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薩摩に五代あり
慶応2年(1866年)、英国から帰国した五代は、御小納戸奉公格の御用人席外国掛に就任。薩摩藩の交易や商事を一手に握ることになりました。
このころにはると「薩摩藩の五代」といえば知られた存在です。
グラバーから武器を買い付け、長州藩には下関での商社創設を打診しています。
桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作らと、薩長合弁会社を作ることを計画しました。
土佐藩の坂本龍馬率いる「海援隊」とも協力しようとしていました。
長崎には、グラバーと協力して「小菅修船場」、現在「ソロバンドック」と呼ばれている船の修理場を作っています。
多才な五代は、その名が一気に知られるようになっていきました。
慶応3年(1867年)、倒幕前夜からは五代は引っ張りだこになります。
倒幕を支援――というより、外国人とのモメ事解決に引っ張り出されるようになったのです。
明治元年(1868年)には、新政府の参与職外国事務掛に就任。
・神戸事件(備前藩士によるフランス水兵襲撃事件・1868年)
・堺事件(土佐藩士によるフランス水兵襲撃事件・1868年)
・パークス襲撃事件(天皇の謁見に向かう途中で暴漢・1868年)

パークス襲撃事件を描いた一枚/Wikipediaより引用
一歩間違えれば列強と大変なことになりそうな事件を、うまく処理したのが五代でした。
戊辰戦争には参戦しておりません。
しかし、縁の下の力持ちとして、五代は活躍していたのです。
五代が大阪にきた
明治2年(1869年)。
五代は、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致しました。
初代大阪税関長としてスタートを切りますが、会計官権判事とされてしまいます。
赴任先は横浜。実質的には、左遷でした 。
どうも新政府は、五代にとって居心地が悪かったようです。
戊辰戦争で血を流してきた武勲派からすれば、五代のような男は一体何だ、というワケです。
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能力云々以前より、血を流した自分たちを優遇せよ、ということでしょう。
五代も五代で、そんな空気の蔓延する宮仕えにうんざりしてしまったのでした。
退官すると、大阪に戻ることにします。
「政府には優れた人間がいるが、民間にはおらん」
それが五代の考えでした。
五代は下野して大阪に向かうと同時に「金銀分析所」を創設。
当時の貨幣制度は混沌としてピンからキリであり、これに目をつけた海外が、格安で良貨を得ようとしていました。
中世の時代にも、悪貨を避けて良貨のみを得ようとする撰銭(えりぜに)が行われ、これにいち早く対処できた織田信長が経済流通の発展を遂げた――なんて話もありますが、明治初期だって本質は同じ。
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貨幣の適切な選り分けは、国内外の商取引のためにも、経済発展のためにも急務とされました。
次に乗り出したのが、鉱山経営です。

五代友厚が加藤正矩に命じて開発させた神子畑鉱山/wikipediaより引用
海外で良質な金銀を取り出す冶金術を習得していた五代は、休眠状態の鉱山に手を入れ、大きな利益を得るようになります。
そして鉱山王の道を――。
五代はその本拠として、明治6年(1873年)に「弘成館」を創設しました。
それは大久保利通が「こげん大事業は、五代さぁでなにゃでけん!」と賞賛するほど規模と成果があがるのでした。
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商業大阪のヒストリーメーカー
事業家としての五代の才能は、おそろしいほど多才でした。
日本経済発展の立役者。
東の代表が渋沢栄一だとすれば、西は五代友厚と言っても過言ではないでしょう。
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次々に事業を立ち上げるのですが、それがもう半端じゃない規模でして。
ザッと挙げますと……。
◆英和辞書刊行(薩摩辞書)
◆製藍業「朝陽館」設立(西南戦争の軍服を染めた、明治16年閉鎖」
◆大阪製銅会社設立
◆神戸桟橋会社(貿易会社)
◆大阪商船会社設立
◆堂島米会所再興
◆大阪株式取引所設立
◆大阪商法会議所創設(現在の大阪商工会議所)
などなど……彼の中には一体いかほどの才能があるのか。舌を巻くしかありません。
薩摩藩士のエネルギーのほとんどが戦場や政争へ向かうなか、彼だけは産業経済へすべて没頭させたかのような勢いです。

大阪商工会議所前の五代友厚/photo by ごーちゃん Wikipediaより引用
御用金分捕りのど真ん中へ
もちろん最初からラクではありませんでした。
五代が乗り込んだ当時、大阪の産経はボロボロ。江戸時代を通して蔵屋敷が建ち並んでいたこの地は、江戸期を通してジワジワと相対的な重要度は下がっておりました。
たとえば、醤油。江戸時代前期、醤油は大阪でのみ作られていました。
それがいつしか関東や、それ以外の地域でも生産が始まり、続けて酒や味噌、綿花栽培なども拡散していきます。
全国各地の藩が、それぞれ開発を進めた結果、大阪の優位性は徐々に低下していったのです。
さらに武家に貸した借金を、踏み倒されるような困難もありました。
例えば、五代の出身地・薩摩藩は首までドップリ借金漬け。
その財政改革を進めたのが西郷どんやお由羅騒動でお馴染みの島津斉興であり、その懐刀・調所広郷でした。
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彼らは大阪商人にとってはトンデモナイ奥の手を使います。
現代で言えば数千億円規模をチャラ同然にしたのです。
そんな大阪は、幕末になるとさらなる危機に直面します。
御用金分捕り――です。
倒幕派の薩摩藩や土佐藩が、幕府と関係の深い商人に目をつけ、金を強奪したのです。
この災難には、相当な大商人でなければ乗り切ることができず、倒産する商人も相次ぎました。
彼ら大阪商人は「薩摩に金をぶんどられるくらいなら、ドブに捨てたほうがええわ……」と嘆くほどだったと言います。
五代にとっては罪滅ぼしの気持ちも多少はあったかもしれません。
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