明治三年(1869年)11月27日は、高杉晋作でお馴染み【奇兵隊】への解散が命じられた日です。
幕末には大活躍していた部隊の一つが解散させられるからには、さぞ深い理由があった……。
と思いきや、そうでもないというかせつねぇというか、現代のオフィスワーカーが思わず涙してしまいそうな経緯でした。
まずは奇兵隊がどんな部隊だったのかという点から振り返ってみましょう。
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町人も農民もそして武士もいた奇兵隊
皆さんご存知の通り、奇兵隊は長州藩の高杉晋作が
「藩の内部を作り変えるついでに、全く新しい部隊を作ろう! 藩士でもそれ以外でも来たい奴は来い!」(超訳)
という実に太っ腹なモットーを掲げて作った新しい組織でした。
「武士以外を集めた身分差のない部隊」
なんて言われることもありますが、実際は武士も町人も農民入り混じっていて、身分はなくても役職はあったそうです。この辺は今の会社組織と似たような感じですね。
コネでどうにかなっちゃうのも……まぁその話は後ほど。
「奇兵」というのは「正規兵」の対義語として作ったものだそうです。
「奇」という字から「奇妙」とか「変わった」というイメージを持つ方が多いかと思うのですが、漢字としては「普通を飛び越えて優れている」「珍しい」という意味もありますので、高杉は恐らくこのあたりの意味を込めてつけたのではないでしょうか。
「無知」は強み――ぐんぐん戦術を覚える庶民兵
「もとが素人の寄せ集めじゃロクに戦えないだろ」
なんて思われる方もいらっしゃるかもしれません。
一方、200年以上も続いた太平の世のお陰か、武家の人間だって実戦を知りません。
もちろん教養としての武道や兵法を学んではいましたが、西洋嫌いの世論も相まって、新しい知識を入れるには向かなかったのです。
「全く新しいことをやるんだから、誰でもいいじゃん? やる気ある奴にやらせようぜ」
そう考えた高杉の予想通り、町人・農民達は驚くべき速さで西洋式の武器や戦術を飲み込んでいったとか。新品PCのメモリに余裕があるのと同じですね。
そもそも、なぜそんなことができたのかというと、当時の長州藩がかなり窮地にいたからです。
薩摩藩や幕府との対立が過ぎて、京都でドンパチをやらかしてしまい、あろうことか【禁門の変】で御所に鉄砲を撃ちこんでしまい、「お前ら朝敵な!」というレッテルを貼られてしまっていました。
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禁門の変(蛤御門の変)御所に発砲した長州と天皇の意を汲んだ会津の因縁が
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これを何とかするためには、よほどの切れ者を連れてこなければ……と、そこで選ばれたのが「イギリス公使(ピー)しようぜ!」(超訳)その他で投獄されていた高杉晋作でした。
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