桜田門外の変――。
それは普通、水戸藩あるいは井伊直弼の視点から描かれがちなテロリズム。
弾圧事件として有名な「安政の大獄」に対して勃発しましたが、薩摩も無縁ではありませんでした。
彼らは水戸浪士と共に、井伊直弼の襲撃だけではなく大規模な兵を伴った挙兵をも計画しておりました。
幕府の権威を失墜させたこの一大事件、本稿では有村兄弟に注目しながら読み進めて参ります。
牡丹雪舞う朝
安政7年3月3日(1860年3月24日)。
既に3月だというのに、江戸は珍しく雪が降っておりました。
関東特有の湿っぽい牡丹雪がちらつく、冷え込む朝。
この日は雛祭りで、多くの諸侯が登城することになっています。
彦根藩の門から出てきた井伊直弼を載せたお供たちは、防寒具を着ていました。
刀の柄や鞘にも袋がかかっています。
襲撃者たちは、その様子を見てほくそ笑んだことでしょう。
防寒具は反応を鈍らせます。
井伊家の行列は60名。対する襲撃者は18名。
数では劣るものの、悪天候が味方になりました。
計画、決行
変わらず雪が降り続く中、歴史に残る襲撃事件が、始まりました。
駕籠訴(幕府の有力者へ直訴すること)を装った刺客が、列の先頭に襲いかかり、まずは二人を斬殺。
「いったい何が起きている?」
井伊家の一行は、雪に遮られて前が見えません。ピストルの銃声が鳴り響いたのが次の合図でした。
異変に気づいた井伊家の者は、刀を抜き、敵を迎え撃ちました。
しかし、柄や鞘に袋を被せていたことが仇となって、なかなか抜けません。
籠の中で、井伊直弼は激痛に苦しんでいました。
銃弾は腰を撃ち抜き、もはや刀を抜いて臨戦態勢を取ることもできません。
それでも、何人かの彦根藩士は勇敢に戦いました。
二刀流の剣豪として知られた永田太郎兵衛。
そして河西忠左衛門らは力尽きるまで奮戦。
やがて駕籠を守る者はいなくなりました。
駕籠の外へ
丸裸になった駕籠。
襲撃者たちは次から次へと駕籠に刀を突き刺します。
髷をつかまれた井伊は、ついに駕籠の外へ引きずり出されました。
「おのれッ……」
それでも雪の上を這いずって、その場を逃れようとする井伊。
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そのときでした。
「キィエエエエエエエーッ!」
薩摩は薬丸自顕流特有の「猿叫」が響き渡ります。
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刹那、井伊の首は、雪の上を転がっておりました。
かくして、桜田門外の変――成就。
井伊の首を取った男、それは薩摩藩士・有村次左衛門でした。
「精忠組」の計画
遡ること2年前の安政5年(1858年)。
薩摩藩は煮え立つような状況でした。
黒船来航の後、薩摩藩内では水戸藩、長州藩と同じく、「日本をこのままにしておいてはいけない!」と立ち上がる若者が出てきています。
大久保利通をリーダーとしてまとまった彼らは「精忠組」と呼ばれました。
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若者ゆえに思いは熱い。
熱情は過激さへと向かいやすく、ただ憂国の志を語っているだけでは済まなくなってしまいます。
彼らの怒りの矛先は「安政の大獄」を起こした井伊直弼に向かいました。
むろん殺すつもりでした。
弾圧よりも懐柔
「井伊大老の暗殺計画とな?」
暴走を始めた精忠組の「井伊暗殺計画」は、幸か不幸か藩の上層部に届きました。
計画の骨子はこうです。
志を同じくする水戸藩士たちと手を組み、井伊直弼を殺害。その首を掲げながら3,000の兵を率いて上洛、天皇の協力を得て幕府に政治改革を迫る――というものです。
なんと危うく杜撰な目論見なのか。
このまま薩摩の若者たちが暴走しては藩にも害が及んでしまう――と、ここで絶妙な手を繰り出したのが島津久光です。
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若き藩主・島津忠義の父であり「国父様」と呼ばれていた実力者。お由羅騒動の由羅の息子であり、共に島津斉興を父とする島津斉彬の弟でもありますね。
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久光が絶妙だったのは、単純に弾圧しなかったことでしょう。
彼は若き精忠組の計画、行動に理解を示しつつ、融和策でもってコトに臨みました。
「その志は理解する。いつか藩をあげて、お前たちとともに行動をすることも約束する。ただ、最善のタイミングをはかる必要がある。それまで決して暴走してはならない。慌てるなよ」
と、猛犬に首輪を付けるように、巧みに精忠組をなだめました。
そして、藩の外に出ていた者を薩摩まで呼び返したのです。井伊を斬ると熱くなっていた精忠組も冷静になり、襲撃計画をやめて次々と薩摩に戻りました。しかし、帰国を良しとしなかった者もおりました。
有村雄助・次左衛門兄弟です。
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