慶応四年=明治元年(1868年)5月3日、東北諸藩の間で【奥羽越列藩同盟】が結成されました。
江戸城の無血開城や会津戦争のインパクトに隠れて比較的目立ちませんが、戊辰戦争においては非常に重要な存在。
前後の時系列を確認しつつ、注目してみましょう。
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1分でわかる戊辰戦争の流れ
まずは、鳥羽・伏見の戦いからの流れをざっと追いかけましょう。
①鳥羽・伏見の戦い
↓
②江戸城無血開城
↓
③奥羽越列藩同盟結成 ←今日ここ
↓
④会津戦争
↓
⑤函館戦争により戊辰戦争終結
実際には戦線があっちこっちに分かれて同時進行していたので、もっと複雑なんですが……特に大きなできごとを並べるとこんな感じです。
それ以前に起きていた【鳥羽・伏見の戦い】や【江戸城無血開城】については、以下に詳細記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
鳥羽・伏見の戦いで注目すべき慶喜の大失態~幕府の敗北は当たり前?
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実際は流れた血も多かった江戸城無血開城~助けられた慶喜だけはその後ぬくぬくと?
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では、本題へと参りましょう。
謝っても許されないのか ならば
さて、前置きが長くなりましたがいよいよ本題です。
会津・庄内両藩は、幕府の要職についていたり「尊皇攘夷派ブッコロ!」なことをしていたため西軍(明治新政府)に睨まれており、武力で潰される恐れがありました。
そこで会津藩主・松平容保(かたもり)が隠居。
新政府へ恭順する意思を示しましたが、新政府に「そんなんでチャラになると思ってんの?^^」(※イメージです)と難癖を付けられます。
もともと孝明天皇に頼られていたのが会津藩・松平容保なんですけどね。
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庄内藩も同じように新政府へ恭順の意を示したところ、“市民”が「なんでウチが謝らなきゃいけないんですか! 何も悪いことしてないのに!」と奥羽鎮撫総督(新政府側の東北担当部署)に訴えたため、かえって武力討伐の口実を作ってしまいました。
一部の人は自藩の一部だった北海道の領地をプロイセンへ譲る代わりに助力を頼んでいたのですが、これはビスマルクに「ウチ中立なんで」という理由で断られています。
この流れによって、会津・庄内藩は「あれ? これもう話し合っても解決できなくね?」と悟り、会庄同盟を結成しました。
要するに武力で抵抗――というわけです。
そしてお偉いさんよりも先に、もっと下の人々が戦をおっぱじめてしまいました。
奥羽越列藩同盟が結ばれる
庄内藩主・酒井忠篤は、その様子を聞いてビックリ仰天。
すぐに撤退を命じましたが、官位を剥奪されて「朝敵」になってしまいます。
こうした中、奥羽鎮撫総督に対し、他の東北諸藩が願い出ます。
「会津藩も庄内藩も好きでやったわけじゃないんですよ。どうかもう一度話を聞いてやってください」
これに対して新政府側は、既に朝敵認定をした後ですから、「やーなこった」(※イメージです)と突っぱねました。
そもそも内戦を引き起こす武力倒幕は西軍サイドでも疑問視されていたのですが、西郷隆盛らが強引に推し進めたという見方が濃厚です。
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そして奥羽鎮撫総督のとある人物が解決(物理)のため増援を願い出る手紙を上方へ送ろうとし、それを持った密使が東北諸藩側の人間に捕まるという出来事がありました。
まあ、当然のことながら中身を見ますよね。
その中に「奥羽皆敵」と書いてあったため、諸藩は見事ブチギレ!そして……。
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