を認め、安政2年(1856年)末、病気保養を理由として、実家の杉家に戻すことにします。

松陰は自宅の狭い一室に閉じこもり、ここでおとなしく自学自習に励もうとしました。
そこへ父と兄がやって来ます。

「お前が獄中で行った『孟子』の講義録を読んだ。たいしたもんじゃ。これを完成させんのは惜しい。どうだ、自宅でも講義を続けてみんか?」

二人はそう言って、松陰に『孟子』の講義を委託。
吉田松陰による「松下村塾」が始まりました

松下村塾

以後、幕命により江戸に召喚されるまでの2年半、松陰は実質的な主宰者として後輩の育成指導に当たります。

ここで注意したいのは、松下村塾を始めたのは彼ではない、ということでしょう。
創始者は玉木文之進です。

「あれっ?」と思った方、おりませんか。
もっと長期間じゃないの? そんなに短いの? という印象ですよね。

実は、松陰の弟子たちはそれだけの短期間しか、指導を受けていないのです。

確かに彼は教育者でありますし、現在においてもその部分が大きくクローズアップされます。
が、実際には遊学、活動家としての歳月の方が長いのでした。

 

気鋭の「松下村塾」若者たち

松陰の主宰する「松下村塾」には、続々と優秀な若者が集まり始めました。

神童の誉れ高く、元は「明倫館」の教授です。
しかも、アメリカ船相手に密航を失敗した松陰は、萩ではちょっとした有名人であったのでしょう。

これが錚々たるメンバーでして。

高杉晋作
久坂玄瑞
吉田稔麿
・入江杉蔵
・野村靖
・久保清太郎
・前原一誠
伊藤博文

「松下村塾」は、表向き『孟子』を講義する漢学塾ですが、この時勢で昔ながらの学問だけでは追いつけません。

そこで、国の行く末に危機感を抱く、松陰自身の強い実学指向のもと、当時の世界情勢や国の実情について考え、討論する、熱血トークが特徴の場でした。

そういう意味では政治結社的な部分もあったわけです。
薩摩で言えば、大久保利通が主導した精忠組が近い存在でしょうか。

「松下村塾」の指導は、もはや伝説的とも言えます。

塾生たちも、松陰のひたむきさに感銘を受けるばかりでした。

手を洗っても拭くのは服の袖。
髪を結うのは二ヶ月に一度。
学問の情熱に賭けていて、眠気が襲えば夏ならば袖まくりして蚊に刺され、冬ならば裸足で庭に降りて走りました。

口調は激しく言葉が激烈なものの、仕草は優しく、ある時は塾生を驚かせ、ある時は塾生を大いに笑わせました。

エピソードにも事欠きません。

・自分に論戦を挑んできた久坂を諭し、入門させた話
・龍虎と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞を競わせ、互いに切磋琢磨させたこと
・松陰が喫煙をたしなめたところ、塾生が次から次へと煙管をヘシ折り、山になったという話
・「毒のある河豚を食べること」の可否について論じた話
・身分を問わず広く門戸を開いたこと……

ただし、身分についての話には注意が必要です。
確かに士分以外も塾生はいましたが、割合としては2割以下。8割以上が士分です。

松陰はじめ、弟子である高杉や久坂も、武士階級こそが民を率いて国難に立ち向かうべき、という考え型でした。
奇兵隊」には武士階級以外も参加していますが、人数不足を補うためであり、平等思想に基づくものではありません。

未来を憂い、国を率いる士分の若者を育てる場。
それが「松下村塾」でした。

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