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【五代友厚】
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見通し鋭すぎるがゆえに藩内で浮いてしまう
しかし、勝手にイギリスと戦った薩摩に、幕府からは厳しい目を向けてられてしまいます。
幕府のみならず、薩摩藩士からも、五代らは冷たい目で見られてしまいました。
「イギリスの捕虜になうとは、武士の風上いも置けん奴だ」というわけですね。
そこで五代らは、松本良順らの世話になり、変名での亡命生活を余儀なくされます。
帰藩が叶ったあとも、彼は冷たい目にさらされました。
維新のあと、政府からも西郷たちからも距離があったのは、こうした経歴のせいなのです。
かくして苦い経験を積み重ねていた五代。
そんな彼にとって薩英戦争は、それでも、ある意味歓迎すべきものでした。
「尊皇攘夷をとなえ、同志を集め、自分たちがこん国の政治を掌握しじぁよな大言壮語を吐く奴がいうが、とんでん馬鹿者たちだ。
こや民を迷わせ、国政を妨げ、内戦を引き起こし、インドや中国のごとこん国を駄目にしてしまう考え方だ。
今度の戦争でイギリスに負けて、馬鹿者どもの目も覚めたな。
今とうべき政策は、開国、交易、富国強兵なのだ」
五代はそう確信していました。
松下村塾、水戸天狗党、そして薩摩の精忠組も形無しといいましょうか。
ここまでズバッと考えるからこそ、藩内で浮いていたのかな、と思います。
しかも、五代の言うことは正しいのです。
念願の英国留学
文久4年(1864年)に帰藩した五代。
その翌年となる慶応元年(1865年)、薩摩藩では五代の構想第一弾が実現しました。
薩摩藩遣英使節団として、念願の渡英を果たしたのです。
五代は薩摩藩第一次英国留学生たちの案内役として、イギリス各地を視察します。
グラバーとの親交を生かして武器を購入するだけではなく、五代は産業にも興味関心を抱きました。
このとき、紡績機械を購入。
こうした行動は、まさに島津斉彬の意思を継ぐ者と言えます。
さらに彼の構想は広がり、大きな「カンパニー」を作って貿易する夢が膨れあがってゆきました。
まんま龍馬ですね。
薩摩に五代あり
慶応2年(1866年)、英国から帰国した五代は、御小納戸奉公格の御用人席外国掛に就任。薩摩藩の交易や商事を一手に握ることになりました。
このころにはると「薩摩藩の五代」といえば知られた存在です。
グラバーから武器を買い付け、長州藩には下関での商社創設を打診しています。
桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作らと、薩長合弁会社を作ることを計画しました。
土佐藩の坂本龍馬率いる「海援隊」とも協力しようとしていました。
長崎には、グラバーと協力して「小菅修船場」、現在「ソロバンドック」と呼ばれている船の修理場を作っています。
多才な五代は、その名が一気に知られるようになっていきました。
慶応3年(1867年)、倒幕前夜からは五代は引っ張りだこになります。
倒幕を支援――というより、外国人とのモメ事解決に引っ張り出されるようになったのです。
明治元年(1868年)には、新政府の参与職外国事務掛に就任。
一歩間違えれば列強と大変なことになりそうな事件を、うまく処理したのが五代でした。
戊辰戦争には参戦しておりません。
しかし、縁の下の力持ちとして、五代は活躍していたのです。
五代が大阪にきた
明治2年(1869年)、五代は、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致しました。
初代大阪税関長としてスタートを切ったところ、会計官権判事とされてしまいます。
赴任先は横浜。実質的には、左遷ですね。
どうも新政府は、五代にとって居心地が悪かった。
戊辰戦争で血を流してきた武勲派からすれば、五代のような男は一体何だ、というワケです。
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能力云々以前より、血を流した自分たちを優遇せよ、ということでしょう。
五代も五代で、そんな空気の蔓延する宮仕えにうんざりしてしまったのでした。
退官すると、大阪に戻ることにします。
「政府には優れた人間がいるが、民間にはおらん」
それが五代の考えでした。
五代は下野して大阪に向かうと同時に「金銀分析所」を創設。
当時の貨幣制度は混沌としてピンからキリであり、これに目をつけた海外が、格安で良貨を得ようとしていました。
中世の時代にも、悪貨を避けて良貨のみを得ようとする撰銭(えりぜに)が行われ、これにいち早く対処できた織田信長が経済流通の発展を遂げた――なんて話もありますが、明治初期だって本質は同じ。
貨幣の適切な選り分けは、国内外の商取引のためにも、経済発展のためにも急務とされました。
次に乗り出したのが、鉱山経営です。
海外で良質な金銀を取り出す冶金術を習得していた五代は、休眠状態の鉱山に手を入れ、大きな利益を得るようになります。
そして鉱山王の道を――。
五代はその本拠として、明治6年(1873年)に「弘成館」を創設しました。
それは大久保利通が「こげん大事業は、五代さぁでなにゃでけん!」と賞賛するほど規模と成果があがるのでした。
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