阿部正弘/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

阿部正弘が有能すぎて死後に幕府が崩壊~勝海舟を見出した老中の実力とは

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幕末から大正までの動きを評して、作家の司馬遼太郎はこう書き残しています。

「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなものである」

うーむ。さすが大作家らしいキャッチーな言い回しで、なるほどそうかと頷きそうになります。

ただ
賛同できるか?
と問われたら即答できないモヤモヤもありまして。

維新の敗者である幕府や佐幕藩は、ともすれば「時代を見据えることもできない旧弊な人物ばかり」と思われがちですが、果たしてそうでしょうか。

歴史というものは時代によって捉え方が変わるものでして、現在、こうした「幕府派=全員凡人」という見方は修正されつつあります。
当時の記録を見ると、倒幕側の人間も、来日した外国人も、幕府派の中にも優秀かつ先を見据えていた人物がいたと見直されるようになったのです。

その代表的な一人が阿部正弘

ペリー来航時に幕府老中だった阿部は、かなりの切れ者。
先見の明がある人物だったのです。

 

幕末の動乱序盤で惜しまれる早期退場

阿部正弘について知るとまず驚かされるのは、その人生の短さです。

文政2年(1819年)に生まれ、安政4年(1857年)に死没――40年にすら満たない人生です。
若くして見いだされ、そして不惑を前に世を去るという、彗星のような人物でした。

活躍期間をみますと、豊臣政権下で官僚として活躍した石田三成とほぼ同じです。

幕末というのは短命の人物が多いため、それと比較するとさほど短くはないかもしれません。
しかし阿部の場合は、その才知が惜しまれる点と、幕末の動乱が本格化する前に世を去っている点が、より一層短命ぶりを感じさせるのです。

幕末序盤に出てきて、退場が早いという点では、島津斉彬徳川斉昭も同じ分類とも言えます。

彼らはみな、早期退場が惜しまれる人物でした。

 

若き藩主から老中へ

正弘は、備後福山藩主・阿部正精の五男として生まれました。

天保7年(1836年)、死去した兄の跡を継いで藩主になると、わずか18才で10万石の藩主に就任。
さらにその4年後の天保11年(1840年)、幕府から寺社奉行に指名されると、今度は天保14年(1843年)に老中に任じられます。

阿部家が三河時代からの譜代大名とはいえ、そこまで出世を遂げるのはやはり優秀な人物であったから。
20代半ばで日本のトップに君臨し、水野忠邦が復帰した時期をのぞいて亡くなるまで、彼は老中として尽くしました。

しかも彼は寛大な人物で、よく人の意見を聞きました。
たとえ相手が違う意見を持っていても、おおっぴらに反対するようなことはありません。
相手の長所や使えそうなところを判断し、採用していたそうです。

ただし、そうした部分が「八方美人」とマイナス評価を受けることもあったそうで。
いやはや人の評価とは難しいものですね。

 

1853年浦賀 黒船がやって来る

嘉永6年(1853年)、黒船すなわちアメリカ籍の艦船4隻が浦賀沖に姿を見せました。
大河ドラマで何度も見た、おなじみの場面です。

ペリー来航/wikipediaより引用

「あれが富士山か。美しい島だな」
船上で提督マシュー・ペリーは、くっきりと見えた富士山の姿を見て満足していました。
黒々とした大砲は狙いを定め、兵員は銃を構えて、戦闘態勢万全でした。

「なんだ、ありゃ……」
一方、漁師たちは、見たこともないような巨大な船を目にし、呆然としていました。
彼らは奉行に駆け込んで、目撃したものを報告。このとき、浦賀の奉行には通訳がきちんといました。

実は幕府は、アメリカの船が長崎ではなく江戸を目指してやってくるという情報を事前につかんでいました。
通訳も用意していたのです。

ただ……、現実逃避というか、日和見主義というか。
「来るかもしれないし、来ないかもしれないし……」
出来れば来ないで欲しいなあ、と希望的観測をうっすら抱いていたのです。

与力と通訳は小舟を漕がせて艦船に近づき、アメリカと交渉に入ります。

このとき、アメリカのフィルモア大統領は武力行使や日本侵攻を企んでいたわけではありません。
ただし、武力をちらつかせることで、有利な交渉に挑む「砲艦外交」であったことは確かです。

 

阿部は外国の脅威を斉昭に説いていた

実は、黒船来航の7年前の弘化3年(1846年)。
阿部は、バリバリの攘夷論者・徳川斉昭(徳川慶喜の父)に対してこんな書状を書いています。

阿片戦争のことを考えてみてもください。もはや欧米列強のアジア侵略は始まっています
・武力で勝利することはできません。無謀な攘夷を仕掛けて敗北すれば、かえって日本にとって恥となるでしょう
・外国船によって日本の通商を断たれれば、食料すら欠乏しかねません
・軍艦を作り、海防強化に取り組むのが、今早急に為すべきことです

いつかは欧米列強がやって来る。そのとき攘夷は無謀極まりない。
阿部は冷静にそう分析していました。

黒船来航は当然ショックではありますが、予想外のことではありません。
阿片戦争の知らせは当時の人々に大きな影響を与えていました。好奇心旺盛な知識人の多くが、危機が近いと感じていたのです。

この黒船来航時の老中が、阿部でした。

 

ついに来てしまったXデー

ついにXデーが訪れてしまった、そんな状況の黒船来航。

幕府閣僚は対応を協議し、とりあえずいくつかの藩に命じ、浦賀近辺の警備を固めさせます。
今更か、とは思いますけれども。

老中は、阿部一人ではなく、5人います。
しかし、実質的に頑張ったのは、首座であった阿部一人という状態。

とりあえず、相手の国書を受け取る。
それで帰ってもらえればいい……阿部はそう考えました。

実際にアメリカも、食料補給の都合上、長居はできませんでした。

浦賀には野次馬がウヨウヨと集まり、攘夷論を言い出しそうな人もいます。しかし、武力では追い払うことはできない。
それをわかっていた阿部に、
「これからは海軍だ、日本が自前で海軍を作るための組織が必要だ」
と力説したのが、勝海舟でした。

阿部はこの進言を受け入れ、勝海舟を登用。
勝のもとで「海軍伝習所」が開設されます。

長崎海軍伝習所/wikipediaより引用

 

ストレスが命を縮めた?

在任中にXデーである黒船来航があっただけでも相当なストレスでしょうが、事態はますます悪化します。

「安政の大地震」と呼ばれる群発地震や、コレラの流行など、災厄が立て続けに日本を襲ったのです。

安政の大地震を描いた様子/wikipediaより引用

まさしく踏んだり蹴ったり。
流石の阿部も音を上げて、堀田正睦(本稿はこの名で統一)に老中首座を譲ります。
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